あるがままを認識する

ごく普通に知っている漢字をじぃ~と眺めていたり、何度も書いたりしているうちに、あれこんな漢字あったかなという不思議な感覚になることがありますね。

しばらくすると、また元の状態に戻っていつも通りその漢字を読めるようになります。きっと誰もがそんな経験をしたことがあるのではないかと思います。

例えば、奇跡の「奇」という漢字をずっと眺めて、上が「大」で下が「可」なんだなあと思っているうちに段々変な感覚になってきます。その二つの字からできていたなんて思ってもみなかったというような…。

よほど、漢字の成り立ちに興味があったりして詳しい人以外は、奇跡の「奇」の字はそんな二つの漢字の構成からできてるんだとは思ってもみないはずです。

これは私たちの認識の方法に原因があるように思います。漢字に限らず、対象物を認識するときに、より直接的に観察することになった時、いつもの認識ができなくなるのだと思います。

親しい家族や友人なのに、ふとあれこの人誰?というような感覚になったことはないでしょうか?相手をじっと見つめていたりすると、そんなことが起きます。

勿論漢字の時ほど明確ではありませんが、注意深く自分の感覚を見ているとそうなるときがあります。ちょっと怖いかもしれません。

私たちは自分では気づかぬうちに、ある特定の方法で外の世界のものを認識しているのだと思います。その方法から少しでもずれてしまうと、もうそれが何だったか分からなくなるということです。

ということは、自分は日頃一体どれだけ勝手な見方をしているのだろうかという疑問が沸いてきます。本当にそのものをあるがままに見ているのだろうかと。

実はあるがままに見るということは、至難の技なのです。それは、厳密に言えばかなり不可能なことだと思って間違いありません。

それは、認識というのは必ず独自の判断や解釈の上に成り立っているからです。それはもう全く無自覚のうちにしてしまうために、自分では気づくことができません。

奇跡のコースのワークブックで訓練することは、まさにこの身勝手な解釈や判断をしていることに気づいて、それを少しずつ手放していくということなのです。

それがすべてをあるがままに認識するということに繋がるのです。それができると、裁くという無意識のクセを取り除いていくことができるのです。

それは結果として、自分の心を愛で満たすことになるのです。真の幸福とはそうした心の状態によってのみ実現するとコースでは教えてくれています。

費用の決め方

以前テレビ番組で、ある企業において、各社員の給料の額を全員で決めるというのを特集していたことがありました。詳しいことは覚えていないのですが、確かに社長の給料も全員が関わって決まるようなシステムでした。

それぞれの人が自分はこれだけの実績を上げたので、このくらいの給料をもらいたいという希望を提出し、それについて全員でその妥当性を討議するというものだったと思います。

ですので頂点に位置する社長といえども、自分で自由に自分の給料を決められないわけです。ある意味とても民主主義的な方法と言えるかもしれませんね。

それはとても斬新な給料の決め方だなと思った記憶があります。私がセッションの費用や講座の受講料などを決める際には、私自身の独断で決めています。

先日開催したヒーリングセミナーの参加費用も、大した理由もなしにこのくらいという具合に決めさせていただきました。

正直、一体何を基準に決めたら本当にその額に妥当性を感じることができるのか、自分では全く分からないのです。したがって、言葉は悪いですが「えいや」で決めてしまいます。

もっといい決め方というものがないのかなと時々思ったりもするのですが、今まで実現したことは一度もありません。

いっそのこと、セッションの費用はそのセッションにいらっしゃるクライアントさん自身に決めてもらうのがいいのかなと思ったりもします。

講座も同じように、私が決めるのではなくて、それぞれの受講者のみなさんが独自に決めていただけるというシステムにできたらいいのかもしれません。

その場合、費用は個人個人で異なることになってしまいますが、いただいた額を私のほうで公表することはないようにするというルールが必要ですね。

そうすると、学生さんや金欠病の方は当人が無理なく支払える額になるでしょうし、ふところに余裕のある方はそれなりの額を払っていただけることになると思います。

また経済的な状況だけではなくて、セッションや講座などのその時の満足度というものも、支払っていただく額に反映されることにもなるかもしれないですね。

そんな理想的な費用の決め方ができたらいいなと思っています。近いうちに実現するかもしれません。それが吉と出るか凶と出るのかは聖霊に委ねることにしたいと思います。

ダイアモンドの原石

毎日のようにセッションや講座などで多くの人々とご一緒に心の癒しについて学んでいると、内心とても感動させられることがあります。

それはご本人はまったく気づいていないのですが、そのかたの本質があまりにもすばらしいと感じさせてもらえるので、なんとも嬉しい気持ちになるのです。

本当に光り輝くダイアモンドだなあと分かるのですが、当のご本人はそんなことには全く気づかない様子で苦悩の中にいたりするのです。

名実ともにキラキラしたダイアモンドだと認めることができないので、ああダイアモンドの原石だと思ってしまうわけです。

それが私にとってはとても嬉しい瞬間でもあります。その気持ちをどう伝えて差し上げればいいのかなと思いますが、大抵はきっと理解してはもらえないだろうと言わないでいます。

