泣きっ面に蜂

泣きっ面に蜂とは、災いが重なってやってくることの例えですね。こういったことは実際よくあることだからこそ、こうした上手い表現の言葉が生まれるんでしょうね。

ちょうど、10年前の1月に癌が見つかって、2月に手術を受けたのですが、ちょうどその日に息子の高校受験の発表があり、さらに家内の父親が亡くなるということがありました。

お腹を切られてただベッドで寝ている自分はまだよかったですが、家内はきっと大変だっただろうなと思います。

こうしたことがただの偶然によって起こるとはなかなか思えないですね。でも、やはり起きる時には起きるものなのですね。

どうせいやな出来事なら、いっぺんに起きてしまったほうがいいという考え方もあるかもしれません。とは言うものの、限度はあるでしょうね。

なぜ重なるのかなと考えてみたのですが、勿論何も証明することはできないのですが、やはり昔流行ったバイオリズム的なことがあるのでしょうか。

体調のいい悪いのパターンがあるように、波動のいい悪いみたいなものもあるのかもしれませんね。今年の9月中旬ごろにクルマをぶつけられたことがあったのですが、実はその日の朝、自転車に乗った若い青年と交差点でニアミスも起こしていました。

どちらのケースも自分は全く悪くないのですが、相手からぶつけられたり、交差点から無謀に飛び出してきたりされたのでした。

どんなことでも、その渦中にいるとどうしても自分を客観視しずらくなりますね。それも、いくつかが重なってしまったりすると、なお更です。

それでも、後で冷静になって思い返してみると、そこにはいろいろな学びがちりばめられていたことを発見することができますね。

この先の人生のどこかでも、また泣きっ面に蜂のような事態がやってくることがあるかもしれないけれど、後々思い返せばどうってことなかったということになるんですから。

なるようになるし、死ぬときは死ぬ。なるべく、いつも流れに身を任せて無理しないことですね。それがきっと一番早く苦境から脱出する方法なんだろうなと思います。

悪夢からの目覚め

中学生くらいまでは勉強のことで困ったことはなかったものの、高校生になってその状況が一変してしまい、勉強嫌いが本格的になって、特に苦手な学科は試験前に困り果てたものでした。

その時の不安な気持ち、もう今から勉強したって絶対間に合わない、どうしようというひどい焦りのような感覚が先日の夢にそのまま出てきました。

今でもその夢の中でのいや~な思いをはっきりと思い出すことができます。そして、夢から覚めて現実はこんな生活してたんだと気づいていく中で、ほっと胸をなでおろしました。

ああ、よかったと、もう勉強に追われることは一生ないんだなって。みなさんはこのような経験はないですか?夢の中の状況が辛くて、目覚めたときにものすごい幸せな気分になるのです。

様々な悪夢から覚めたときに、誰もが感じる深い安心感とでもいうのでしょうか、何とも言えない安堵のため息が出てしまいます。

自分が子供の頃に、父親が言っていたことがありましたが、人を殺してしまった夢を見たらしく、「ああ、とうとう自分は人を殺してしまった」と本当に絶望したらしいです。

それが目覚めて夢だと分かったときに、胸をなでおろしたと教えてくれたことがあったなと思い出しました。

こうした誰もが少なくとも一度は経験している、いやな夢から醒めて、ああ、よかった!と思う、それをはるかに上回るすばらしい体験をしたいとは思いませんか?

