知覚の本質

知覚するということは一般的には身体の感覚器官を使った五感によるものとされています。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚とあります。

私たちはいつもこの五感からの情報を頼りにして生活しているわけです。しかし、実は知覚とはこれだけではありません。

自分自身を知覚することもできるからです。自分とはこういう存在だという自覚は自分を知覚した結果であるわけですね。

この場合は、自己イメージというものを結果として作り出すわけですが、それはやはり知覚することによって作り出すものであるのです。

私たちの誰もが抱く根本的な疑問である、自分とは一体何者なのかという問いに対して、明確な答えを出せる人はきっと一人もいないのでしょうけれど、それにも関わらず自分を知覚しているのです。

そして知覚の領域はまだあります。それは何かの意味を解釈するということです。もしも、そのことを本当に分かっているという状態であれば解釈は必要なくなります。

ということは、意味を解釈するということも知覚するということに入れることができます。実際、身体の五感を通して知覚した情報は、必ず何らかの解釈がなされます。

つまり元々知覚というのは解釈とは切っても切れない関係にあるということです。こうしたことのすべて、五感、自己イメージ、そして解釈の全部が知覚ということだと思えばいいのです。

ところで、この知覚に頼らなくなったらどうなると思いますか?それこそ生きてはいけないと誰もが想像するはずですね。

それは、五感からの情報に反応しなくなることだし、自己イメージを手放すことだし、解釈を全くしなくなることでもあるからです。

でもその状態とは、確実に愛に満たされた心になるように思えてなりません。それこそが、不確実な知覚から完全なる神の知識へ戻ることなのだと思うのです。

生まれながらに罪深い??

人は生まれながらにして罪深いという教えがありますね。この考え方をアホ臭いと言って一笑に付して放っておくのは簡単ですが、なぜそんなことを言うのかを考えてみるのは意味があるかもしれません。

実はこの表現を少し訂正するだけでなかなか的を得た言葉にすることができます。それは、「人は生まれながらに罪深いと思い込んでいる」とすればいいのです。

つまり、客観的な事実であるという事と、単なる思い込みであるという事との違いだと思えばいいわけです。でもなんでそんな思い込みをしているのかを見てみる必要があります。

思い込みというのは事実ではないにしても、それを頑なに信じているわけですから本人にしたらそれは真実となってしまうのです。

ただその思い込みをはっきりと自覚してはいないために、「生まれながらに罪深い」と言われると反発したくなるということです。

コースによると、「神との分離」という妄想をしたときに、神を裏切っている自分というものに罪の意識を持つようになったとのこと。勿論その罪の意識も妄想の中でのことですが。

そうした罪深さが心の深いところに隠されているということです。この妄想による罪悪感は誰の心にもある人類に普遍的なものだからこそ、「人は生まれながらに罪深い」という表現ができたのでしょう。

これを取り去ることはできません。なぜなら、それは妄想だからです。思い込みですから、実体があるわけではないので、取り去れないのです。

思い込み、妄想の産物だということに気づくこと以外に、それから逃れる術はありません。気づくためにはその闇の部分に光を当ててあげることです。馬鹿馬鹿しいと放って置くだけでは、心の奥の罪悪感を手放すことはできません。

まじまじと見つめることをしたら、妄想などあとかたもなく消えてしまうでしょうね。それをさせないようにするために、「生まれながらに罪深い」という決め付けた言い方をするのです。

それこそがエゴの策略です。エゴはその闇の部分を暴かれて、そこが空っぽだったと知られることを最も怖れているのです。

なぜなら、ばれたらエゴは消滅してしまい「神との分離」という妄想が終ることになるのですから。そして、それこそが神と一体である真の自己を思い出す唯一の方法だとも言えるのです。

愛するためにやってきた

今、地球上にいる69億人の誰もがたった一つのことを目指してやってきたと思ったら、とても嬉しい気持ちになれますね。

一人ひとりの人生がたとえどんなものであろうと、みんなが一様に「愛するためにやってきた」ということに気づけたらいいのにと思います。

それ以外には何も目的などないはずなのに、どうしたわけかそれとは違う目的を沢山作って大人になっていきます。

愛することを忘れてしまうと、そのままでは心が辛くてしかたなくなってしまうので、何か目標を作ってそれを目指すことで何とか辛さから逃れようとしているかのようですね。

本当は何も特別な目標など必要ないはずです。なぜなら、愛するためにやってきただけですから。そのことさえ思い出したなら、一体他に何を頑張らねばならないことがあるのでしょうか。

