分離は不可能

一つのりんごを包丁か何かで真っ二つにすることができますね。みかんでも、梨でも、柿でも同じことです。果物ばかりではなくて、もっと大きなものでも二つに分けることができます。

原理的にはとてつもなく大きな地球でさえ、二つに分離することができます。勿論それはイメージの中でのことですが。

ところが、大きさが無限大のものがあったとしたら、それを分けることはできるでしょうか?いいえ、それは不可能です。

なぜなら、大きさが無限大ということは大きさの概念がそこにはないからです。つまり、大きさのないものを分離して二つにすることはできないということです。

分かったような分からないような変なお話しですが、実は大切なことが含まれています。私たちが常識的に一つのものを二つに分離することができると考えているのは、有限である世界でのことなのです。

コースは実在とは無限であると言っていますので、分離することは不可能なのです。無限ということは、すべてであるということでもあるので、すべてを分離することもできないのです。

私たちの本質である実在も分離してはいないのです。いま、便宜上私たちといいましたが、私たちはバラバラな個人だと思い込んでいるだけで、実在は分離することなどできない唯一の存在だということです。

それはつまり、自分以外は何もないということ、自分とはあらゆるものの一切合財であるということです。だからこそ、それを分けるということは不可能なのです。

すべてであるからこそ唯一である自分を分離して、一人、二人と数えることもできません。それなのに、私たちの自覚はみんなが別々の心を持っていると信じています。

本当は、誰もがたった一つの心を分かち合っていると言うこともできます。その唯一の心が分離してバラバラになったとしたらという妄想を抱いているだけなのです。

すべてが一つであるなら、攻撃することは不可能になります。なぜなら、ターゲットは存在しないからですね。自分を失うということも不可能です。

自分だけでできる唯一のことは、ただ愛するということだけなんです。だから、本当の私たちは愛することだけが出来る存在だということです。それ以外は、丸ごと全部幻想に過ぎないのですね。

この話し事態が幻想なにか、この分離の世界が幻想なのか、どちらの方が自分にとって都合がいいと思いますか?それはきっと幸せになれるほうを選ぶはずですよね。

愛は気長

子供の頃に比べて、外を歩いているときに野良猫に出会う機会が少なくなったように思うのは私だけでしょうか?

飼い猫なのか、野良猫なのかは分からないのですが、道で猫に出会ったりするとついそ~っと近づいていって、様子を見てしまいます。

ほとんど撫でさせてはくれないと知ってはいるものの、できることならと思ってゆっくりゆっくり寄っていくのですが、やっぱりどうしても逃げてしまいます。

とても残念なのですが、仕方ないなと思って次のチャンスを狙っているのですが、なかなかどうして触れさせてはくれないようですね。

自分が子供の頃というのは、野良猫がきっと今よりも沢山いて、ごく普通に撫でたりして一緒に遊んだりしていたことを覚えています。

ということは、昔は野良猫たちはそれほど人を恐れてはいなかったということになりますね。学校から帰ってくる道すがら、いつもいる猫たちと何だか挨拶するような感じで撫でてたと思います。

猫たちが人を恐れて逃げるようになってしまったのには勿論理由があるのでしょうね。それは本当に悲しいことだと思います。

お腹が空いてそうな猫であったとしても、何か食べ物をあげようにも決して寄ってはこないのですから、どれほど人間のことを危険なものとして見るようになったか分かると言うものです。

こちらがどんなにやさしい気持ちで接しようとしても、逆に怒りを露わにして攻撃してくるかもしれません。自分の思いは伝わらないのでしょうか?

それは人の場合も同じなのではないかと思うのです。こちらが愛を持って接したとしても、深く傷ついてしまった心には、そう簡単に信頼してもらうことはできません。

だからといって、相手を責めないで愛を持続させられるようにしたいものですね。猫だって、繰り返してやさしさを持って接すれば必ず応えてくれるようになるのです。

愛は瞬間的なものではなくて、いつまでも安定して与えられるものです。そして、できるだけ期待しないというのも愛の特徴です。愛は気長でいられるんですから。

最大の勘違い

自分の心の中にある思いというものが、外側の世界とは独立してあると信じきっている事が私たちのする中で最大の勘違いだと思います。

この思いが自分の身体の内側にだけあると誰もが思い込んでいるのですが、実はどんな思いであろうともそれがすべて反映された結果がこの世界なのです。

自分一人でこっそりとある思いを持つことは不可能だということですね。自分の思いがすべてであり、それが常にリアルタイムで外にあるように見える世界を形作っているのです。