実は悪夢から醒めたこの現実も、実はその大抵は悪夢に違いないのです。この現実という悪夢から醒めて深々とした真の安心へと戻ることができるということです。

それは本当の自分の姿に気が付くという体験です。高校生だった頃の夢の中の自分は目覚めたときに消滅してしまいますが、現在の自分がその代わりにいるという自覚が戻りますね。

それと同じように、この現実の中で翻弄されながら何とかこの人生を続けている自分に代わって、忘れていた本当の自分が蘇るということです。

そしてその自分はすべてを持っていて、足りないものがないのです。あらゆる一切合財が自分自身であるという感覚を取り戻すのですから、これ以上の安堵感はないでしょうね。

時間という妄想の中ではそれぞれにそのタイミングが異なるように見えるかもしれませんが、いずれは誰もが、一人残らずこの悪夢から目覚めて、真の自己を思い出すときが必ず来るということです。

そしてその時は、明日かもしれないし、一分後にやってくるかもしれません。だから安心して、毎日をただ楽しんで、喜ぶことに専念すればいいということです。

反動形成

人が自分を防衛しようとしてする心のメカニズムの一つに反動形成というものがあります。それは、自分を守るために本心とは真逆の思いをでっち上げてそれを隠そうとする心の行為です。

例えば、幼い子供がどうしても買ってもらいたいものが目の前にあるのに、親にそれを許してはもらえないでいるようなときに、そんなものはもういらないというニセモノの思いを作るのです。

いつまでも買って欲しいのに買ってはもらえない状況が続くと、心の我慢が限界を迎えてしまうので、それを防衛するために「欲しくない」という思いがあるとするのです。

その作りこんだ思いというものを「欲しい」という本心の変わりに自分の本当の気持ちなのだとして本心に蓋をしてしまうのです。

こうすることで、どれだけ欲っしても手に入れられないという苦悩から自分を守ろうとするわけですね。これは傍から見ている大人からすると、ダダをこねていた子供がひねくれてしまったと映るかもしれません。

したがって、あまりに可愛そうだからと、親が買ってあげようとしても、もうそんなものはいらないと、頑として譲らない態度に出るかもしれません。

どんな子供であっても、親に抱きしめられることを嫌がるはずがないのですが、少し成長した段階で親に触れられたくないと思うようになる場合があります。

実はこれも反動形成であると言っていいと思います。子供の本音としてはもっともっと親に抱っこしてもらいたいという強い思いがあるにもかかわらず、何らかの理由によってその願いが叶わないとします。

そうすると、子供はそれ以上願望し続けても自分の心が痛いだけなので、どこかで抱っこして欲しいという本心を抑圧するのです。

その時に、抱っこどころか、触れて欲しくもないという本心とは裏腹なニセモノの気持ちを作り出して、それによって本心に蓋をしてしまうのです。

こうすることで、実は親に甘えて抱っこして欲しいを完全に封印することができるわけです。結果として、親には触られたくもないという大人びた反動的な気持ちだけが残ることになるのです。

理性で考えてみて、自分の言動はどうもおかしいなと感じるような場合には、この反動形成が心の中でなされているのではないかと疑ってみることです。

そして自分独りではどうにも、解明できそうにない場合には、プロのセラピストの力を借りてみることも一つの方法かもしれませんね。

不安の根源

人生で困ったことに直面すると、人はうろたえて立ち往生しているような気持ちになるものですね。そして、どうしたらその状況から脱出することができるのかということにエネルギーを注ぐのです。

そんなときに、力づくでそこから逃れることができたとしても、きっといつか必ずまた同じような困った事態というのがやってきます。

それは困ったことから大切なことを気付かせてもらえるまで続くと思っていて間違いありません。つまり、自分の個人的な能力や努力で乗り越えてしまうだけだと、気付きを得られにくいということなのです。

例えば、商売をされている人が売り上げが落ちてきて困った状態になったとして、通常は売り上げを元通りにするために様々な作戦を思いつくかもしれません。

そしてそうした策を実施して思った通りに売り上げ増を達成したとすると、この困ったことに直面することから大切なことを学ばずに済ませてしまったということになるのです。

百歩譲って、そのような場合でも気付かされることが全くないとは言えないかもしれませんが、もっともっと多くの気付きを得る方法があるのです。

それは、なぜ今自分に困った状況がやってきたのかということを見いだそうとする姿勢を持つことですね。事態をすぐに否定的な目で見るのではなく、何かを気付かせてもらえるチャンスと捉えるということ。