私たちは、嫌いというより愛していると言うほうが難しいような感覚さえ持っているかもしれません。これって、やっぱり正気じゃないなと思います。

生まれた後、どういうわけか、そしていつの日からか好きな人だけではなくて嫌いな人がいるようになってしまいます。

愛することを忘れてしまうと、攻撃的な思いが生まれてしまい、それに慣れてしまうと更に愛することから遠ざかってしまうのです。

私たちは誰もが愛したいという欲求を強く持っているはずです。ただ忘れているだけで。自分自身もいつも愛するというよりも、ただ生活するということに意識が向けられていると気づいています。

寿命が尽きるまで人生をまっとうすることが目的ではなく、愛することが目的だとはっきりさせようと思います。きっと、全体の過半数である35億人の人がそのことを意識したら、世界は全く変わると思います。

毎朝、目が覚めたときに「愛するためにやってきた」ということを思い出して、なるべく愛を与えられるように実践していこうと思います。

真の自己

どんなに記憶力のいい人でも、生まれた瞬間から今日までのすべての記憶を持っている人はいませんね。幼いころになればなるほど、記憶は曖昧になってしまうものです。

それとは逆に年齢を重ねていくと、今度は記憶力そのものが悪くなってくるのか、昨日のこともはっきり覚えてないというようなことも起きてきます。

ただどれほど記憶が曖昧になったとしても、この自分が自分なのだという自覚はずっと続いているというのは間違いないところです。

人生のどこかで自分が別の自分になってしまったということはないわけです。そして、今いるこの自分とは、生まれたときからの様々な経験の積み重ねの結果であると思っているのです。

だからこそ、例えば10年タバコを吸い続けてきたという記憶がある人は、禁煙するのがとても大変だということになるし、昨日初めてタバコを吸ったという記憶のある人は、タバコを今日吸わないでいるのは簡単なはずです。

ここでちょっと奇想天外なことを考えて見ます。寝ている間に自分が生まれてから今日までに経験したすべての記憶を作られたものとします。

目が覚めたときには確かに数十年前に生まれて、こういう両親に育てられて…という記憶があるのですが、それは昨晩寝ている間に作られた記憶だとします。

そうやって作られた記憶が本当の記憶と同じであれば、何も問題なくいつもと変わらぬ今日を生きることができるのですが、もしも違う記憶が仕込まれたとしたら今の自分は違う自分として生きることになるはずです。

他の誰かの記憶を入れ込まれたら、自分は別人として生きることになるわけですが、それを不思議とも何かが変だとも思わないのです。

なぜなら、その記憶でずっと今まで生きてきたと信じているわけですから。もしも、毎晩まったく違う人の記憶を入れ込まれるとしたら、毎日完全にその人になって今日を生きることができるわけです。

そうなると、この自分とは一体何者なんだろうかと考えてしまいます。この自分とはそうした記憶の結果出来上がる意識なのか、それともどんな経験をしても自分は変わらずにいるのでしょうか?

私はまったく違う自分のパーソナリティになってしまうと予想します。なぜなら、自分のアイデンティティというのは、経験から作られるものだからです。

自分とはその程度のものなのです。自分が目の前の人の記憶を寝ている間に入れ込まれたら、その人のパーソナリティになってしまうということです。

でも誰の記憶を入れ込まれても決して変わらぬ自分というものがあるとしたらどうでしょうか?それこそが本当の自分、だれにも共通にある真の自己だと思います。

その自分は何があっても変化することはありません。すべての人と分かち合っているその自分は永遠の中で生きているからです。その自分を思い出すことができたら、何事にも動じない圧倒的な平安の心でいられるのでしょうね。

誘惑に強くなる

恐怖という感情は罪悪感からやってくるのですが、その形はまさに七変化すると言ってもいいのです。ある時には不安に、またあるときには怒りや憎しみに、そして悲しみや絶望など、ありとあらゆる苦悩に関連する感情に変化します。

