物事は見たままに在る

ブッダはかつて、「行為はあるが、行為者はいない」と言ったのです。つまりこの世界には、私たちが思い描くような自律的な個人などいないということです。

肉体はあるけれど、それは木や岩などと違いはないということです。その肉体の顔の部分に二つの目があるのは事実です。

けれども岩が何も見ていないのと同様に、その二つの目によって、世界を見ている誰もいないということです。

自我というのは思考による仮想的なものであって、その思考の全ては他人からやってきたものなのです。

他人の自我があなたの自我を作ったと言ってもいいのです。その自我は、身体のあたりに自分がいると思い込むことになったのです。

そして二つの目を通して、外の世界を見ているということにしたのです。真実はどうかと言えば、あなたの本質が見ているものをただ横取りしているに過ぎません。

自我そのものは刷り込まれたものというよりも、与えられたものです。その後、今度は自我が刷り込みによって肥大化して行ったということです。

こうした複雑な自我の思考体系を簡単に傍に退けるなど到底無理な話です。だから、まずは自己の中心から見るという練習をすることです。

どれほど自我に埋もれてしまっていたとしても、真実は消えて無くなることはないので、安心してじっくりと取り組むことができます。

少しずつですが、亀の歩みのように少しずつ、ただ見えているように物事があると気づけるようになるまで、練習を継続することですね。

自意識と自己意識

少なくとも地球上では、人間だけが自意識を持つようになったのですが、それには自我の存在が決定的に必要だったと思われます。

何かの拍子に奇跡的に自我が生まれ、それが長い年月をかけて世代を超えて次第に自意識を持つようになったのでしょう。

複雑な言葉を使えるようになったことも、自我が驚異的に発達できた理由ではないかと思っています。

言葉は、思っている以上に私たちを思い込みの世界に連れていくのです。私たちは他人の言葉の罠にかかって、深い刷り込みの中で生きているとも言えるのです。

自意識が生まれたおかげで、自分は今この人を愛しいと感じているとか、自分は今怒っているとか、すごく楽しい思いをしていると自覚することができるのです。

その一方で、自分もいつかは死ぬことになると思ったり、自分と他人を比較して苦しんでみたり、自意識を持つことによる苦悩も計り知れないものがあるのです。

ところで自意識とは、外側に向いていた意識を180度向きを変えて、内側に意識を向けている状態のことです。

ただし、内側に向けた意識のターゲットはあくまでも自我なのです。自意識とは自我に向けた意識のことなのです。

それに対して、自我を通り越して自分の本質の中心に意識を向けることを自己意識と呼びます。

自己意識とは、自己の本質がそれ自体に気づいている状態のこと。それ自体は非存在であり、宇宙の遍く存在を丸ごと包含しているのですね。

自意識よりも自己意識を体験させてあげるように練習することで、自意識からやってくるあらゆる苦悩を小さくすることができるようです。

思い込みのバカバカしい強さ

92歳になる母親の短期記憶装置がだいぶやられてしまっていて、認知症ではないにせよかなり困ったことになっています。

ついさっきの記憶が消えてしまう反面、ある程度過去の記憶が残っているのです。そうなると、本人は過去の状態のままで生活しているつもりになっているのです。

危険だから一人で買い物に行かないでとどれほど伝えても、食べるものを買って来なければと言って、勝手に1人で出かけようとするのです。

本人としては、過去自分で買い物を全てやっていた頃の記憶だけがあるため、今もそのように生活していると思い込んでしまっているのです。

だから3食買ってこなくても、いつも出してもらって食べてるでしょと伝えても、それが分からないのです。

冷蔵庫の中を覗いてもらっても、何だか食べ物がないような気がするという状態なのです。

こうした思い込みが強くあると、誰のどんな言葉も本人の中には入っていかないばかりか、食べ物がないという思い込みで冷蔵庫を覗くので、無いようにしか見えないのです。

母親の場合は極端な事例ですが、私たちはみんな大なり小なり似たような勝手な思い込みの中で生きているのです。

一番強烈な思い込みは、自分は顔にある二つの目によって外の世界を見ているというものです。このことが人生にあらゆるトラブルを持ち込むのです。

自分がそうしているのだから、他人もあの二つの目からこちらを見ていると信じ込んでいるのです。

そのため、他人の目が気になるし、人にジロジロ見られているという神経症が起きるのです。

これを解消する唯一の方法は、自分が肉体の目を通して外を見ているのではないことを体感することですね。

その瞬間にいてみる

1日のうちでいつでもいいのです。比較的ゆったりと過ごせているときにでも思い出して欲しいことがあるのです。

それは、ちょうどその瞬間に居続けてみるということ。私たちはどういうわけか、過去を思い出してみたりちょっと先の未来のことを考えるのです。

