知覚のうそ

子供の頃のことですが、仰向けになっている母親の顔を頭の方から覗き込んでいるときに、とても怖くなったことがありました。

普段見慣れている顔を上下ひっくり返しに見たわけですが、つまりアゴが上で頭が下にあるように見ていたら急に得体の知れない生き物を見ているような感じがしたのです。

まるで宇宙人の顔でも見ているような、そんな気持ちになりました。それは実は、私たちの知覚というのは自分の知っているパターンの中に収めるように自動的にするからです。

人の顔のパターンが常に作られていて、それとの比較によって人間かどうかを判断するという知覚の仕方をしているのです。

そのパターンから逸脱した顔を見てしまったために、今までに見たこともないような顔を見たように感じてしまったわけです。

それだけ、私たちの知覚というものは自分のいいようにカテゴライズしてしまっているということです。あるがままを見ているつもりになってはいても、全くそうではないということですね。

このことをよく味わってみると、何の気なしに見ている外側の世界というのも、自分がこしらえたパターンに沿うように勝手に作り変えて見ているということになります。

ただただあるがままを何の解釈もせずに見ることができたとしたら、一体どんな世界なのでしょうか。とても興味をそそられます。

そしてそれは、自分自身についても言えることです。私たちは、自分の身体というものをいくつかのパターンを含んだイメージとして作り上げています。

だからこそ、右耳と左耳を同時に触って、両者の間がどのくらい離れているかを感じたときに、15cm程度とすぐに答えが出てくるのです。

それは自分の頭の形とそこについている耳というイメージを元にして作られた虚像なのです。本当は、右耳と左耳の間の距離など決して分かるはずがありません。

そんな情報を知覚としては持ってはいないからです。それを解決するのが、パターンからできているイメージなんです。

さあ、本当のあなたの姿とは一体どういうものなのか、興味深いとは思いませんか?あるいは、やや怖くも感じるかもしれません。

でも本当の本当のあなたは、形や大きさや色やその他説明できるようなどんな特徴も持っていない全くの無だということです。それが真の自己です。
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両親の内在化

心理学では、4歳くらいから5~6歳くらいまでの間を自我確立期というのですが、その時に両親の内在化というのをします。

それは、生まれてからずっと自分に関わってくれた両親に対しての、自分なりのデータベースを作るということであると言えます。

お母さんとはどういう人物であって、自分に対してこのように反応する、こういう場面ではこのように話すというように、今までの経験を元にしっかりとまとまりのある情報を心の中に打ち立てるということです。

なぜこのようなことをするかというと、あらかじめ親の情報を整理整頓しておくことによって、相手の行動を予測したりして、自分の身を守る手立てとして使うためなのです。

例えば自分がこうしたら、お母さんはきっとこのように怒るだろうから、しないようにするといったように、自分の言動に対して規制することで、リスク回避ができるわけです。

幼稚園の園児の頃に、こうして両親というものはこうなのだという確固としたものが出来上がってしまうということです。

この親の内在化による、自分への行動規制というものが厳しいものであると、それは当然不自由で生きづらい人生となってしまいます。

そして、その内在化したものは、子供が大人になっても心の中に歴然とあり続けることで、いつまでたっても心の中に住む親の束縛から逃れることができなくなってしまうのです。

こうしたことは多かれ少なかれ誰でも経験しているはずなのです。たとえ親元を遠く離れて異国で暮らしているとしても、親の内在化されたものはその人の心の中にあるため、いつでも本人を内側からコントロールしてしまいます。

実際の親はその頃の親とは違ってしまっているということがあったとしても、幼い頃に作り上げた情報にいつまでも翻弄されてしまうということが起きます。

両親の内在化されたものから本当に解放されるためには、内在化した自我確立期の頃の記憶を呼び戻して、まさに内在化しつつあるその現場をつぶさに見つめなおすことが必要です。

その作業は自分独りでも勿論可能ですが、できればプロのセラピストの手助けを利用することが得策ではないかと思います。

天下り

1978年4月のことですから、今から33年も前になりますが、私は大学を卒業してある企業に就職しました。

東証一部上場のそこそこ立派な電機関係の会社でしたので、当時は退職するまで務め上げることになるのかなと思っていました。

しかし、30歳になる前にひょんなことから全く毛色の違う外資系のコンピューター会社に転職することになったのですが、退職する少し前に会社のえらい人に挨拶に行ったときのことです。

ある重役の人の部屋に入ると、そこにはよくテレビドラマなどでみる風景そのものがあったのです。それは、仕事の時間だというのに、その人は悪びれることもなくゴルフのパターの練習をしていたのです。