こうした恐怖グループともいえる感情の中で、誘惑という言葉を聞いて真っ先に思い浮かぶのは、やはり怒りですね。というのも、怒ろうかどうしようかという迷いを自覚することが多々あるからです。

いきなり感情がすごい力で押し寄せてきてしまうのであれば、それはもう手の施しようがありませんので、理性はその威力が静まってくるまで使うことができなくなります。

しかし、怒りの場合にはその多くのものはリアルタイムに自分で誘いに乗ってしまおうか、それともやめておこうかという選択ができるような気がします。

といっても、我慢するということでもありません。勿論我慢してしまうこともありますが、今の話しは我慢とは違う選択のことを言っているのです。

例えば、目の前に大好きなケーキがあるけど、もう夜も遅いし胃腸のことを考えて明日食べることにしようと思うことは一概に我慢とは言えません。

理性で食べてしまうか、明日にするかを選択しているのですから。それと同じように、怒ろうとする誘惑というのが心の中にあるのです。

そのケーキ食べてしまえ!という自分をそそのかす声と同じように、相手に怒りをぶつけてしまえ!という誘惑の声が聞こえるわけです。

その時に、その誘惑に負けてしまうと相手に怒りをぶつけてしまいます。しかし、その誘惑に負けずに意識して心の平安を作るようにすることで、穏やかな気持ちでいられることも知っています。

怒っている自分と平静な自分とを比べたら、それは平静でいられる方がより幸せに近いということは誰でも知っている事実ですね。

それなのに、怒りという誘惑に負けてついつい文句を言ったり、愚痴を言ったり、直接相手に怒りをぶつけたりしてしまうことになってしまうのです。

誘惑に負けてしまうことがあったとしても、決して自分を裁かないことです。その上で、自分はいつでも平安を選ぶことができるということを、その都度確認することです。

誘惑をしっかりと感じつつ、その威力を見てあげればいいのです。逃げる必要はありません。そうやって向き合ってしまうと、かえってその誘惑から開放されるように思います。

具体的には、「今自分は怒りの誘惑を感じてる!」と心の中でつぶやくといいです。そうして、誘惑の力を認めてあげるのです。

十分にその強さを感じたら、それと同じだけの強さで平安を選ぶことができると意識するのです。こんなまどろっこしいことを、その都度やっていると結果としてその誘惑に負けないでいられるようになることもあります。

興味を持っていただけたら、是非毎日それを実践して効果のほどを試してみることをお勧めします。うまくいってもいかなくても、誰も何も損することはないので安心して何度でも試してみて下さい。

新しい潮流

新しい年がやってきましたね。だからと言って具体的に何があるというわけでもないのですが、私の周りでは、人々の意識がある意味で覚醒していくのではという話題があちこちから聞こえてきています。

でも意識の覚醒というのは実際にはどんなことなのでしょうか。私が思うに、それはより大切なことに多くの人たちが気づくようになるということです。

ではその大切なこととは、一体何でしょうか。それは人類が始まって以来の質問である、自分たちは一体何者なのかということに対する答えに近づいていくことになるということなのではないかと思っています。

自分達の本質、心の奥にあって決して失った事の無い本当の自分達の姿を思い出そうとしているのではないでしょうか。

戦いや飢饉、病気による苦しみなど、人類が味わってきた多くの苦悩に対する見方を変えていくことになるという気がしています。

それは物質的なことが支配している外側の世界への投資から、内的な世界へと意識を向けていくようになるということです。自分達の思いそのものが苦悩を作り続けてきたという新たな気づき。

そうしたことにあの人もこの人もあちこちで気づいていくことになると感じています。その意味で、今の地球上で一緒に生きている私達はとても珍しい体験を共にすることになると思っています。

今まで人類が信じてきたあらゆる常識が根底から覆されてしまうことになるかもしれません。真の幸せとはどういうことなのかということについても、もっと明らかになっていくはずです。

2011年という年が、そうしたことが明確に始まっていく記念すべき年なのではないかという気がしています。みなさんはどう思われますか?いずれにしても、私たちは一人では何もできません。

