心配ごと

私たちは日頃、常に何か心配ごとを抱えているものです。自分には、一つも心配ごとなどないと言えるなら、その人は本当に幸せな人ですね。

でも大抵の人はそうではありません。一つや二つ、あるいはそれ以上の心配ごとを持っています。その心配ごとも少しだけ心配というものから、結構深刻な心配ごとまで多岐にわたります。

そしてある一つの心配ごとに関しても、こうなってしまったらどうしよう、こうしたことが起こるかもしれない、などなど沢山の状況を想定して不安が募っているわけです。

そうした思いは、実はすべて「自分自身を攻撃していることに過ぎない」とコースでは教えてくれています。分かるような分からないような話しに聞こえるかもしれませんね。

このことをもう少し分かりやすく説明するために、心のメカニズムを順を追ってみてみることにします。ある理由から自分に対する否定的な思いを持ったとします。

そうすると、それは都合の悪いものなので、感じないようにするために心の奥に抑圧します。すると、そうして隠したものは必ず外側の世界へと投影することになります。

それは元々否定的な思いを感じさせるものなので、外の世界を攻撃したくなるはずです。その攻撃的な思いが持続するためには、その対象物を傷つけられるとの思いが必要です。

対象が傷つかないと思いながら攻撃し続けるということはないわけですから。でも対象が傷つく可能性があるとの思いはどこからくるのでしょうか。

それは、自分自身が攻撃されたら傷つくはずだとの思いからくるのです。もしも何が起ころうとも自分は傷つくことがないと思うのであれば、決して心配ごとを持つようにはなりません。

こんなことが起きたら大変なことになる、こうなったらとても怖いなどの心配事は、結局のところ外側からの自分に対する攻撃だとみなすことができます。

そしてその外側からの攻撃と思えるものは、結局元に戻って自分が自分を攻撃しようとする思いを投影したものであったというわけですね。

自分を攻撃して幸せになることは決してありません。だからこそ、心配ごとに気持ちを乗っ取られないようにいつも自分を監視することは大切なことです。

心配ごとの想念がやってきたと思ったら、それを自分を助けてくれる大きな存在に全面的に委ねてしまうことです。それができるように、日頃から心の訓練をすることをお勧めします。その方法は、コースが詳細に教えてくれています。

綺麗好きと潔癖症

幼い頃には掃除をする意味というものが全く分かっていなかったことをはっきり覚えているのだけれど、不潔なものは駄目という感覚も強く持ってもいました。

潔癖症のたぐいの感覚というのは、怖れから来るわけですからいわゆる綺麗好きというのとは根本的に違うのだと思います。

きれい好きとは、単に整頓されたものが気持ちいいとか、美しいものが好きという感覚で、これは怖れというよりは愛に近い感じがします。

そして綺麗好きな人は、面倒だなと思うよりも綺麗にしておきたいという気持ちが勝っているので、いつも身の回りをきれいにしておくことができるのですね。

子供の頃はこうした綺麗好きというのはほとんどありませんでしたね。中学生になるまで、シャンプーなんて一週間に一回くらいしかしてなかったですし。

歯磨きも滅多にしないような子供でした。これは今考えるとちょっとおぞましいですが…。でもレコード(その昔はCDなんてなかった!)に指紋が付くのは絶対許せなくて。

いつも表面を綺麗に掃除してました。でもでも、部屋を掃除するということがどんな意味があるのかというのは、やっぱり分からなかったんです。

こんなのが、きっと自分の本当の姿なのかもしれません。ただ、大人になってくると、それまで顔も洗わずに朝起きたまんまで外出していたものが、必ず朝風呂に入るようになるんですね。

今の仕事をするようになって、セッションルームを毎日掃除するようになって、ようやく掃除をする気持ちよさというのを40代半ば過ぎてから知った次第なのです。

こういうことは放っておいても次第に変わっていくものなのかもしれません。子供の時に躾けを厳しくされなくても大丈夫なものなんですね。

小さいお子さんをお持ちの親御さんにお伝えしたいのですが、思ったように自分の子供がやってくれないといって、心配したり嘆く必要はないということです。

それよりも、潔癖などのほうをもっと心配してあげるべきかもしれません。そうした恐れからくるものは心の癒しが必要となることが多いからです。

しかしそうしたことですら、本当は心配することよりも子供の心を信頼することが大切です。心配は否定を意味するからです。

心配する代わりに、丸ごと子供を受け入れてあげることに心を使うことがとても大切だし、それこそが愛だと思うのです。 そしてそれは必ず子供の心に届くので、子供の心は癒されていくことになりますね。

