事実に基けば、見えてくるものがある

一つ目の事実は、誰も自分がどこにいるのかを知らずに生活しているということ。自分の身体の居場所だけは知っているのですが、自分自身の居場所は分からないのです。

二つ目の事実は、生まれてから一度も自分を直接見たことがないということ。鏡や映像の中の自分の姿は見たことがあるのですが…。

三つ目の事実は、自分が自分自身であるために必要なものとは意識であって、それ以外は全て属性(ただのデータ)であるということ。

四つ目の事実は、その意識というのは大きさも形も位置も何もなく、ただ気づいているということ。そのため、個人的なものではなく、非存在であるということ。

以上の事実から伺い知れることは、個人という単位で私たちが存在しているわけではないということ。あなたが個人でなければ、あなたが見ている他人も個人ではない。

つまり、私たちに居場所というものはなく、どこにもいないということは無であり、同様にして遍在しているということ。それが唯一無二の意識なのですね。

その結果、私たちの本質である意識は誰かに見られる存在ではなく、逆にただ見ることだけがあるのです。

しかも私たち意識が眺めている全ての存在は、その意識という空間の中に起きては消えていくということ。つまり外側とか内側というものはないのです。

こうした事実は、どうも胡散臭いことのように捉えられてしまうかもしれませんが、それは幼い頃にお前は個人だと洗脳されたことがこびりついているからです。

幼い頃の洗脳はひどく頑丈で簡単には壊れそうにありませんので、少しずつ目の前に提示されている事実に素直に目を向け続ける必要がありそうです。

あなたは非存在

今から約50年前に、レッドツェッペリンというロックバンドが日本武道館でコンサートをやるというので、高校生だった私は見に行ったことがありました。

彼らの音楽は大音量で聞くのが最高なのですが、ただガチャガチャうるさいのではなく、爆音、無音、爆音のようなメリハリがあったのです。

その演奏途中の無音状態に快感を感じたのを覚えています。それはきっと、音は静寂なしでは成立しないということの表現だったのではと思うのです。

あらゆる音は、静寂からやってきて静寂へと戻っていくのです。無音こそが全ての音の根源であるということです。

それと同じことが「存在」に対しても言えるのです。あらゆる存在は、無から立ち上がってきて、その無へと帰っていくのです。

無音という言葉に対応する無存在という言葉がないので、ただ無と表現するしかないのですが、意味合いとしては非存在ということです。

そしてその非存在が全存在の根源なのですが、それこそが私たちの本質である唯一無二の意識なのですね。

あなたの本当の姿は非存在だと言われても、何のことを言っているの?となるのですが、それを体得せずに死ぬのはもったいないなあと思っています。

自我は生まれて死ぬが、意識は永遠

日頃から自分とは大体こんな奴だと知って生活しているのですが、厳密に見ると自分自身と自分の属性とがゴッチャになっているのです。

自分の属性を一つひとつ脇に置いていく作業をしてみてください。例えば、自分の性別、年齢、名前、国籍、身体、外見、性格、境遇、記憶、考え等々。

こう言ったものは全部自分自身ではなく、自分の属性と思って間違いありません。感情だって自分自身ではありませんね。

そうした属性を全部脇に置いて残ったものこそが、自分自身だと言えるわけですが、残ったものとは何でしょうか?

