しがみつきが自由を奪う

もしもあなたが自由を求めてやまないのであれば、あらゆるしがみつきをできるだけ小さくすることが必要です。

シンプルに、自由とは何にもしがみつかないこと。つまり、自由は無執着を意味するのです。

それは当たり前のことですね。何かに執着してしまえば、そこで流れが滞ってしまうのですから、あなたは縛られることになるのです。

自由というのは、イメージで言えば川の流れに無抵抗になって、ただ流されるがままでいることです。

もしも、今通り過ぎた景色をもう一度見たいと思ってしまったら、川の流れに逆行しようとするかもしれません。

岩場にしがみついて、流れないようにするかもしれません。川はドンドン流れていくのですから、過ぎ去ったことに想いを馳せるだけでも執着が生まれます。

そしてこの先どんな流れになるのだろうと未来を心配するだけでも、そこにも別の種類の執着が生まれるのです。

緩やかな流れが来て欲しいなとか、こんな景色のところに行きたいと願えば、つまりその期待が自由な心でいられなくしてしまうのです。

無執着は未来に対しては期待がないことを意味します。さあ、どんなことにどれほどのしがみつきをしているのか、じっくり自分の内面を見てあげることです。

そして気がついたものから順番に、少しずつでも握っている拳の力を緩めてあげるようにしてみることですね。

自然の摂理 その2

昨日に引き続き、今回は昨日の宝石蜂よりももっと小ぶりな体長数ミリのとある蜂の生態についてです。

この蜂は、ある蛾の幼虫(イモムシ君)の体内に直接卵(80個程度)を産み付けるのだそうです。ここまでは、寄生蜂のごく普通のやり方だそうで。

イモムシ君の体内で好きなだけ新鮮な内臓を食い尽くして、スクスクと成長していった蜂の幼虫は、サナギになるためにイモムシ君の体外へと出てきます。

と、ここからがこの蜂に特有なことが起こります。何とイモムシ君をギリギリ死なないようにしておくのです。

そして何と、サナギを狙って昆虫などが近づいてくると、イモムシ君が身体を揺すって昆虫を振り払ってくれるのだそうです。

つまりは、イモムシ君は自分の内臓を食い荒らされた挙句、彼らを残り少ない命を使って懸命に外敵から守ってあげるわけです。

サナギから成虫になった蜂たちが飛び立って行った後に、ようやくイモムシ君は静かにその息を引き取るのだそうです。

いつも穏やかなイモムシ君が、なぜサナギのボディガードのような振るまいをするのかの詳細は分かっていないそうですが、一つのヒントがあるのです。

それは、蜂の幼虫のうちの数匹は、イモムシ君の体内に残って何やらやっているらしいのです。この子たちは、サナギになることを諦めた勇気ある子たちなのですね。

きっとイモムシ君の筋反射を操って、外でサナギになった兄弟たちを守ろうと頑張っているのでしょうね。

とはいえ、散々な目に遭ったイモムシ君が一方的に一生を台無しにされたことは確かなのです。

こうした自然の摂理が作りだした物語が、今この瞬間も地球上では無数に起きているのです。やはり、神の摂理と呼びたくもなりますね。

自然の摂理ってエゲツない?