ずっと以前からこのことをどこかで感じてはいたものの、でも本当には分かっていなかったと思います。勿論、今もどこまで分かっているのかは怪しいものです。

それが、コースと出会ってから徐々に自分の中で明確になってきたのですが、またここに来てより鮮明に、よりリアルな感覚を持って自分に迫ってくるようになりました。

今これを書いている瞬間も、自分の思い以外には何もないし、それなくしては何事も起こるはずもないということ。そしてこの思いは、常に平安か戦い、もしくは愛か怖れのどちらかであると。

何事もない思いというものは決してなくて、必ずどちらかの要素から成り立っているのです。どんなに些細な取るに足りない思いであろうとも、この原則が成り立つのです。

自分の思いについて、よ~く味わってみると、そのほとんどが愛ではなくて怖れをベースにしているということに気づかされてしまいます。

そうなると、自分の心の中の密かな思いなどとは言ってられないということですね。この思いこそが、この世界のすべてを左右していると言えるわけですから。

私たちは自分の言動には責任を持たなければならないと分かっていますが、自分が内心どんな思いを持っているかについては、その限りではないと信じています。

ですが、本当にこの世界のすべての原因となるものとは、自分の思いでしかないということ。こうしたことを日々気づこうと意図的に生きることが、自分の本質、この世界の本当の姿を見ることに繋がるのだと思うのです。

現在という瞬間

過去と未来のことをあまり意識しないで済むときって、どんなときがあるかなと考えてみました。自分の場合には、レースゲームに夢中になっている時がもっとも身近です。

それと、お笑い番組を見て大笑いしている瞬間ですかね。実は大笑いできるのなら、別にテレビなどの映像に限らず、気のおけない友人たちと一緒の時もありですね。

あとは、自分なりの瞑想らしきものをしているときも、うまく行くとそうなることが時々あります。他にもあるのかもしれませんが、今思い出せるのはそんなところかもしれません。

逆に過去と未来を意識してしまうときはどんなときかも考えて見ます。過去については、大抵は誰かのことについて思い出している場合だと言えますね。

最近は、いやなことを回想することが少なくなってきているので、あの人こんなこと言ってたなあという他愛のないものを思い出すことが多いです。

一方、未来について意識をめぐらすときというのは、もうほとんどが何か不安なことを感じている場合だと思いますね。

経済的な不安や、病気などの身体の具合の悪さからやってくる不安を感じているときに、何となく近未来のことを思っているように思います。

総じて今よりも会社員だった頃のほうが、圧倒的に多くの時間を過去や未来に向けていたんだろうなというのは自覚できます。

ということは、以前よりもだいぶ過去と未来へ注ぎ込むエネルギーが減ってきたと言えるんでしょうね。だからそれだけ心が平安でいることが増えてきたということだと思います。

癒しの本質は、過去を手放すことです。過去を切り離すことができると、自然と未来も見ないでいられるようになります。

過去は必ず未来を限定してしまうからです。そして、過去への思いというものは、自分を限られた未来へと縛り付けてしまうのです。

私たちの本当の自由とは、過去から開放されることなのです。そしてそれはそのまま未来からも開放されることになるのです。

時間というものを、過去→現在→未来というような流れの中で意識してしまうと、いつまでたっても過去と未来という牢獄から抜け出せなくなってしまいます。

それは一番大切な現在というものを体験できなくしてしまうのですから。現在だけが、時間という牢獄から自分を解放することのできる唯一の瞬間なのです。

瞬間とは、一瞬で終わるものではなく、もっとも永遠に近い体験ができるときなんです。私たちの本質とは、現在という瞬間の連続でできているんですね。

時間は現在という真実を体験することを妨害するものでしかないということに気づくことです。できるだけ工夫して、過去と未来を意識からはずせるときを作るようにしたいものです。