実はその方は会社の大切な取引先であった、電電公社(今のNTT)から天下ってきた人として社内でも有名な人でした。

勿論、私が辞めることなどには微塵も興味がなく、「今までお世話になりました」と挨拶しても、ああそうですかと言うだけでした。

その人の役目は、年に一回決まっただけの仕事をNTTから受注できればいいわけで、あとはずっとああしてパターをして一日を気ままに過ごすんだなと。

天下りとは利権そのものです。会社は、そういった取引先の偉い人を天下り先として引き受けることで、今までの取引をある程度は保障してもらえるとのもくろみがあるわけです。

逆にそうした天下りを断ったりしたら、今までの関係が壊れる可能性もあるために、内心では渋々天下りを受容するしかないということですね。

言ってみれば、天下った後のその人の高額な給料を、従業員全員の働きによってまかなっているようなものですから、なんだか理不尽な感じがするのもやむを得ません。

天下った先で、その会社のために一生懸命仕事をする人がいないとは言わないですが、大した仕事もせずに給料だけを貰っている場合が多いのではないでしょうか。

その時の自分は、天下りなどきっと関係のない外資の会社に行くことが決まっていたので、腹も立たなかったのですが、日本の社会の実情を垣間見た気がしました。

もしも、あなたがどこかの会社に天下って何もせずに給料をもらうことになったら、どんな感じがすると思いますか?

いい悪いは別として、各人の心の状態によって反応は様々なのでしょうね。私だったらいたたまれなくなって、すぐにみずから辞めてしまうと思います。きっと貧乏性なのですね。

自分を売り込む

自分を売り込むのが比較的得意な人とそうではない人といると思います。得意な人の代表選手としては、政治家がいますね。

選挙前ともなると、立候補した人たちは自分の名前を連呼したりされたりを続けながら、クルマであちこち走り回ったり、街頭演説でも自分の名前の入ったタスキをかけたりして頑張るわけです。

私はきっとそういうことが得意ではない部類の人間だからかもしれませんが、昔から投票日が近づくと街中に拡声器から聞こえてくるそうした声が氾濫するのが大嫌いです。

なぜ自分を売り込むという行動が必要なのかと考えてみたのですが、やはりどうしてもうまく納得するような理由が見つかりません。

政治家としてこの国のために労を惜しまず働こうと思う志はすばらしいと思うのですが、それなら自分の名前を売り込むことよりも、政策などで他の立候補者と比較して選んでもらうというのが筋だと思うのです。

名前や顔写真が記憶に残ったからと言って、ただそれだけでその人を投票してしまうほど、本当に一般市民はいい加減なのでしょうか。

有名人が当選する場合がかなりあるというところを見ると、確かにそうしたこともあるかもしれませんね。だとすると、我々市民の問題も間違いなくあると言わざるを得ません。

私は政治家として誰を選ぶかとしたら、まず真っ先に自分を売り込むことが上手だなと感じる人をはずすと思います。

その代わりに、その人が自分を脱して国のために働く意志が強いかどうかというところが一番大切であると思うのです。

勿論その人の政策も大切ですが、今までのところ政策がすばらしいと思っても、いざ政治家になると利権に丸め込まれてしまうということがほとんどでしたから。

自分の名前を連呼するような人よりも、自分を脱して働ける人材を目を凝らして探す必要があると思うのです。そうした政治家が出てくることを切に願います。

個人主義の終焉

クライアントさんに、すぐに思いつく信念や信条と言ったら何ですか?と尋ねると、「他人に迷惑をかけないようにする」というのが多くの場合に頂いた答えでした。

勿論こればかりではないのでしょうけれど、この答えがすぐに出されるということは常日頃から頭の中に忘れずにあるということなのでしょう。

私の場合も、長い間この信条を持っていて、生きる中心に置いてあったことを覚えています。この信条が悪いというのでは決してありませんが、もしもこれを第一番に挙げるということになると、問題があると思うのです。

人生が冒険だとすると、この信条はあまりにも消極的過ぎるという印象をまず持ちます。冒険を計画する際には、冒険の内容について考えるのが当然であるからです。

迷惑をかけないようにというのは、善良な生き方であると言えるかもしれませんが、それは明らかに身を守ることを第一に考慮するという姿勢であって、はじめからあまりワクワクするような冒険にはならないと感じてしまいます。

それはきっと退屈な冒険になってしまうはずです。誰にも迷惑さえかけなければ、自分は何をしてもいいというのは、ちょっと聞くと理屈的には合っているように思いますが、実は自分さえよければいいという個人主義的な匂いがします。

従って、「他人に迷惑をかけないようにする」という信条は、実はとても利己的な生き方を示唆するものでもあるということに気づく必要があります。

人間一人生きていれば、気づいていようがいまいが、いずれにしても何らかの迷惑を周りにかけてしまっているということを認めることです。

冒険旅行の始めから自分を防衛することが頭から離れないのであれば、大した冒険にはなりそうもありませんし、それでは本当の満足を得ることは難しいでしょう。

大きく言えば、私たち人類はそろそろこの個人主義の生き方というものを本気で見直す時期に来ているのではないかと思います。

迷惑をかけてしまうことを心配するよりも、どんなワクワクする冒険をしようかということに意識を向けることが大切ですし、それができたらきっと冒険の成果を独り占めしようなどという発想もなくなるはずです。