みんなでそうした意識革命を分かち合って、共に多いに人生を楽しむ事ができたらと思っています。ご一緒にまた心の癒しを進めていきましょう。

今を生きる その3

自分は朝早く起きるのが苦手です。若いときと比べれば少しはよくなってきたようにも思うけれど、それでも根本的には寝ていられる状況なら、起きてしまうことは損だと思っているふしがあるようです。

自分でもそれって一体何が損だというの?と自分に聞きたいくらいですが、聞いたところでよく分からないのでそのままにしてあったんですが。

でも理性では、「早起きは三文の徳」ということを理解してるつもりです。実際、毎日実践しているコースのワークにしたって、早く起きたらその分多くの実践をすることができるわけですから。

寝ていたら、何の実践もできずにその時間が過ぎていってしまうと考えたら、そのほうが損だということぐらいは分かります。

朝目が覚めたときに、何となく気分がすぐれないという状態をしばしじっくり観察してあげてると、どうも攻撃を受けていると思っている意識があるようです。

攻撃されているのなら、自分は被害者であると思っているということですね。朝、起きただけで被害者だと感じるのなら、それは確かに損したという気持ちがあっても不思議ではないです。

それで気がつきました。朝起きた瞬間から、もう自分を攻撃しているんだと。びっくりしますが、朝起きた瞬間に過去に生きているということです。

攻撃のもとは罪悪感だし、それはすべて過去への思いであることはもう分かっているので、自分でも呆れてしまいました。

目が覚めた瞬間くらいは、今を生きれよ!とはっぱをかけてやりたくもなるけど、そうなってはいないということが判明してしまいました。

かえって、朝起きたときの方が、本当の自分の姿を表しているのかもしれないですね。どうも、この人生のままでその日一日を過ごすことに抵抗している感じもします。

だから寝ていたいということです。よほど、過去に縛り付けられている意識が大勢いるんでしょうね。しかし、逆に今度は夜寝るのは損だと思っている意識もいるようです。

寝てしまうと、何か楽しいことを逃してしまうような気持ちがするのかもしれないですが、何せ我がままな奴がお腹の中にいっぱいいるような気がしています。

そしてその意識たちは全員が過去にしがらみを持っているという思いがあるようです。彼らを黙らすためには、この瞬間だけが実在だとすることなんでしょうけど、明日の朝どうなるか試して見ます。

今を生きる その2

今この瞬間だけに意識を集中していられると、身体や心の苦しみや痛みから解放されてしまいます。このことは誰もが経験していることです。

その昔、ボーリングが流行っていたころですが、両親と一緒に時々行ってたことがあったのですが、ある時、母親が歯の痛みを抱えていながらも、ボーリングがしたくて一緒に行ったことがありました。

本人によると、ボールを投げる準備に入ってから投げ終わるまでの間は全く歯の痛みは感じないと言っていました。人間てゲンキンなものだね、なんて言って笑っていました。

ボールを投げることに夢中になっているので、歯痛への意識が遠ざかったためにそれを感じないでいられたということでしょうね。

今を楽しんでいるのに、頭がズキズキしてきてどうにもこうにも今を楽しめなくなってしまった、ということがあったとしたら、それは過去に無意識が向いていたという証拠です。

痛みは今にはないからです。それはすべて過去と繋がっている罪悪感からやってくるのですから。自分の場合にもそういったことはよく起こります。

調子よく大好きなワインや食事を楽しんでいる、ああ今を楽しんでるなと思っていても、急に何となく不穏な感じがしてきて、お腹が痛くなったりします。

本当に今を生きているのなら、そうしたことが起こるはずはないのです。でもこれって難しいですよね。自覚では今を楽しんでいると思っているのですから。

今に意識を向けていられたら苦痛は感じなくなるということを、何かをやってそれを紛らしているに過ぎないと思っている方がいるかもしれません。

でもそうした気晴らしとは違うものだと私は思っています。実は気が紛れているというよりも、今というこのときには本当に苦痛は存在できないということです。

本当は痛みがあるはずなのに、それを感知していないだけだと解釈することもできますが、本質的にはその瞬間痛みというものは存在しないのです。

なぜそういうことが言えるのかというと、苦痛そのものは自分の思いが作り出しているものだからです。思いとは別個に苦痛があるということこそ、思い込みに過ぎないのです。

ですから、私たちは気づかぬうちに苦悩を起こしてみたり、停止してみたりということを都合よく操作できるということです。苦悩を起こすときには、過去の罪悪感を引っ張りだしている時なのです。