それこそが本当の幸せに気づくことができる方法なのですから。

非現実感

何歳くらいの頃からなのか、はっきりとは覚えていないのですが、自分はどうもある時から現実感が乏しくなってしまったのではないかという気がしています。

それは正確に言葉で説明するのはとても難しいのですが、簡単に表現すると自分と外の世界との間がしっかり密着していないで、隙間があるような感覚とでもいうのか。

だから外の世界で起きていることが直接に自分に伝わって来てはいないような感じがいつもしているような感じなのです。

もうそれが当たり前になってしまって、慣れてしまっているのでどうということはないのですが、そのことをじっと感じようとすると、やはりこのままではいやだなと思うのです。

生まれつきそうなのだとは思えなくて、うんと幼い頃はきっとこんなことはなかったのではないかという気がするのです。

これは自閉していると言ってもいいのかもしれません。目立たない自閉症ですね。自分を閉ざして外の世界との交流を遮断しているということです。

それはきっとこの世界で生きていくことに不安や恐怖を感じて、それから逃れるために徐々にそんな状態に無自覚のうちにしてしまったのかもしれません。

病的なレベルではないにせよ、自覚できるレベルのものですから何とかしたいと思っているわけですが、一度閉じた心は完全に開くことは難しいのでしょうか。

ただ、大人になってから激しく感情を開放した後には、現実感が戻っていたようなときもあったかもしれません。だとすると、抑圧が強いとやはり現実感が乏しくなるのかもしれないですね。

コースでは外の世界というものは存在しないと教えています。つまり、外の世界に見えるものも、実は自分の心の一部であるということです。

ということは、自分のように外の世界との間に隔たりを感じている場合は、自分の心の中に亀裂が入ってしまっていると言うことになります。

これを本当に元通りにするためには、すべては一つという愛の想念を思い出すこと以外には方法はないのだと思います。

自分の心の亀裂が修復されたら、きっと自分の知覚をもっとダイレクトに感じるはずです。きっとそれは何とも言えない安らかな気持ちになるのでしょうね。

二種類の階段

我々人間にだけある特徴として向上心というのがありますね。誰もが現在の自分よりも、もっとすばらしい自分になりたいと思っています。

だから向上心のないものは駄目だということにもなるんですね。いつも切磋琢磨して、少しでも自分をより理想の自分に近づけようと努力する人が高く評価されます。

産声をあげたときから、死ぬ直前まで進歩したいのです。そして、目の前にある階段を一段づつ上がって行こうとします。

進んでいくことのたとえとして、この階段がよく使われると思います。私もセッションでよく言うのですが、階段の遥か先を見て大変だなと思わなくてもいいですよ、今日自分が上がれる一段だけあがればいいですからと。

これは癒しを進めていくときのイメージを階段で表したものです。そして、この階段は通常私たちが目指してきた進歩しようとして上がっていく階段ではありません。

実は誰もが向上しようとしてのぼっているつもりになっている階段は、本当に価値のある癒しの階段とは全く正反対のところにあるのです。

そして、向上心の階段は癒しの階段があることを自分に隠すためにあるとも言えるです。私たちは向上心の階段を頑張って上がって行ったその先に、幸せがあると思っています。

でもそれは残念ながら間違いです。向上心の階段は、見た目は上にあがっていくように見えても、その実体は横ばいか、悪くするとさらに下に向かって行ってしまう可能性すらあるのです。

本当の幸せは向上して手に入れるものではなく、本来の自分に気づくことなのです。癒しの階段の先にはまさにその本当の自分が待っていてくれます。

イメージして下さい。ずっと昔に癒しの階段をすべるように落ちてきた自分がいるんだと。そして、落ちてきたことを忘れようとして、向上心の階段を作ることで癒しの階段を見えないようにしたのだと。

癒しとは、幸せになっていくことですが、それはこの自分が落ちてきた階段をまず見つけること、そして向上心の階段をこれ以上のぼらないようにすることなのです。

自分が落ちてきた癒しの階段こそ、本来の自分の姿を思い出すためにあがっていくべき階段なのです。それは勿論自分を向上させるのが目的ではありません。

ただ、本当の自分に気づくのが目的であり、それが真の幸せに繋がる唯一の方法だと言うことですね。みなさんは、その価値ある階段をもう見つけることができましたか?