この習性は本当に驚くべきものです。忙しくしている間は分からないのですが、ちょっとでも手が空いたときに、すぐに何か始められることを見つけようとするのです。

何かしていないではいられないのです。幼い子がじっとしていられないのは、普通によく見る光景ですね。

けれども、実は大人になってもその傾向は強く残っているのです。少しお腹が空いたなあと感じたら、その感覚とともにいてみるのです。

なんだかちょっと悲しいなあと感じたら、そこから逃げずにその感情とともにその瞬間にただいることです。

過去にも未来にも逃げ込まずに、そうして唯一実在するこの瞬間とともに在るように練習するのです。

そのときにようやく、自分とはいったい何なのか?というところに意識が向くようになるのですね。

癒しと真実を見ること

この仕事を始めて5年くらいが経った頃のことだと記憶していますが、どれほど心の癒しを進めて行っても、所詮は満たされることはないと気づいたのです。

確かに、癒しによって不自然な生き方が少しずつ自然なものへと変化していくのは、何度も見せてもらいました。

加えて、不自由な人生に徐々に自由の感覚がやってきて、生まれて始めて無邪気な自分を見つけることができた姿も見せてもらえたこともありました。

そんなクライアントさんの変化を見ることで、セッションは無駄ではなかったと思えるのですが、一方で常に自分に突きつけられていることがあるのです。

それは真実を見ることをおざなりにしていていいのか?ということ。ほとんどのクライアントさんはそんなことには興味を持っていないのも知っています。

自分自身についても、クライアントさんと比べてもほとんど違いはないのです。1日のほとんどは自我として生きてしまっているのですから。

けれども、ここにきてどうしても真実を見る側へとシフトしていかざるを得ないような感覚がやってきているのです。

それほど特筆するようなことでもないのですが、これからの道もきっとおおよそ決まっているのでしょうね。

歳を重ねて行った末に、自分の人生がどのように変化していくのか、ちょっとした興味があります。それがセッションにも影響することになるのかなと思っています。

エリザベスカラー

以前から気が付いていたことではあるのですが、改めて深掘りしてみてよく分かったことがあります。

自分は、自分がイメージしているような1人の人間であると思い、そう信じ込んでしまったことに、一躍買っているのはこの身体の存在なのです。

生まれた時からずっと、自分の周辺に常にあり続けているこの身体の存在が、一人称でありながらも自分を見ることができると感じてしまったのです。

実際は、自分の腕は自分ではないので見ることができるのです。自分の足や胴体も自分そのものではないので、見ることができるのです。

そしてその身体とともに、これが自分だと思っているのですが、それは決して一人称ではなかったということです。

自分に近いところにある身体を自分だと思い込んでしまったがために、これが自分だという石頭的な信じ込みが定着してしまったのです。

たまに見かけるものですが、犬の首に装着するエリザベスカラーって知ってますか?犬が患部などを舐めてしまわないようにする、メガホンを広げたようなアレです。

アレを自分の首につけて生活してみたらどうなるでしょうか?つまりは、自分の身体が見えないようにして生活するのです。

もしかしたら、一人称である自分は見えないということをしっかり感じ取ることができるかもしれないですね。

正直、いつかチャンスがあったら実験してみようと思っています。だいぶ変人が本気で混じってきた気がします。

自分は人間ではない

ブッダにしても、osho にしても、その他多くの賢人や悟りを開いた人たちが歴史上沢山いるのに、誰も直接的には言わない言葉があります。

それは、「私たちは人間ではない!」なのです。そういう人々の誰もが言葉を選んで婉曲にそのことを表現しているのです。

それが私にはとても不思議な感じがするのです。実際、私自身もこのブログでこの言葉を表現したことがほとんどなかったかもしれません。

けれども、もう周りくどい言い方をする必要などないかなと思うようになったので、今日は直接的な言い方をすることにしました。

敢えて言えば、本当にシンプルなことだと分かります。人間として生きているつもりになっているだけで、真実は違うのです。

何度も繰り返しますが、私たちは自分が思っているような人間ではないということ。確かに肉体があることは事実です。

その肉体の中には誰もいません。誰もその肉体の顔についている二つの目から外側の世界を見ているわけではないということです。

肉体の存在する場所とは、常に「ここ」なのです。それは場所ではなく、位置でもなくただ「ここ」しかないのです。

ここから自分自身である空間の中に起きつつある宇宙を眺めているのです。と、ここまで書いて気づいたことがあるのですが、やはりこういう表現はあまりいい気持ちがしませんね。