一人では味わえない満足感

会社員の頃に、まだ職場で誰も手を出したことがないコンピューター関連の仕事を任されて、自信もなくて辛かったのですが、最後まで自分一人でやりたいと言い張っていたことがありました。

上司は、仕事がスケジュール通り完成しなければ、会社レベルの問題にもなってしまうために、とても心配だったようなのですが、私はというととにかく独りでやり遂げたいという思いだけがあったのです。

結局は成し遂げることができたし、そのことで自信を勝ち取ることもできたはずですが、それは思ったほどの満足感を得ることはできませんでした。

それでも、誰の力も借りずに自分一人の努力と能力によって一つの仕事を成し得たということは若いその頃の自分にとっては大きかったと思います。

確かそれは結婚する前だったと思うので、30年も前のことです。今となっては、まったく逆に自分一人では何も成し得ないということが分かるようになりました。

自分一人でできることは本当にたかが知れています。でも誰かと一緒だと、それが一人だろうと何人だろうと人数に関係なくとても大きな満足感を得ることができるのです。

自分には誰でもいいから、最低でも誰か一人が必要ということがとてもよく分かってしまったのです。自分以外の誰かと分かち合うことのすばらしさを経験してしまうと、どんなに一人で何かを成し遂げたとしてもそんな満足など足元にも及ばない幸せがやってくるです。

その満足感というのは、決して一人では味わえないものです。私たちは一人ひとりの力というのは、とても小さなものであると言わざるを得ないのですが、二人以上が分かち合うとたちまちものすごいことになるのです。

これは単に力を合わせるということとは違って、二人以上の人が心を一つにすることで神からの賜物である本当の力を使うことができるということですね。

周りにいてくれるみんなはすばらしい存在だということです。そして、そのみんなと分かち合うことで、とてつもないパワーを使うことができる自分もみんなと同じようにすばらしいということです。

みんなに対する感謝の気持ちを絶えず感じ続けることになってしまいます。こうして言葉で表現すると、どことなく違和感もあるのですが、とにかく誰もがすばらしい存在だと言いたいのです。

幸せへの気づき

コースのテキストには心に染み入る珠玉の言葉が満載です。今思い出して心の中で唱えてみるだけでも心が喜ぶのが分かりますね。例えば、

「自分の本質とは想念である。」

「正しい自分でありたいか、それとも幸せな自分でありたいか、二つに一つ。」

「罪を犯すことと、罪を裁くことは同じこと。」

「攻撃しているという思いと、攻撃されているという思いも同じこと。」

そしてワークブックでは、こうした基本的な原則を踏まえたうえで、より実践的な見方でそれを身につける方法を系統立てて教えてくれるのです。

自分のためになると思って今までやってきたことのほとんどが、自分を苦悩させることだったと具体的に気付かせてくれるのです。

何百万年もかけて自分に学習させてきたことをきれいさっぱり手放して、全く逆のように自分には思える真実を新たに学ばせようとすることは、誰にとっても簡単ではないでしょう。

でもでも、心のどこかでそれを大喜びしている部分があるというのも、もう隠せないのだからこのまま波に乗って行くしかないのだと思います。

その波は確実に自分の周りにいてくれる人達にもやってきているのを見て取れるし、そしてそのことがまた自分を勇気付けてくれるのでとてもありがたいのです。

自分が幸せになるためには、周りにいてくれるみんなとコースがあれば百人力だと思えるようになりましたね。自分にとって、宝はみなさんだと本当に気づきました。

少し早いですが、来年に向けてこの大きな真実へのうねりが、もっともっとリアルに感じられるようになっていくようにと願わずにはいられません。

またご一緒に、幸せへの気づきへ導かれていくことを大いに楽しみなら進めて行きましょう!