愛を使う難しさ

本当に幸せになりたいのなら、本当の心の平安を得ることしかないのですが、そのためには自分の本質について気づいていくこと以外にないのです。

真の自己とは、愛の塊であるはずなのですが、そのことを忘れて毎日生活しています。そのことを思い出さずして、真の自己のことが分かることはありません。

としたら、その愛を思い出すことを徹底的に訓練することですね。自分の中にある愛を認識する最高のやり方は、それを十二分に使うということに尽きます。

ところがここで、はたと気づきます。なぜ自分にはそれが簡単ではないと思えるのだろうかと。とにかく愛を使えばいい、その経験値を増やせばいいと分かっても簡単ではないと感じてしまう。

自分の心がまっさらで、中立の状態であったとしたら、愛を使おう→即愛を使う経験をする、ということになるはずです。

でもそれができないとしたら、ここで注意深く心の声を聞いてみる必要があります。そうすると、必ずそれが簡単ではないと感じる理由が見つかります。

それは、普段は気づかないようになっているのですが、本当のところ、私たちは愛に気づかないように気づかないようにと気をつけながら生きているということです。

愛に気づかないように注意深く、用心しながら生活しているのです。実はその用心にものすごいパワーとエネルギーを注ぎ込んでいるのです。

例えば、思い切り握りこぶしを5分くらい力いっぱい握り続けておいて、いざ手のひらを見せてくださいと言われても簡単には開くことができなくなる、あれと同じ原理です。

トイレに行きたいのを都合により限界まで我慢してしまってから、いざトイレでおしっこをしようとしてもいつものようにすぐには出ない、あのもどかしさ。

あの時は、おしっこをすることが簡単ではなくなっている瞬間とも言えます。これみんな同じことなんですね。急激な方向転換には無理があるんです。惰性というものもあるわけですから。

話しを元に戻して、そうした理由で愛を使う、愛を与えることがそうそう簡単とは思えなくなってしまっているということです。

でも、自分が愛から遠ざかろうと激しくそこに投資していることに気づいて、そこから徐々に手を引いて行くことができれば、今度は逆に当然のごとく、愛を使うことが容易になってくるということです。

本来、我々は愛そのものなのですから、愛を使うことが難しいなどということはないはず。愛は使っただけ心の中で増えた感触を得られるのです。そうやって、真の自己を思い出しやすくなるのです。

一日、一回でもいいですから、何かをお願いされたときに、ああ、これ愛だったら断らずにやってあげられそうだなと思ったら、愛を使うチャンスだと思うことですね。間違っても自己犠牲で相手のいうことを聞いてしまわないようにすることも大切です。

あとは、自分の選択に任されています。自分を防衛しようとするのか、愛を使おうとするのか、両方を同時には選択できません。必ず択一だということも覚えておいて欲しいと思います。

贖罪(しょくざい)

今日ミクシーのニュースを見ていたら、ノリピーさんが初の自叙伝を出したという記事がありました。その題名がなんと、『贖罪』。ちょっとびっくりしました。

コースを読んでいると、この「贖罪」という言葉は何度も出てくるとても大切な概念なんです。と言っても、原文では、 「atonement」という語で、田中百合子さんの訳では、「贖罪」となっていて、最近出版された大内博さんの邦訳本では、「あがない」になっています。

贖罪は文字通り、罪を贖(あがな)うという意味ですが、それは罪を償(つぐな)うということであり、あるものを代償にして手に入れるという意味もあります。

昔だったらそれは生贄を意味するかもしれませんね。恐ろしい神の恐怖をやわらげるために、誰かを生贄にすることで、他のみんなが救われるということですから。

イエスキリストが代表してはりつけにされたことで、民衆の罪が贖われたという話しはキリスト教の信者でなくても誰もが知っている有名な話しですね。

ですから、贖罪というと大抵はキリスト教の言葉というニュアンスがあるかもしれません。しかしながら、コースの中ではもっと深い意味が込められているのです。

英単語である、atonement を調べてみると、atone + ment であることが分かり、atone は一つにするという動詞で、ment はそれを名詞にするものなので、「一つにすること」という意味になります。

この一つにするという atone は、at + one つまり一つにおいてというような意味だと思います。つまり、贖罪という意味はすべては一つであるとの想念である愛に戻ることを意味しています。