よくテレビなどで、素人の人達からタレントをスカウトするような番組を見ることがありますが、初々しい慣れない若い人でこの人が優勝なの?と思うような人が合格したりすることがありますね。

厳しいプロの目から見て、今はまだ荒削りだったり見た目も全然洗練されてないような人が意外に合格してしまうのは、その人の可能性の高さを見抜いているのでしょう。

そうしたことと似ていると言えるかもしれませんが、本人が毎日辛かったり何もうまく行ってない人生だと思ってたとしても、私から見てやはりすばらしいものを持っていると見えるのです。

きっと磨けばどんどんダイアモンド本来の光沢が出てきて、誰もがああすばらしいと感嘆するだろうと感じる何かを持っていると思えるのです。

そういう人達とご一緒に癒しを進めていけることはとても光栄ですし、本当に幸せだなと感謝せずにはいられません。

これは特定の誰かということではなくて、誰もに当てはまることなんです。一人ひとりがみんなすばらしいダイアモンドの原石なのですから、本当に何の心配もいらないです。

本当の自分

何年か前に大勢の人たちと一緒に瞑想しているときに、自分は「大澤富士夫」ではないなと感じたことがありました。

だからといって、他の誰かであるわけでも勿論ないのですが、今まで生きてきた自分の歴史との繋がりがバサッと取れてしまったような感じになったのです。

幼い頃の思い出や小中高大と過ごして社会人になってという経過を忘れたわけではないのに、それが今の自分と繋がらないような不思議な感覚でした。

それは自分なりに解釈すると、今まで作り上げてきた自分のアイデンティティが消えてしまったかのような感覚とでもいうのでしょうか。

自分の名前とそれに対応する自分の姿というものが、急になくなってしまった感じがしたのです。こういう親に育てられて、こんな友達が回りにいて、というのが幻のようになりました。

過去への記憶に現実感がなくなってしまったのでしょうね。それはある意味とても新鮮な経験でした。それまでの人生でそうした体験は一度もなかったからです。

それと同時に、それまでの自分が自分に課してきた様々な制限や縛りなどからも開放されたように思いました。その中で一番自分にとって大きかったのは、助けてもらってもいいんだという思いでした。

そんなの当然だと言われそうですが、どうも自分の中では人からの助けは不要と思っていたらしいことが分かったのです。

ずいぶんと傲慢な生き方だったと言わざるを得ませんね。人は長い人生をかけて、自分の自己像というものを作るのですが、ある意味それを打ち砕いたともいえます。

でもそれは完全なものではなく、ほとんどは戻ってしまいましたが、それでもその時の爽快感のようなものは、はっきりと今でも覚えています。

そして、またあの体験をしたいなと思ってもいます。あれが、本当の自分に近い自分の姿なのかもしれないと感じるからです。 あの時の自分は、とても中立で愛に満ちていていい奴でした(笑)。

「与える」喜び

このブログでも今まで何度も繰り返し書いてきた「与える」ということについてまた書きたくなりました。およそこの世界で意味があることと言えば、「与える」ということになります。

それ以外には何の意味も見出せません。与えることの真反対は「手に入れる」ということになります。この「手に入れる」ということからは、どんな望ましい結果も起きないのです。

そればかりか、罪悪感や恐怖、そして怒りを継続することになるだけです。何かを「手に入れる」と、その瞬間だけある程度の安心を得ることができます。

しかし、そうした一過性の安心が、その次に何かを「手に入れる」ということへの原動力となってしまうのです。

そしてそれが手に入らないと、恐怖や怒りを作り出してしまうことになります。仮に手に入れられたとしても、場合によって罪悪感を引きずってしまうことにもなるのです。

「手に入れる」行為は、そうした危険ばかりをはらんでいるということに十分気づかなければなりません。気づかなければ継続させてしまうということです。

「手に入れる」ということに執着している意識から自分を解放する一番いい方法は、「与える」側に立って物事を見るということしかありません。

「与える」ことに専念している間は、「手に入れる」ことを忘れることができるからです。だからこそ、その時ばかりは罪悪感、恐怖、怒りなどからも開放されることになります。

そして「与える」心は必ず与え返されるということも真実です。だから「与えた」結果も喜びや嬉しさが満載になるのです。

「与える」喜びのことをこれほどまでに分かっていながら、常にそうできない理由とは何でしょうか。それは、私たちの心に根深く染み付いてしまった与えると損をするという思いです。