この内容を信じて欲しくて書いているのではなく、ただ自分自身で検証することしかないのです。私自身も検証を継続していくのみです。

瞑想をもっと身近なものに

人によっては、瞑想に興味はあるのだけれど、どうやったらいいのか分からないとか、目を閉じてじっとしていようと思ってもすぐに飽きてしまうなど。

チャレンジはしても、結局のところ瞑想は自分にとっては難しいとか、馴染めないと感じてやめてしまう人も多いのかも知れません。

それはとても勿体ないことだと思っていて、もっと気楽に考えられたらいいのになあと思うのです。

実は瞑想というのは、本当に様々なやり方があるので、自分にとってやりやすい方法が必ずあるのです。

一般的には、瞑想中の人を外側から眺めると、静かに姿勢良く座って目を閉じて、微動だにせずにただただ静かにしているように見えます。

けれども、例えば目を閉じていることが苦手な人であれば、目を閉じる必要などないのです。

伏目がちにしてどこをみるでもなく下の方に視線を固定しておくだけでもいいのです。実際座禅などはこの方法で行うようですし。

もっと言えば、全く目を閉じずに正面にある壁の一点を凝視するというのでも構いません。

或いは、私の場合は目を開けて部屋の空間を見るようにすることもあります。それは実際にはどこも見ていないというやり方です。

意識を内側に向けることができると、自然とこのやり方になるのです。この方法なら立っている状態でもできます。

一つだけ注意した方が良さそうなことは、身体を横にしたままやらない方がいいということ。少なくとも上半身だけは直立させておいた方がうまくいくはずです。

完全に仰向け状態になってしまうと、眠ってしまうことになりかねないので。これは私の実体験です。

いずれにしても、瞑想を堅苦しく考えて正しい方法で行わなければならないというのが、瞑想を身近なものにならなくさせていると思いますね。

物語からの脱出

日頃色々な言い方でお伝えしていることなのですが、例えば「意識的であること」とか、「自己想起する」、或いは「自分に意識を向ける」等々。

これらは全部基本的には同じことを言っているのですが、要するに見ること、眺めることなのです。

ただし間違わないようにしなければいけないのは、外の景色をただ眺めるということでは決してないのです。

外側に向けていた見る方向を180度変えて、自分側に向けるのです。そうすることで、自我である自分を見ていてあげることができるのです。

こうすることで、物語から抜けていることができるのです。自我としての私たちは放っておくと、あっという間に物語の中に引き摺り込まれてしまうからです。

そういうと何やら受け身のような気もしますが、率直に言えば自分から物語の中に身を投じてしまうということです。

物語が大好き、物語がなければ死んでしまうのです。そして物語に入り込んでしまったら最後、自分を見守ること、意識的であることは非常に難しくなってしまうのです。

そしてもう一つ付け加えると、内向きの見方というのは自分の本質から世界を眺めることにも繋がるのです。

それは本質の内側に全世界が包含されているからです。このことで受けられる恩恵は計り知れないものがあります。

カギとなるのは、あらゆる観念を使わずに正直に謙虚にソレを眺めるということになりますね。

生きやすくなるコツ

今日は生きやすくなるいくつかのコツを書いてみようと思います。とは言ってもいつもここに書いていることの繰り返しになりますが…。

まずは、何であれ事を起こらしめること。それがそのように起きるように、そこに口出しせずにそのままにすること。

それは起きるべくして起きていることなので、自分などがちょっかいを出そうとする必要も必然もないということ。

そして、そのことに決して過度の期待をせずにいること。起きることへの期待だけでなく、自分自身に対しての期待も含まれるので、そこを見逃さないこと。

期待は良さげに見えますが、実は防衛でしかなく、そこには純粋な愛は含まれていないということに気づくこと。

自分にも他人にも期待しなくなってくると、場合によって淡白だとか、冷たい人だと思われてしまうかもしれませんが、そこは動じないでいられればいいのです。

期待せずにいると、起きた結果に無頓着になり、成功したとか失敗したということから離れていることができます。

そして最後に、自分が持っているあらゆる正しさから足を洗うこと。正しさは蜜の味がするのですが、それが巡り巡って自分の首を絞めることに気付けばいいのですね。

決して信じずに、検証すること。実践あるのみです。