毎年気候が暑くなると台所などで遭遇してしまう、あの素早く動く黒光りした虫(以後「G」と表記します)がいますね。

多くの(特に)女性が異常とも言えるような怖がり方をしてしまう例の奴ですが、聞くところによると数億年間あの形でずっと生き抜いて来たそうです。

それにはきっと明確な理由があるはずで、一言で言ってしまえば生物としての完成度が非常に高いということだと思っています。

それと比べたら、人類なんてほんの産まれたての赤ちゃんのようなものです。ただそんな「G」にも天敵のような存在がいるのだそうです。

それは世にも美しい色をした宝石蜂で、彼らは自分よりも大きくてすばしこい「G」に針を刺して、前足を少し麻痺させるのだそうです。

「G」の動きがゆっくりになったところで、今度はもっと正確に決まった部位に再度針を刺して、彼らを従順な性格に変えてしまうのだとか。

奴隷と化した「G」は、蜂に連れられてその巣穴の中に誘導されるのです。そこで主人となった蜂は、「G」の足の付け根に卵を産みつけるのです。

そして蜂は外から穴の入り口を塞いでしまいます。穴の中では蜂の卵が孵化すると、「G」の体内に入り込んでその新鮮な内臓を食い尽くすのです。

蜂の幼虫がサナギになる頃、ようやく死んだ「G」の身体が今度は硬いヨロイのようになって、無防備なサナギを守ることになるのです。

サナギから成虫になった蜂は、「G」にお礼も言わずにその殻を突き破って立派に巣立っていくのです。そしてまた、新たな「G」の生捕り&奴隷作戦が始まるのです。

自然の摂理には善も悪もありませんが、「G」の立場から見れば、理不尽極まりないのです。一方で、全体性で見ればこの完璧なプロセスを驚嘆するのみですね。

役割を重くみないこと

この世界は、とかく役割でできているのです。人間だけに限らず犬でも番犬と言われるし、猫ならネズミを取る役目が昔はありました。

ただし、動物は自分に与えられた役割を自覚してはいません。そこは私たち人間とは根本的に違うところですね。

私たちは、幼い子供の頃であろうと何かしらの役割を担ってきました。それは家族から与えられることもあるし、自ら役割を作ってしまうこともあるのです。

親を喜ばせる役割、親に世話をさせてあげる役目、家族の不仲の間を取り持って一家離散にならないようにする役割。

それ以外にもありとあらゆる役割を担って生きてきたのです。そして社会に出れば、それがもっと明確になってくるのです。

役割が悪いということではないのですが、あまりにもそれを重く受け止めてしまうと、人生が不快なものになってしまいます。

家や墓があってもそれに執着せずにいて、気持ち的には家なしで生きること。社会の中にいて、社会に染まらずに生きるのです。

群衆とともに行動をする一方で、決して群衆に巻き込まれない生き方をするのです。どんな役割もあなたを自由にはしてくれないからです。

役割を放棄するのではなく、あたかもひとりであるかのように生きること。このバランスはとても難しいかもしれませんが…。

無邪気=愛=自由

幼子はみんな無邪気に生きていますね。それが私たちの本質だからです。そしてそのエネルギーは愛でできています。

もしもその子が無邪気なフリをするようになったら、要注意です。そもそもフリなどする必要のないのが無邪気さだからです。

どれだけ長く、大威張りでその無邪気さを通して生きていられるのか、それはその子の生活環境によって大きく異なってしまうはずです。

毎日の生活の底辺に優しさや安心が感じられるなら、いつまでも無邪気さは消えずに残るはずです。

そしてそういった子は、大人になるにつれて社会人としての顔を身につけるようにはなるものの、やはりその人には無邪気さのエネルギーが漂っているのです。

その原動力が愛であるので、社会というルールの中にありながらも、自由でいられるのです。愛は自由とともにあるからですね。

もしもあなたが愛しい人に対して、その人の自由を認めないと言うなら、あなたの愛が愛以外のものでできていることを知ることです。

その場合には、あなた自身も自分に自由を与えていないことに気づくことです。あなたの無邪気さがずっと隠されてきたということを物語ってもいるのですね。

戦いの人生の末路

毎日の生活を、出来るだけいつも穏やかに過ごせたらいいなと思っているのは、私だけではなはずです。

ところがその一方では、絶対負けたくない、勝って相手をギャフンと言わせたいとも思っているのです。

一つのマインドの中に、こうした相反する思いが同時に存在しているのですから、マインドというのは激しく分裂してると言わざるを得ません。

何か理不尽な目に遭った時に、上記のどちらが表面化するかで全く違った言動をすることになりますね。

穏やかでいたいのでしたら、その理不尽さを丸ごと受け止めることです。受容してしまえば、遭遇したことにマインドは影響されずにすみます。

一方、自分の正しさでその理不尽さを一刀両断することが出来れば、戦いに勝っていい気持ちになることができます。

但し、そこには何かしらの戦いが起きているので、勝敗の決着が付くまでは穏やかでいることはできません。

その場合、もしも負けるような事にでもなってしまったなら、最悪なマインドの状態になってしまいますね。

いつも自分のマインドを監視しつつ、受容しようとしているのか、勝とうとしているのか、気づいていてあげることは大切なことだと思います。

きっと長い目で見れば、受容する方が圧倒的に上質な人生になるはずですね。戦いの人生の末路は敗者と決まっていますので。

信念はゴミ箱へ

この社会では信念も持っている人の方が立派とされています。確かに、何かコトを成そうとしたら、固い信念があったほうが有利な気がします。

けれども、信念と言うのは所詮は思考であって、それも正しさと頑なさに包まれた厄介なものです。

信念を持っていると、その裏側にはいつも不信の念があるのです。それは当然のことで、その信念に反するものに対しては全て不信の念が起こるのです。

信頼がどんな形の容器にもすぐに入っていける水のようだとすれば、信念はゴツゴツとした岩のようなもの。

当たると痛いし、近くにあると常に異物感があるのです。水のような柔軟性、従順さは微塵も感じられません。

不信に対して類似語としては疑いという言葉があるのですが、この二つは似て非なるものなのです。

信念の裏返しとしての不信感に対して、疑いというのはとても純粋なものです。幼児がなぜ?を連発するあれですね。

信じてしまうと疑いはやって来なくなってしまいます。素朴で純粋な疑いを持ち続けている人は瑞々しい感性を持っている人かもしれませんね。

「癒しから覚醒へ」とは?