自分が存続するために残っているものとは?それは意識なのです。意識を切り離してしまったら、もう自分はいなくなってしまうはず。

ところが、ここで非常に厄介なことに気づくのです。つまり自分自身だと思っていた意識には、どんな個人的な印も付いてはいないのです。

要するに、自分である意識とは個人のものではなかったということ。意識には大きさも位置も何一つないのです。時間すらありません。

意識が生まれたり消えたりすることがないので、唯一無二のものだと分かります。となると、私の意識はあなたの意識でもあるのです。

そもそも私の…とはもう言えないのです。その意識とは、見ることです。ただ見ること、気づいていること。

それが意識であり、私たちの本質なのです。自我は生まれて死にゆく哀れなものですが、意識は永遠なのですね。

ただただ眺める

以前ハワイに遊びに行った時に、絶景の名所のようなところでクルマを停めて、断崖絶壁のようなところからの眺めを楽しんだことがあったのです。

その時に、向こう側に見える切り立った山肌などが、どれほどの距離のところにあるのかが分からなくなって、要するに距離感がバカになったのです。

遠いと言えば遠いし、近いと思えば近い感じがして、極端に言ったら手が届くのではないかというレベルまで感覚が鈍ったのです。

自分の中心からただただ眺めるということをやっていると、それと同じような感覚になれる時があるのです。

とはいえ、やはり変化のない毎日の生活で目にするものは、慣れてしまっているので、なかなか遠近感が薄れることもないのです。

そんなわけで、久しぶりにどこかに遠出して、景色が開けているところでただ眺めるを実践したいなと思うようになりました。

日頃は遠出したいという欲望がないので、ほぼ決まった半径5kmくらいのところをうろうろしながら生活しているわけですが。

ここでようやくコロナ騒ぎがちょっと自分にも影響することになるかもしれないなと、暢気なことを考えている最近の私です。

幼い応対が出てくる時

普段私たちは、大人として社会的で冷静な対応をすることができますね。少々困ったことがあっても、ある程度はそれを落ち着いて処理できるのです。

ところが、その理性的な反応ができなくなってしまう事例というのもあるのです。その時には、インナーチャイルドに乗っ取られている時なのです。

以前、オフィスの固定電話があるときに、もちろんその番号はホームページに掲載していたので、時々問い合わせの電話がかかってくることがあったのです。

あるとき、電話に出てみると、ものすごく高飛車な態度の女性から、それもかなりの上から見下ろすような言葉で、機関銃のような質問がやってきたのです。

不意を突かれてドギマギしている間にも、次から次へとあれはどうなんだ、これはどうなってるんだと追求されてしまったのです。

そのうち、私の応対の態度がびく付いているなと察したのか、もういいわ、と言って電話は切られてしまったのです。

その後冷静になって、自分の応対がひどく怯えた子供のようだったことを思い出し、ああかなり小さい頃の自分に乗っ取られていたんだなと理解できたのです。

きっと4歳年上の姉にそんな感じで詰問されて、タジタジになっていた頃の自分になってしまっていたのですね。

皆さんにも似たような経験があるのではないでしょうか?もしもそうしたことが頻発するようであれば、セラピーを受けてみてもいいかもしれないですね。

人と同じじゃなくていい

8月11日(水)が山の日という休日だということを知らずに、それが今年だけオリンピックの閉会式の8月8日(日)になったということも知らず。

そして、8月9日(月)がその振替休日になったことも全て知らずに、今日もグズグズの毎日を送っています。

今年はどういうわけか、オリンピックをほとんど見ずに過ごして、閉会式の直前にテレビでやっていた総集編みたいな番組を見て、全部観た気になった私です。

前回の東京オリンピックは1964年だったので、今から57年前のことです。皆さんの多くはきっと知らないでしょうね。

あの当時小学生だった私は、習い事のために外に出た時に、大空に5輪のマークが描かれているのを見て感動したのです。

そういえば、男子マラソンで日本の円谷選手が銅メダルを獲ったのですが、最後トラックを一周する姿がとても辛そうでした。

ちなみに金メダルはエチオピアのアベベ選手。彼は、ゴールしたあと余裕で屈伸運動をしていたのを覚えています。

あの頃の自分がどんな気持ちで競技を見ていたのか、それほどは覚えていないのですが、でも総じて真面目に観戦していたと思います。

あの当時は国民全体がそうだったのか分かりませんが、今の私のように全然観ないで過ごすような人はほとんどいなかったはずです。

それを考えると、人と同じように生きなくてもいいんだということが分かって、それだけでも自由になれたのかも知れないと思います。

ダイレクト感を取り戻す

何歳の頃だったのかは定かではないのですが、きっと小学校の低学年の頃だったと思うのですが、ある日自分の周囲にうっすらとした膜がかかったような感じになったのです。

このことは以前このブログで書いたこともあったのですが、今その理由が分かったかもしれないと思っています。

膜がかかったような感覚というのは、外の世界との間に薄い隔たりのようなものができて、ダイレクト感が失われたということです。

きっと自我の発達と共に、自分は頭の中にいて二つの目を通して外の世界を見ているという感覚が優位になってしまったのでしょう。

身体(頭)という鎧の窓(目)からしか外を見ることができなくなってしまったということです。間接的な眺めになってしまったのだと。