そういう見方ができるようになると、困ったことになったという思いそのものが単なる思い込みによる産物だったと思えるようになるかもしれません。

実際に、自分の人生の過去を振り返って、あの時は本当に困ったということを思い出したときに、そこで何らかの気付きを得られたときにはその後の人生が変化しているのです。

しかし、逆にやみくもに立ち向かって勢いで乗り越えてしまったような場合、あるいはそれに失敗したようなときには、気付くことなく、そして人生も何も変わってはいないと分かります。

困ったなと思うときには、大切なことと向き合う大チャンスがやってきていると思うこと、そしてそのことを解決して不安を安心に変えようとむやみにしないことです。

不安の根源はそのことではないと気付くこと、それを解決できたとしても不安はまたやってくるということを知ることです。

心に浮かぶ思い

先日自分の心に浮かんでくる思いというものには、何も意味はないんだなあというのをしばらく心静かに続けていたら、自分がいかにニセモノの中で生活しているのかということを実感しました。

自己流の瞑想なので、それを瞑想と言ってもいいのかどうか分からないのですが、ただそのようにしてやってくる様々な思いを見ては流し、というのを繰り返すのです。

ですから到底無念無想などというものとは程遠いわけですが、そうして自分の中に湧き上がる思いを片っ端から手放していくのです。

それらの思いは、すべて過去からの遺産だということもそうしたワークの中でいやというほど思い知ることができますね。

今この瞬間に思いというものはないのかもしれません。常に過去の記憶の中から思い出して処理して欲しいと願っている何らかの思いがやってくるのです。

だから思いはいつも過去に生きているのだということが分かります。こうした思いにつかまってしまうと、今を知ることができなくなってしまうのです。

なにがしかの思いが持ち上がって表面化するまで待ってあげていると、必ずそれは次々とやってきては過去を裁こうとするのです。

その時に、そうした思いには何の意味もないとして気持ちよく流してあげることによって、少しずつ過去から開放されて今を知ることができるようになるのです。

過去から開放されると、それは未来をも手放すことになります。なぜなら、未来とは過去に残してきたと思い込んでいるものを解決するためのものだとしているからです。

過去がなければ未来も必要にはなりません。したがって、過去と未来は同時に消えていく運命にあると言うことができますね。

過去も未来もニセモノに違いありません。そのニセモノをホンモノのようにさせてしまうのが、自分の心に浮かぶ思いなのです。どんな思いにも何の意味もないということを常に実践することで、唯一のホンモノである現在を知ることができるのです。