個人主義に陥らないようにするには、冒険旅行を興味深いものにするためには、どのように心がけたらいいのかということをしっかり考えてみる必要があると思います。

自分の役割と自己価値

私たちは誰でも何らかの役割の中で暮らしています。職場での役割、家庭での役割、学校での役割、国民としての役割など、ありとあらゆる役割を持っています。

持っているというよりは、より正確に表現すれば役割を与えられているとも言えますし、自分で勝手に何かを自分の役割だと決め付けている場合すらあります。

この世界では役割というものは、否定的な言葉ではなくて、むしろ肯定的な言葉として捉えられているふしがあります。

それは、与えられた役割をきちっとこなす、というようにある人を評価する場合にはその人がどれだけその役割を果たしているかということが重要な要素ともなるからです。

ではもしもある人が何の役割も持っていないとしたら、我々はその人をどのように評価すればいいのでしょうか?評価の対象とはなり得ないと感じるかもしれません。

だとすれば、役割を持っているということがとても大切なことだということにもなるわけです。だからこそ、みずから役割を探してそれを立派にこなすことで自分の価値付けをするということにも繋がるのです。

こうした役割の重要性というのは、大人ばかりではなくて、幼い子供でもそのことを知っていて、理不尽ともいえるような役割を自分に課して、何とか親に愛されようと頑張るのです。

勿論そこにあるのは愛ではなくて恐れであるため、頑張れば頑張るほど自己犠牲を強いることになってしまいます。

奇跡のコースでは、我々一人ひとりの存在価値を決めているのは神であり、我々自身にそんな能力はないと明言しています。

自分の自己評価が低いと言って嘆いている人はとても多いものですが、それは神の代わりにみずからの価値を判断できると錯覚していることになります。

自分たちの存在価値については、そのすべてを神に一任することにしませんか?そして、きっと神はこの上ない価値を我々に与えてくれているはずだと信頼するのです。

そうすれば、この世界に氾濫している役割を必要以上に重要視して、それを果たすことで自分の価値を高めようともがくこともなくなるはずです。

我々の唯一の真の役割は、自分は何者かということを思い出すことだけです。

神の道

神の道を歩むのに、何を恐れる必要があるだろうか?というのが、ふとやってきました。まさか声が聞こえたわけでもないですが、何も怖がることなどないという思いと少し繋がったのか。

悠々とその道を進んでいけばいいだけだし、自分は神にすべてを明け渡すことでこれ以上安全な状態になることはないのだから。

こういうものがふとやってくるということは、裏を返せば普段は神(もしくは真の自己)を信頼してはいないということなんだなと思うのです。

というよりも、多いに疑っているといったほうが近いのかもしれません。そんなふうな自覚は勿論ないのですが、本当に信頼していたらそのことを日常のいついかなるときでも忘れるはずはありません。

でも実際はというと、たまにしか思い出すことがないわけで、それはやはり信頼できてない証拠ですね。だからこそ、恐れというものがなくならないのです。

自分の身は自分で守らなければどうにかなってしまうと信じ込んでいて、そこから抜け出すことがとても難しいということです。

これでは到底明け渡すなどということはできません。しかし、そうした明け渡すことなど無理だと思っている自分をも含めて明け渡すということなんだろうと。

明け渡すとは信頼するということ。もうそろそろ、この自分の自己防衛機能ばかりではどうにも立ち行かないということは分かってきているはずです。

追い詰められて、断崖絶壁に立つことになって、ようやく分かることがあるということですね。まだまだ十分に信頼できない自分を受容することにしたいと思います。

与えれば与えられる

このブログでも以前から何度もお伝えしてきたことですが、与えると与えられるし、求めれば求め返されるということは事実だということを、自分なりにまた実感しています。

最近少しずつ、与えることによって与え返されるという経験が増えてきたように思います。与えると一口に言っても実際にはどういうことなのか、説明する必要があります。

それは、自分が心からそうしたいと望むことであるということが、絶対的な条件となります。勿論対象となる相手がいる場合もあれば、そうでないこともあるかもしれません。

いずれにしても、その自分が心から望むことをすることに付随して、何の見返りも求めることのない心の状態であるということです。

何らかの見返りを求めてしまえば、その分だけ与えることが目減りすることになってしまうでしょう。そういう意味で、与えるとはある種無邪気さを伴うかもしれません。

そんなことだったら、日常的に与えることなどやってるよ、と言われる人も多いかもしれませんが、それはその通りだと思います。

実は与えるというのは、特別なことでもなければ高尚なことでもありません。ごく普通に私たちがやっていることなのです。

何もしないけど、与えられたことがあったけど、得した感じがするけど、それは例外なんだろうかと思うかもしれません。

しかし、与えることに例外はなくて、上記の場合にはそれとは気づかずに前もって何かを与えていたはずなのです。

赤ちゃんは、ただ生まれてきただけで周りから愛を与えられるお得な存在であって、あれこそ例外だと思うかもしれませんが、実は赤ちゃんはその姿や無邪気な心そのものを周りの大人たちに与えているのです。