引き付け合う力

ニュートンの万有引力の法則のことは誰もが知っていると思います。りんごが木から落ちるのを見て、ニュートンはそれを発見したという逸話も残っています。

りんごと地球が引き合っているということですね。もしも、両者がはねつけ合っていたら、りんごは木から空に向かって飛んでいってしまうことになります。

地球が太陽の周りを公転し続けるのも、互いに引き合っているから起きていることだし、そうやってこの宇宙のありとあらゆるもの同士は引き付け合っているのです。

普段は誰もそんなことを気にしていないのですが、よく考えてみると不思議な話しだとは思いませんか?砂場にある無数の砂粒同士だって同じく引き付けあっているのですから。

私たちが地球上でこのように暮らしていられるのも引力のおかげですね。あらゆるもの同士が引き付けあっているのに、なぜ一つにまとまってはしまわないのかも不思議です。

素人の勝手な解釈ですが、科学者によると今から137億年も前にビッグバンが起こり、そこから宇宙は膨張を始めたとされていますので、その激しい爆発の力が今もって引力よりも強く働いているからかな、なんて思ったりします。

地球が太陽とくっついてしまわないでいるのは、遠心力と引力のつりあいがちょうどとれているからですね。もしも、公転速度が遅くなったりしたら、太陽と地球は一つになるでしょうね。

そうすると、地球上にいる我々は全員死んでしまうことになるでしょうけれど、ばらばらだったものが一つに戻ったと考えることもできます。

でも何もかもが互いに引き付け合うという性質を持っているなんて、なんか楽しい感じがします。愛するもの同士はやっぱり引き付け合うからかもしれません。

愛は互いに引き付けあって元々の一つの姿に戻ろうとするのかもしれません。それを妨害しようとするのが、物理的にはビッグバンの力であり、非物理的にいえばそれは罪悪感、そして恐怖なのだと思います。

ですから、私たちの心の中から、罪悪感と恐怖が消えてしまえば、愛だけになってそれはすべてを一つに戻す原動力となるのです。

癒されていく姿

気長に自分と向き合って、あきらめずにコツコツと癒しを進めていくと、必ずあるときにふと自分が楽になっていることに気付かされます。

自分はセラピストになって本当によかったと思うことは、決して癒しを忘れないでいられるということです。忘れてしまったとしても、思い出したときにまた再開すればいいのですが、中断している間がもったいないのです。

中断すると、その間に以前の状態に引き戻されていってしまうことが多いのです。完全に元に戻されるということはありませんが、相当に戻される姿を何度も見てきました。

やはり継続は力なりというのは本当なのですね。そして、コツコツというところがミソなのですが、あまり頑張りすぎたりして力が入ってしまうと、どこかで息切れしてしまいます。

息切れしないようなペースを自分でわきまえて続けていられると、急激な変化や何か特別なことが起きるというよりも、とても緩やかな変化がやってきます。

文字通り向こうからやってくるという表現がぴったりかもしれません。静かに横になっていると、す~っと睡眠状態に入るのと同じように、ごく自然な感じでやってきてくれます。

自分の力で眠ろうと頑張っても決して眠れないのと同じですね。力ずくで心の癒しを進めることはできないと思ったほうがいいのです。

この仕事を始めてもうすぐ丸10年が経とうとしています。その間には、自分の癒しもさることながら、本当に沢山の方々が癒されていく姿を目の当たりにしてきました。

その人なりのペースや進みやすい時期などもあるので、それこそ千差万別の変化をしていく姿を見ることができました。それは本当に感謝の気持ちでいっぱいですね。

人が癒されていく姿というのは、何度ご一緒に体験させていただいてもとてもいいものです。その懸命な姿にはいつでも感動させられるのですから。

そして願わくば、すべての人が癒しを特別なことと考えるのではなく、ごく自然により幸せになっていくためにそれを意図して毎日の生活を送るようになって欲しいなと思っています。

防衛と攻撃は表裏一体

子供が友達にたたかれたりして泣いて帰ってきたら、きっと男の子であったとしたら親はやられたらやり返しなさいと言って子供にげきを飛ばすこともあるかもしれませんね。

それは私たちの信念として、攻撃はいいことではないけれど、防衛は仕方のないことであり、攻撃と防衛は根本的に違うと信じているということです。

その証拠に正当防衛という言葉があるくらいですから。防衛は正当なものだという認識が世間に広く行き渡っているということです。

過剰な防衛は正当かどうかという議論はあるにしても、通常防衛というと、攻撃し返すパターンや、身を固めて防御する方法、そして逃げるという概ね三つのやり方があります。

どんな防衛の仕方であったとしても、攻撃に対して否定的な反応をしていることに違いはありません。そして、よくよく考えてみるとこの防衛というのは攻撃と表裏一体なのです。

コインの表と裏のような関係と言えばいいのでしょうか。100円硬貨は表になっていようが裏になっていようが100円硬貨として何の違いもありません。

それと同じように、防衛と攻撃は「恐怖」というコインの表と裏だと思えばいいのです。防衛にしても攻撃にしても、どちらも恐怖における違う形、あるいは違う側面を表しているだけのこと。