コースで使っている贖罪と言う言葉の本当の意味を間違わないように気をつけることが大切です。罪はないとしてすべてを許し、そこにすべては一つだという真実に戻る道があるということです。

繁盛する店

ルシッドのセッションルームのある吉祥寺には、近くに多くの商店街と大小さまざまなお店がひしめき合っています。

少し足が遠ざかってから、久しぶりに歩いてみると、見たことのない新しいお店がもう出来上がってたりしてびっくりさせられます。

それだけ、お店の入れ替わりが頻繁にあるということ、それは希望を抱いて新しいお店をオープンしたのに、あっという間に潰れてしまうケースが多数あるということですね。

世間はなかなか厳しいです。少し詳しい人に聞いたところによると、吉祥寺は店舗の家賃が高いので、相当に繁盛しないと潰れてしまうらしいです。

だから新しいお店を見かけると、頑張って欲しいなとつい心の中で祈ってしまいます。歩いて数分のところに、小さなドーナツ屋さんがあるのですが、ここがとても繁盛しているのです。

平日も人が来ているし、週末ともなると店の前に長蛇の列ができるほど。どうも雑誌などを見てやってくる若い人が沢山いるようです。

自分も1、2回ほど買って食べたことがあるのですが、ごく普通の昔ながらのお母さんが揚げてくれた家庭の味でした。

何でこの味を求めてこれほど沢山の人が集まってくるんだろうと、本当に不思議なくらいに普通のドーナツなんです。

他のお店をやっている人からみたら、本当に羨ましいくらいにいつも人で賑わっているお店です。人が沢山来るって活気があっていいですね。

自分も人のことばかり言っていられなくて、セッションルームの家賃が自分の身の丈に合わないくらいに高いので、もっともっとクライアントさんに来ていただかないとお店をたたまなければならくなってしまいそう。

でもあまり心配してないのも事実です。どうせ、人生はなるようにしかならないと思っているからです。どうなろうと、死なないし、また死ぬ時はどうやったって死ぬ。

そう思って気楽に生きています。起きることを抵抗せずにただ受け入れていること、今後もそのスタイルで生きていくんだろうなと思っています。

自分を求められない

今までに何千回とセッションをやってきて、様々なクライアントさんと向き合ってきた中で、100%すべてのクライアントさんに共通して言えることは、誰もが安心を求めているということです。

それは別に私のところにクライアントさんとしていらした方々だけに言える特別なことではないはずです。誰もが安心を求めて生きているんです。勿論私自身もです。

ところが、残念ながらこの世的な安心というものは、確かに求めて手に入ることもありますが、それは確実に一時のものに過ぎないのです。

場合によっては多少の時間、継続して安心していられるような場合もあるかもしれませんが、それが永久に続くという保証など全くありません。

病気が治って安心、希望校へ進学できて安心、人と比べて優位にあると思って安心、お金が増えて安心、マイホームを建てられて安心、すべてが安心を目的にしていることばかりです。

なぜこれほどまでに安心にしがみつこうとするのでしょうか、それは心の中にどうしても拭い去ることのできない不安が大きく広がっているからです。

何もしないでいると、その不安に飲み込まれてしまいそうになるので、何とか努力してその不安を払拭して安心しようと躍起になっているのです。

一つ安心を手に入れられたと思っても、次の不安が出現してくるのでまた安心を求めざるを得ないのです。さらに、手に入れた安心もいつまで続くか分からないので、そのことでもまた不安になるというあんばいです。

本当の安心を手に入れたいならば、この世的な安心を求めることから手を引くことです。その時にこそ初めて、自分の本質は深い深いどこまでも続く安心の心でできているんだと分かるからです。

それが、真の心の平安です。この永遠に続く平安は求めることは決してできません。なぜなら、それはあなた自身だからです。

自分自身をどうやったって求めることなど不可能ですよね?だって、あなたそのものなんですから。自分をなくすことができないのと同様にして、自分を求めることもできません。

求める対象とは、それが何であれホンモノではないのです。ホンモノはすべてあなたが持っているし、あなた自身だということ。

だからこそ、外に向かって求めなければ誰もが気づくはずなのです。