だからこそ、沢山の愛を与えられることになるということです。与えるとは単純なことですが、もしも自分は誰からも欲しいものを与えられていないと不満に感じているのでしたら、まずは与える側の人になることです。

自己否定感

自分を否定する思いの強さというのは、人それぞれに違いがあります。自己否定が全くないという人はいないものですが、なぜ人によって大きな違いがあるのでしょうか。

ある人は、自分はだめだなあと思うものの、まあ人間なんてそんなものだから、自分だけが取り立てて駄目なわけじゃないよ、と深刻にならないでいられます。

またある人は、人のことはよく分からないけれど、どうやっても自分はこれでいいんだという思いを持つことができないので、激しい自己否定があったらそのままになってしまうということです。

この両者の違いは一体どこからくるのかを検証してみたいと思います。まず一つ目の違いは、自分だけが駄目だと思うのか、人間みんな似たようなものだと思うのかです。

自分一人だけが駄目で、他のみんなは駄目じゃないということがはっきりしたら、それはどうしたって自己否定が強くなってしまうはずです。

前者の人は、所詮人間とは不完全なものだから、自分が駄目なのは当然だということが分かっているので深刻にならずにいられるわけです。

後者の人は、他の人のことは分からないと思っているので、自分の駄目さ加減だけが目に付いてしまうのですから、自己否定を回避することができなくなります。

また、幼いころに親や家族からしっかり受け入れてもらえた経験があれば、心の深いところに自分は駄目じゃないという思いが残っているのです。

それがあると、自己否定が起きたときに、その駄目じゃないを見ることで自己否定が緩和されたり、なくすことさえできるわけです。

ところが、幼い頃に受け入れられた経験が乏しいと、それだけで自分は駄目だという確固とした思いが心の奥に残ってしまうのです。

したがって、自己否定が起きたときには、それを助長することはあっても、それを緩和したりすることはできなくなってしまうということです。

つまり、自己否定が頑固にまとわりつく人の場合というのは、自分を客観視することが苦手であるというケースと、幼いころの被受容経験の欠乏が原因であると言えると思います。

人間の心とは、あらゆるものを含んでいるということ、いいことも悪いことも織り交ぜて持っているということをしっかり理解することがとても重要です。

その上で、幼い自分(インナーチャイルド)を徹底的に受け止めてあげるという作業を繰り返すことです。それによって、自分は駄目だという頑固な思い込みを手放していくことができるのです。

この二つを実現することができれば、たとえ自己否定感がやってきても、それをみずから緩和し、流し去ることができるようになるのです。

母親からの洗脳

もうかなり前のことですが、オーム真理教に入信してしまった娘さんを、力づくで奪い返しに行った父親がいましたね。

そんな強引なことをしてもいいのか、あるいはできるのかと思ったことがありましたが、結果としては奪還できて本当によかったということです。

自分がその親の立場だったら、どうするだろうかと考えさせられてしまいます。クライアントさんの中には、実の親に洗脳されて育ってしまった人が時々いらっしゃいます。

親といっても、大抵の場合は母親であると言えます。それはきっと、父親よりも母親との結びつきが子供は圧倒的に強いからでしょうね。

母親からの洗脳というのは、そんじょそこらの宗教などよりもよほど強力な洗脳をすることができるのです。それは生まれたときからずっと一緒にいて、子供は親に100%依存せざるを得ないからです。

セッションの中で、クライアントさんがどのくらい深い洗脳をさせられているかということを見極めるのは、そう難しいことではありません。

しかし、クライアントさんご自身が洗脳されているという自覚がない場合には、癒しを進めるのは至難の業となってしまいます。

なぜなら、洗脳の結果が今の人生の苦悩や不自由さを作っているということを、分かってもらえないからです。

ご本人が自分が受けた洗脳を客観視することがある程度できる段階までになっている場合には、少しずつですがその洗脳を解いていくことができます。

ただし、幼い頃から一貫して受けてきた洗脳は、心の奥深くにあって強烈に大人の理性的な自分をコントロールしようとしてきますので、自由になるのはそう簡単なことではありません。

でもあきらめずに、心の中の様々な声に耳を傾けて、洗脳された沢山の意識を受け止めてあげることが大切です。そうやって、一つひとつ自由を勝ち取って行くことです。