ところが、最初に攻撃したほうが悪いに決まってる、その攻撃に対する報復としての攻撃は正当防衛だと思っているのです。

兄弟喧嘩を裁くときに、どっちが先に手を出したの?といって、親が先に攻撃したほうを悪者とする裁き方をするのは、防衛は正当だという考えからきたものですね。

でも喧嘩両成敗として、喧嘩をしている両者ともにいけないことだよと叱る親もいます。私はこの喧嘩両成敗というのが大嫌いでした。

自分は何もしていないのに、相手から一方的に理不尽な攻撃をされてしまったがために、防衛の一手段として報復しただけなのに、なぜ責められなければならないのかとても不服だったからです。

しかし今になってよく分かってきたことは、実は相手が攻撃してくるのは、元々自分の心の中にあった攻撃的な思いが単に形となって投影されて外に表れたに過ぎないということです。

このことが本当に分かってくると、正当防衛などという言葉がとても怪しい響きを伴って聞こえてくる感じがするようになってきました。

だから、防衛とは攻撃なのです。その防衛がどんな形をとろうとも、それは攻撃に違いありません。この防衛を続ける限り、必ず攻撃を受ける事態になるということです。

攻撃されなくなる防衛の仕方はたった一つしかないのです。それは「許す」ということ、それも相手に罪はないとして許すという方法。

これだけが、真に自分を守ることができる唯一の防衛方法だということです。でもこれには通常、激しい抵抗を感じるはずです。

相手が悪いのになぜ自分を守るために相手を許さねばならないのかと。この反論は常識的には最もなことですが、この常識のままでは攻撃を免れることはできません。

疑うなら試してみることです。誰かに攻撃的な言葉や態度をされたときに、今までどおりの防衛をするのではなく、相手のその態度は自分の攻撃心の投影だとするのです。

そうやって、相手そのものは無罪として許してみるのです。それがうまくいったときには、きっと相手の態度が急変するはずです。

是非、実践することを強くお勧めします。できなくて当然、できたらそのことを喜んで自分を褒めてあげればいいのですから。そしてそれが継続すると、結果として攻撃されない人生を手に入れることができます。

本当の自由とは

子供の頃は何をするにも一人ではできなくて、大抵は親のサポートを必要としています。それが徐々に一人で電車に乗れるようになったり、自分の意思で学校を決めたりするようになります。

そうやって、自立していくことで自分は自由なんだと感じるというわけです。自分には○○ができる自由があるという感じで自由というものを認識しているのです。

確かに犯罪を犯して牢獄に繋がれている人よりも、外を好きに歩きまわれるほうが自由だと言えそうですが、本当の自由とは目には見えないものなのです。

つまり内面的なものだということ。そして、明確に表現すれば、自由とは過去から開放されている心を持つことであると言えるのです。

なぜなら過去と繋がっている意識というのは、必ず未来を制限してしまうからです。過去が罪であれば、未来はその罪を償うためにしか使えなくなってしまいます。

また、過去に様々な思い残しを持っている人は、それを何とかして未来で解決しようとしてしまうために、未来の自分を縛り付けてしまうのです。

実際、そのようにして過去と未来は繋がっているのです。過去への縛りがない心だけが真の自由を手に入れている状態であるということはそういうことなのです。

そうした心は未来のことを白紙として見ることができます。つまり、興味の対象は未来ではなくて今現在だけに絞られているのです。

それが自由というものです。そして、その状態では未来における恐怖というものがなくなってしまうので、愛に満ちて生き生きとした心でいられるのです。

自由とは、自立によって勝ち取るのではなく、過去をないものとして開放することができた心だけが感じられるものなんですね。

過去は今現在にはないということを繰り返し自分に教えてあげることです。過去と今は何の繋がりもありません。過去の何かを隠しておいて、このことを体得することは不可能です。

なぜなら隠したものを手放すことはできないからです。過去に意味はないとして、あらゆる部分に光を当ててしまいましょう。

残るは今を楽しむ、喜ぶことだけが自分を歓迎してくれるはずです。それこそが、本当の自由なんだということを忘れないことですね。

平安か戦いか その2

私たちは心の底では平安を求めています。それは平安こそが本当の幸せだとどこかで知っているからです。でも残念なことにそれを手に入れようとして戦いをし続けて来てしまいました。