今というこの瞬間には苦悩のもとになるような思いは入って来れないのです。だから、喜びや楽しみばかりになって、心が満たされるということですね。

今を生きる

今を大切に生きましょう!という言葉があって、一見よさそうなのですが、でもそれって良く考えてみると後先のことを考えずに行動するってことにならないかなと思われるかもしれません。

例えば、目の前にあるケーキを食べたいという、この今を大切にするので食べたいだけ自分に食べさせてあげて、あとで今までのダイエットが無駄になってしまったらどうするの?といったことがありますね。

このケースでは、確かに未来のことを心配せずに食べたいだけ食べるわけですから、未来からは開放されていると言えます。

しかし、実はしっかりと過去に縛られているということに気づく必要があります。身体が自然に欲する以上に食べたいという衝動がくるのは、過去の満たされない思いが原因だからです。

そうやって過去の不満を現在にまで引きずって生きている限り、今を生きることはできないということです。それは決して自由とは言えない人生になってしまいます。

未来のことを必要以上に心配して、今現在の自分の行動を抑制してしまうのは確かに大切な今を優先して生きているとは言えなくなってしまいます。

未来への不安を手放して、今を楽しむことに集中できればそれだけ今を生きていることになるのですが、その時に過去の思いを引きずってないか注意してみてあげることです。

過去から開放されて初めて、本当の意味で未来からも開放されるのです。そして、時間のトリックとして存在するように思える過去と未来から開放されれば、今を生きることになるのです。

本当に今を生きている瞬間というのは、思考があまり働いていない状態かもしれません。しかし、それはただぼうっとしているというのではなく、我を忘れて喜んでいたり、笑っていたりする瞬間なのです。

その状態の心には罪悪感も恐怖感もありません。そうなると、あっという間に愛が膨れてきて心を満たしてしまいます。それこそが今を生きるということですね。

結果を求める心

以前にも書いたことがあったかもしれませんが、私は夢の中で何かをやろうとして、でもそれが思ったようには出来なくて、中途半端なところで目が覚めてしまうということがよくあるのです。

そんな時には、あれは夢だったと分かっているはずなのに、まだそのことが頭から離れずに残ってしまっていて、何だかいやな気分が続いてしまいます。

徐々にはっきりと覚醒していくにしたがって、夢だったんだからもういいじゃないと自分に言い聞かせて、ようやくそのことを忘れていくことができるのです。

とても馬鹿馬鹿しいことですが、夢だと分かっていても、途中でやめてしまってはいけないというような、妙な感覚が生々しくてすぐには断ち切れないのですね。

夢といえどもそんなふうですから、これが現実のこととなったらもっと思いを断ち切るのは難しくなるだろうことは想像に難くありません。

こうした思いというのは執着というのでしょうか。やりかけていたものを、こころざし半ばで頓挫させてしまうことが非常に苦手のようです。

きっと誰でもそうした傾向というのはあるのかもしれませんが、この感覚は自分が関わっている何かに対してすぐに潔く手を引くということができないことを意味しますね。

これだけ頑張ってきたのだから、ここで諦めてしまうのは勿体無いというような気持ち。それと、やっぱりやり遂げて何かしらの成果を出さないと駄目だという思い。

こうした思いを持ち続けていると、どうも今この瞬間を楽しむということから離れて行ってしまうように感じます。人生に翻弄されてしまうということに陥りやすいという感じもします。

どんなことにせよ、その時その時をただ楽しんで生活するように心がけることで、結果を求める人生から開放されて行けば、起きていることに翻弄されなくなるのではないかと思います。

毎日をただ笑いながら、みんなと和やかな時間を楽しむこと、結果ではなくてその過程を喜びながら生きられたら本当にいいなと思います。