自分の年齢

昨日は誕生日だったのですが、自分の年齢がリアルに信じられない思いでいっぱいです。あと、4年で還暦ですよ~。自分が、60歳ってどういうことか、よく分かりませぬ。

全くといっていいくらいに、現実感がないのです。ついこの間まで自分は若者だよと思っていたつもりだったのに、初老に差し掛かると言えば言えるわけで…。

今思い出したのですが、自分が40歳になるというときにも何だかひどく不釣合いな感じがしていました。心の中は18歳くらいの感じがしていたので。

でも今は40歳じゃなくて、60歳という年齢を話題にしているわけで、何とも形容し難い数字に戸惑わないわけには行きません。

どういう60歳になるのか、どこから見ると自分を60歳だと認識できるのか、60歳とはどういうことなのか、何も理解することができないのです。

で、結局きっと今のままでさらっと60歳を迎えることになるのだろうと予想できます。だって、それ以外どうしようもないのですから。

ふと、周りを見たときに自分よりも年上の人がいないと気づいてびっくりすることもあります。個人セッションや講座、セミナーなどでも自分がほぼ一番年配なのですね。

きっと、年齢は自分が作り出すものなのだろうなと思っています。そう考えると、年齢って本当にナニモノなんだろうかと思えてきます。

人は誰でも自分の心の中心に自己像を作り上げてそれを大切に保存しているのです。自画像、あるいは自己イメージと言ってもいいでしょうね。

その自己イメージには年齢という要素もあるはずです。自分の場合には、それがとてもあやふやで自分は何歳だというものが欠落しているようです。

それでも平気で生きています。逆に年齢的な要素がないままの自己像を大切にしてしまえばいいのかなという気も、今書いていてしてきました。

それなら、不釣合いといった思いをすることもなくなってしまうでしょう。その方式でこれからずっと生きていこうかと思っています。そのほうが楽しそうですよね。

黒幕であるエゴ

エゴは自分は肉体だと自分に思わせようとする心の部分のこと。自分は他人とは違う個体だと自分に言って聞かそうとする心の部分です。

確かにそれは自分の心のある部分ではありますが、そうではない心の部分もあります。それが本当の自分のことを知っている心なんですね。

ただし、エゴはエゴ自身を分離させて、エゴの生い立ちを知っている部分と、何も知らない部分とにしてしまいました。

そのエゴの中にあって、何も本当のことを知らされてない心の部分が今、この自分を自分だと認識しているものと言ってもいいのです。

ですから、自分が自覚できる自分とはそうした心全体のほんの小さな部分から成り立っているということになるのです。

この自分は、自分がエゴに翻弄されていることに通常気づいていません。なぜなら、エゴは心の中で黒幕のように立ち振る舞うからです。

自分の存在を見えないように隠しながら、絶大な力で自覚できる自分を弄ぼうとしているのです。エゴの目的とは、自分の素性を決して知られないようにしながら、エゴ自身を存続させることです。

他には何の目的もありません。そのためだけに、ありとあらゆる努力をします。 私たちはエゴの一部とはいえ、エゴのそういった目的を知らずにエゴの指図通りに生きているわけです。

生まれたときから、徐々に洗脳されて、大人になるまでには立派なエゴの子分に成り下がってしまいます。これでは決して満ち足りた気持ちで生活する事はできないですね。

エゴの作戦を冷静に受け止めながら、それに飲み込まれないようにして、心のもう一方の大切な部分である、本当の自分の心に耳を傾けることです。

そこは愛そのものの心であるため、エゴの代わりにその声を受け入れて、その心と一体になっていくことこそが本当の幸せに繋がることだと言えますね。

心のデトックス

みなさんは、身体から毒が出て行くときに痺れる感じがするということを知っていますか?そういう経験をされたことはあるでしょうか?

デトックスという言葉が普通に使われるようになるくらい、今は身体の健康を志向するのが当たり前の時代になってきましたね。

ところで、身体の毒というのは元は何だと思いますか?それは、心の毒からやってくるのです。心の毒というのは、溜め込んだ辛い感情のことです。

感情そのものはいいも悪いもないのですが、それを溜め込むことによって心にとってはひどく都合の悪いものへと変貌してしまうのです。

溜め込んだ感情は、潜在意識の中に抑圧されて本人からも気づかないようにしまわれているのですが、それが限度を越えて溜まってしまうといずれは噴火するように表出することになります。

それが、切れるという行動となったり、本人としては何も理由がわからずに勝手に涙が出てきたりするようなことになるのです。

そうやって、感情を感情として表出して味わって心からダイレクトに毒出しすることもあれば、そうした心の毒を身体の毒に変換してデトックスしようとする場合もあります。

大抵の場合には、それが同時に起きます。催眠療法などによって、心の奥深くに溜め込まれた感情を開放すると、心の毒だしが起きるのですが、その際に身体の毒だしも同時に起きることが多いです。

そうすると、催眠療法のセッションが終わったときに、クライアントさんは手足はもちろんのこと、体中が痺れてしまったようになって、すぐには歩けないような状態になることもあります。

私も経験があるのですが、瞑想中に深いところと繋がることで奥の感情がデトックスされると、同時に身体が痺れてしまうのです。そうして、身体も毒だしに加勢してくれるのです。