それまでは、自分の居場所が頭の中だとは感じておらず、あるがままの自分が正直に外の世界に接していたのです。

この感覚の違いを当時の自分は肌で感じていたのではないかと思うのです。そうだとすると、これは元に戻せるかもしれません。

実際、頭のあるべき場所から提示されているものをただ眺めるとき、あの幼い頃のダイレクト感が若干戻ってくれているような感じもします。

あとは練習あるのみです。もしも似たような感覚を持っている人がいたら、同じことを試してみることをお勧めします。

一人称は非存在

よく、常識に縛られずに柔軟な考え方をしろ!と言った言葉を聞くと思うのですが、今日はそんな話しです。

私自身は、もちろん常識人としてのごく普通の感性で生きているという面があるのと同時に、割と常識に捉われずに生きているなあと思っていたのです。

ところが、最近めちゃくちゃ常識とか、当たり前と思われるようなことに縛られていたということを発見したのです。

昨日のブログの続きのようになってしまいますが、「一人称は存在できない」ということを発見してしまったのです。

これは、私たちの常識とはかけ離れたことを言っているように思われるのですが、実はそのカラクリを次のように説明できるのです。

私たちは自分のことを一人称として自覚していますし、その自分はレッキとした1人の人間として「存在」していると思っています。

ここにはとても致命的な落とし穴が隠されています。私たちの自覚というのは、ほんの少し自分自身の中心から距離があるのです。

だから存在できるのです。つまりは、清廉潔癖な一人称ではなかったということです。一人称ですから、どんな距離もあってはなりません。

その距離がどれほどのものかは測ることは難しいのですが、それでも自分の中心ではなかったのです。それが自我ですね。

そして私たちが自分を内省するとき、つまりこれが自分だと内面を見るときには、その距離の外側までしか見てはいないのです。

それよりも先の中心にまで意識を向けられたら、その時にはいきなり個人という存在は消えて、無もしくは全体性と呼ばれる非存在を見ることになるのです。

「一人称は存在できない」という意味は、一人称は非存在としてあらゆる存在を支えているということです。

それが私の本質であり、あなたの本質でもあるということですね。

新鮮な気づき

生きる目的は人によって様々だと思うのですが、私の場合は「自分の本質とは何か?」に気づくこと以外にはないなあと思っています。

多くの人にとって、自分とは肉体を持った1人の人間(個人)であると信じているわけですが、それは単に自我のことを自分だと思い込んでいるのだと。

だとすれば、自我の正体を見破ることができれば、自ずと自分の本当の姿が見えてくるはずという理屈になります。

何らかの修行を積むなりして、自我が崩壊してくれれば覚醒して、自分の本質に戻ることになり、その後はブッダや osho のようになるのだと思っていました。

もちろん今でもそれは変わらないのですが、その見方というのはあくまでも他者目線でしかなかったということに最近気付いたのです。

あくまでも一人称で見た場合、自我がどうのこうのと言う前に、そもそも今までに一度たりとも自分を生で見たことがなかったと気付いたのです。

他人を見るように、自分を見つけられた試しがないのです。鏡に映った姿や写真などはあくまでも偽物です。

本物の自分はと言うと、やはり見ることはできないのです。知覚することが存在を起こすという現代物理学の理論からすれば、知覚の対象とは成り得ない自分はやはり存在しないのです。

一人称の立場からすれば、自分が見ている世界には自分は存在しないのです。これは自我の問題とはまるで別の話です。

これまで自我にばかり目が奪われていたので、この新発見は自分としてはとても新鮮なのですが、皆さんはいかがでしょうか?

矢印を内向きにして見る

人間というものを真正面からしっかり見ると、私達が生きる原動力は「不満」からやって来ることがハッキリと分かるのです。

不満があるからこそ「満たされたい」という欲求が生まれるのです。そしてその欲望が生きる活力を与えてくれるのです。

したがって原理的に明らかなのは、満たされることを目的として生きているにもかかわらず、万が一にも満たされてしまったなら、生きる原動力を失ってしまうのです。

それはシンプルに死を意味することになるので、私たちは決して満たされることはないのです。まずはこの当たり前の原理から目を背けないこと。

その上でこうした悪ふざけのようなジレンマから脱出するにはどうしたらいいのかを検討する必要があるのです。

そこで発想の大転換をするのです。つまり、「完全なる自己喪失こそが、完全なる自己充足を発見する」唯一の方法だと気づくこと。

自分(自我)を失うとは、自分は思考による作り物だと見抜くことであり、そのためには思考に邪魔されて隠されてきた本当の自分に気づくこと。

自分の本当の姿を見ることで、頑固な自我もいずれはひとりでに消失して行くことになるはずです。

そのためにも自分の本性を見る継続的な練習が必要となるのですね。ただし練習方法は至ってシンプル。

外の世界を見てる時、見る方向を180度変えて見るのです。その時こちら側に見えているものとは何でしょう?

外側に向かって見ていたものとそっくり同じものがこちら側にあることがわかります。それこそがあなたの本当の姿なのです。

そこには何処を探しても個人としてのあなたを見つけ出すことができないはずですので、是非試して見てください。