自分を癒していくということに興味を持ち始めてから、もうすでに20年以上が経とうとしています。

インナーチャイルドなんて言葉もそれまで知らなかったし、感情というのは溜まるものなんだというのも、それまでは全く考えたこともなかったのです。

小さな頃の自分はどうだっただろうと思い返そうとしても、それほど明確な記憶が残っているわけではないので、これは苦労するなと思ったのを覚えています。

ただ、少ない記憶の断片を少しずつ繋ぎ合わせていくうちに、自分の中に「僕は悲しいんだよ」と言う子がいるのに気づきました。

本当にそういう口調で静かに訴えているのです。その子は、今でも心の奥底にいて同じことを言っているように感じます。

もちろん、そのエネルギーはとても小さくなってしまってはいるので、普段は全く気づくこともないのですが、耳をすませば微かに聞こえてくるのです。

何で悲しいのかなあと見てあげると、色々な原因が見えてきたりするのですが、でも一番根っこにあるものは、きっと自分らしく生きることができなくなったことを嘆いているのだと思うのです。

自我の発達とともに、それまでの自由奔放さが影を潜めて、無邪気で楽しかった時間はもう戻ってこない現実を憂いているのだと。

大人になった自分も自我として生きているので、その子を癒すにも限界があるのです。心の中だけでも彼を自由にさせてあげたいと思いますね。

それはそれとして、今後はずっと自分の中心にこっそり控えてくれていた自分の本質に気づいて、そこからも生きる練習をすることなんだろうなと思っています。

これこそが本やこのブログの題名でもある、「癒しから覚醒へ」の意味なんです。

ホンモノかニセモノか?

もしもあなたという個人がニセモノであるなら、あなたはニセモノに囲まれながら、ニセモノの中で生きていくことになるのです。

ニセモノというのは、実在しないということです。あるいはその存在が一過性のものであるということです。

実際に実在しなくても、実在しているとしか思えないようなものって、たくさんあるのです。その最たるものが、私たちの自我ですね。

あなたがホンモノを見たい、ホンモノに囲まれて過ごしたいと願うのなら、あなた自身がホンモノである必要があるということです。

ホンモノは一過性ではなく、反対に永遠のものであるということ。そのためには、非存在でなければなりません。

あなたが非存在であるときに限って、そこにはどんな変化を起こすものも入り込むことができないし、存在がなければ時間も介入することができないのです。

ホンモノである非存在のあなたの本質からこの世界を見るとき、それがどんなに酷たらしいものであろうと、何であれ受容することになるのです。

善も悪も、正も不正も、不思議と問題にはならないのです。肯定も否定もないので、ただあるがままを受け容れることになるのです。

一瞬でもこれを垣間見ることができると、自我もそれなりに影響を受けるようで、不安や恐怖などが小さくなって、ひとりでに防衛も少なくなるのだと思います。

要するに良いか悪いか、正しいか間違っているかなどではなくて、ホンモノかニセモノかにかかっているということですね。

ただ見ることの難しさ

私たちにとって、ただ見るということがとても難しい理由は、自我が見ていると思い込んでいるからなのです。

自我はただ見ることが出来ないのです。自我は思考(言葉)で出来ているので、見たものを好きなように変えてしまうのです。

例えば、向こうから身長170cmくらいの男性が歩いてくるのを見て、近づいて来るにつれてその姿は大きく見えるのです。

けれどもその人の身長は170cmであり続けるように補正するのです。逆に遠ざかって豆粒くらいになっても、170cmの人として見るのです。

こうした補正は自我が自動的にやっていることなのです。もしも自分の中心から、自分の本質から見るならどうなるか?

そこにはどんな思考も感情も何もないので、その人の姿が大きくなったり、小さくなっていくのをただ見ることになるのです。

本質から見ると、過去や未来が混入してくることもないし、そこに遠近法も介在することがありません。不思議な世界が展開されているのです。

もしもあなたが散歩をしているなら、あなたの自我は「私が歩いている」姿を見るでしょう。では本質はその時何を見るのか?

左右の足が忙しく動いていて、周囲の景色がゆっくりと後方へ向かって移動するのを見ることになるのです。

幼な子が飛び跳ねたり、クルクル回っていつまでもケラケラ笑い続けるのは、周囲の景色がとんでもない動きをするさまを純粋な目で見ているからです。

それを面白がれるのは、その子に自我がでっち上げられるまでの短い間だけのことなのですね、残念ながら。

もうお分かりのことと思いますが、自我に見たままをただそのままに見ることは不可能なことなのです。

そこを改善しようとするのではなく、自我が見る代わりに本質が見ていることに気づくこと。その結果は、ただあるがままを見ることになるのですね。