戦うということは勝ち取るということですね。ところが、いくら戦って勝ち取ったとしても、それは必ずあっという間に打ち砕かれてしまうのです。

だからこそ、延々と戦いの歴史を繰り返しているということですね。そのことに、本気で気づかなければならないと思います。

平安を求めるということは、危険から自分を守ることを意味します。それを防衛と呼びますが、その防衛のやり方が今までは戦いであったということです。

戦いによって自分を守ろうとする行為は、それがどれほど正当なものであったとしても結果は平安にはならないということです。

戦いとは攻撃を意味しますから、相手を攻撃しておいて真の平安を手に入れられるはずはないからです。そして攻撃による防衛は、益々自分を危険な状態へと追いやってしまうのです。

コースでは、戦いによって平安を手に入れようとする防衛法ではなくて、全く危険のない真の防衛法によって、平安を手に入れられると教えてくれています。

その防衛法とは「許し」です。許しだけが、攻撃を使わない唯一の防衛法だということです。ただ、残念ながら私たちはその方法が自分を防衛できるとはまったく信じていません。

許しなどという悠長なことを言ってる間に、悪意のあるものに騙されたり、脅されたりしていたのでは到底自分を守れないと信じ込んでいるからです。

確かにここは難しいところですね。それは自分を守ることは身体を守ることだと思っているからです。身体こそ自分の主体だと思えば、そうなってしまうのは当然とも言えます。

でも本当の主人は身体ではなく心です。心は攻撃ではなく、許しによってのみ癒されて、その結果として本当の平安を手に入れることができるということです。

平安か戦いか

私たちが求めていることを大胆に二つに分類するとしたら、それは平安なのか、それとも戦いなのかということになってしまうのです。

心の平安というのは、目に見える状態としては世界や身近なところの平和になるんですが、それじゃあ誰だって平和を求めているに違いないと思うかもしれません。

でも本当はそうではないのです。世界のどこかではいつも戦禍が絶えないのですが、それに比べれば今の日本は確かに平和そうに見えます。

しかし、これは目に見える戦渦がないだけで、冷戦状態が続いているともいえます。それはきっと私たちの心が日々戦っているからです。

つまり、平安(平和)を求めているという自覚の裏には、戦いを求めている心があるということです。百歩譲って、それは平和を手に入れるための戦いだと言えるかもしれません。

戦いに勝つことで安心できるからですね。地球のあちこちで起こっている戦争だって、当事者にしてみれば相手が悪いので自分たちが安心して生活できるようにと戦っているだけだと言うでしょう。

それは実は不正を暴いて自分は正しいと証明しようとする行為であり、結局これも安心を手に入れようとする行為であるといえます。

ところがこの安心がクセモノなのです。実は、この安心とは戦ってしか得られないものだと私たちは信じてしまっているからです。

これは心の中にいるエゴの策略なのです。そして、エゴは安心することが目的ではなくて、その目的を達成するために戦う心を維持させようとするのが本当の目的なのです。

私たちはそれとも知らずに、日夜戦いの日々を過ごしているということです。分かりやすい例で言えば、中東の方で起きている戦争は、宗教戦争や土地争いがほとんどです。

宗教戦争とは、自分たちが信じる神だけが本当の神なので、他の人が信じている神はニセモノだとしてナキモノにさせようとするのです。そうやって自分たちの正しさを証明することで、安心を得ようとするのです。

領地戦争にしても、この土地は先祖代々自分たちのものなんだから、お前たちは侵略者なので出て行けという論理であって、出て行かないなら攻撃するということですね。

もう気づいたほうがいいと思うのですが、安心を得るための戦いは、実は戦いそのものが目的だったということです。

安心を得たいのなら、その方法を決して使わないように放棄することです。安心とは心の平安のことですから、それは戦いを放棄することでしか達成できません。

大音量でロックを聴くことが平安を求めていると言えるでしょうか。絶叫マシンに乗ってスリルを味わうことが平安でしょうか。

クルマのレースでスピードを競ってみたり、政治討論をすることが本当に平安を求めていることだと思うでしょうか。

もうそろそろ分かりましょう。私たちは決して平安を心から求めてはいません。戦いの中にいたくて仕方ないということです。

しかし、本当の幸せとは永続的な心の平安なのです。まずは、平安を求めてはいないという実感を毎日の生活の中で感じるようにしてみてはどうでしょうか。

そしてそれが理解できたら、戦うことを少しずつ手放していくように意図的に生活するよう工夫していくことです。本当は誰もが心の平安を願っているのですから。