その時の身体の痺れはそれほどいやな感じがしないものです。ただ、思うように歩けなくなったりして初めて体験する人は多少びっくりするかもしれません。

でもきっとしばらく経って落ち着いたときには、何とも清清しい気持ちになれることに気づいて、病み付きになるかもしれませんよ。

働き者の親

働き者の親を持つ子供の心というのは複雑です。なぜなら、誠心誠意一生懸命働いている親の姿というのは、尊敬に値すると思っている反面、その逆に不満も満載だからです。

働き者というのは、何かに向かって頑張っているわけですから、子供の立場からすると親にとっては自分よりも他に何か大切なものがあるのだなとの思いを感じるということです。

そして大変だなとも思っているので、自分がわがままを言って余計な迷惑をかけてはいけないと内心思ってもいるのです。

そうすると、確実に本音を言えないような親子関係が出来上がってしまいます。子供本人もそういった不満を自分が持っているという自覚がないので、そのまま何事もなかったかのように成長していきます。

親の方としても、我がままを訴えてこない子供というのはとても都合がいいので、何も問題がないと勘違いしてそれ以上のケアをしなくなってしまいがちです。

そうやって、子供の心は満たされない思いを溜め込んでいくことになります。それは基本的には寂しいという思い、もっと自分をかまって欲しいという気持ちなのです。

そしてそういうことを直接的に表現しないでいると、それは必ず間接的なものとして起きてくるのです。それは例えば不登校であったり、病気であったり、何かと親に面倒をかける子供の言動として現れてきます。

親は元々働き者ですから多忙をきわめていて、余裕がない状態にもかかわらず、そういう子供のやっかいな言動に付き合わされてしまうことになるのです。

ですが、実はそういった子供の訴える思いというのは、実は親自身の子供時代の不満そのものであるのです。それが解消されていないからこそ、子供がそれを身をもって教えてくれているということなのです。

表面的にばかり見てしまうと、困った子供だということだけが目立ってしまうのですが、親自身の心の癒しをしていく大切なチャンスが巡ってきていると理解することがとても大切なのです。

手のかかる子供を抱えていると感じている親御さんは、こうしたことを一度しっかり見つめてみることをお勧めします。

そして一人では解決できないと思うのであればプロの癒しを受けてみるのもとてもいいのではないかと思います。

委ねること

「奇跡のコース」の勉強会を昨年の一月より毎月一回続けてきたのですが、今日(正確には昨日の土曜日)は23回目でした。

よくも二年間も続いたものだなと思います。とにもかくにも、参加してくれるみなさんがいたからこそ今日まで続けることができたわけですから、みなさんに感謝するしかありません。

いつも勉強会の会場に出かけるときには、自分なりにある種のしっかりしないとみたいな、気負いがあったと思うのです。

自分が主催者だからということがあるのか、それなりにみなさんに満足して帰ってもらいたいというような思いがあったのですね。

正直言って、それは先月まではっきりと自覚することができました。ところが、今日会場に向かう自分は今までとは全く違う心持ちでいられたのです。

本当に不思議なことなのですが、何だか急に何の気負いもなくなってしまったようで、みんなに任せておけばすべてはOKなのだというのが分かったのです。

何もかも、自分が何とかしないといけないという思いがなくなってしまったかのような気分になりました。勿論すべてにおいて、そうはいかないと知っていますが。

それでも、自分の力なんて本当にたかが知れているし、それよりも何よりもプロセスを信頼することの方が何百倍もいいということが分かったのです。

心配することはなかったのですね。それは、何かのイベントのことだけではなくて、自分の人生にしても大切な人達の人生についても同じだったのです。

責任というのは、きっとでっちあげた信念に過ぎません。そんなものを果たしたからといって誰も幸せになるわけでもないですし、独りよがりに過ぎません。

これからは今まで以上に周りのみんなに委ねるということを学んでいくことになるような、そんな予感がしています。みなさん、助けて下さいね!