「与える」と減る、「手に入れる」と増えるという考えに乗っ取られてしまうと、「与える」ことができなくなってしまうということです。

こうしたいただけない昔ながらのクセに気をつけながら、ただ「与える」ということを選択できるように意図しながら生活できるといいと思います。

「手に入れる」ことはエゴを救うことになり、「与える」ことは自分を真に救うことになるのですから。

時間という牢獄

私たちは誰もが時間という一つの流れの中で自分の生を生き続けていると感じています。どんな境遇であろうとも、このことから外れている人は誰もいないのです。

この状態のことを当たり前のこととしてそれ以上考えないで済ましているわけですが、コースでは時間は本当はないということを教えてくれています。

時間とは私たちの心の中で作られたものだということです。実在するものではなく、自分自身を縛るカッコウのツールとして使っているのです。

私たちの心は時間である過去と未来に翻弄された状態のままになってしまっています。過去という時間は、自分や他人が犯してしまった罪を作り出してしまいました。

そのことによって、誰の心も罪悪感を奥底に隠し持っていると思い込むようになってしまったのです。それは必ず恐怖を誘導するのです。

そして未来という時間はその恐怖をホンモノにする場所であると言うことができます。心が未来に向かうことで恐怖はよりそれを現実にすることができるのです。

こうして時間は罪悪感と恐怖に自分の心を縛ることに成功し続けているのです。瞑想や愛を与えることによって、この時間の呪縛から外れることができます。

実在とは時間という妄想を妄想としてみることで体験することであり、それに一番近いのは今この瞬間を感じるということです。

過去も未来も時間という妄想からくる狂気の産物でしかありません。そして最もポジティブな発想としては、時間はそれが妄想であるとの気づきを得るまでのツールであると考えることです。

それこそが本当の時間の使い道なのです。これが逆転の発想とも言える、コースの教えです。時間についてこうした考察ができないと、いつまでも時間という牢獄に縛り付けられたままになってしまいます。

時間という自分が作った牢獄から解き放たれて身軽になったときに、本当の自分は命という永遠の存在であることに気づくことになるのでしょう。

必要悪

一週間くらい前から左の肩甲骨の奥の辺りに痛みがあって、それが上の方に向かって伸びていて、首筋のあたりに達しているのが分かります。

今では、背中の痛みよりも首筋のあたりが左右ともに痛くて重い感じがとれずに、結構いやな思いをしています。

それはある朝目覚めたと同時に、突然やってきました。昔でしたら、睡眠中に寝違えたのかもしれないと思ったかもしれません。

しかし、そうした肉体的な痛みはすべて自分が作り出しているということが分かっているので、そうした物質的な理由を考えることはなくなりました。

10年くらい前のことですが、あるヒーラーさんのところでヒーリングを受けていたことがあるのですが、その人は私の身体のあちこちに大きな杭のようなものが刺さっていると言っては、抜いてくれました。

勿論、その杭は物質ではなくて、ある種のネガティブなエネルギーのようなものだとのことでした。あるときは、右肩から斜め左下へ身体を貫通するように刺さっていると言われたり、脊髄に沿って太い杭が刺さっていると言われたり。

そのたびに力みながら抜いてくれるのですが、自分ではあまり抜いてもらって楽になったという感覚はありませんでした。

ただはっきり分かったことは、確かに抜いてもらえたと思ってもまたしばらくすると、また別の杭が身体に刺さって痛みを起こすということでした。

つまり、抜いてもらっても抜いてもらってもまた新たに杭が出てくるということです。だったら、抜いてもらう意味がないなと思ったのです。

自分なりに考えたことは、外から見ると確かに痛そうで抜いてあげようと思うのでしょうけれど、実は自分ではまだそれが必要だったということです。

痛みはないに越したことはないのですが、それは自分の心の中にある何らかの思いのようなものを表しているのだろうということです。

だからこそ、辛そうだからと自分以外の誰かの力でそれを抜いても、またみずからそれを作っては突き刺すことになったのだろうと思うのです。

自分がヒーラーの立場になったときに、この経験がとても役に立ちました。何度も多くのクライアントさんの身体をエネルギーとして見ていると、確かにそうした何か突き刺さっているようなものを感じることがあるのです。

人情としては、抜き取ってあげたいという気持ちになるのですが、それがそこにあるということはまだ本人にとっては必要悪なのだろうと分かるので、それはそのままにしておくのです。

きっと本人がもう手放してもいいという心の状態になったら、知らず知らずのうちにそれは身体から抜き取られることになるのだろうと信じています。

「愛」の法則

生まれて初めてお金を稼ぐという経験をしたのは、確か学生の時にやった家庭教師のアルバイトでした。それを皮切りに様々なバイトをしました。

夜中に徹夜でとある工場で働く単発のバイトや、ろばた焼きのお店で働いたり、有名なお祭りでたこ焼きを作って売ったりしたこともあります。

学生の頃のバイトというのは、悲壮感がなくて楽しみながらやることができてよかったと思っていますが、それでも部屋で好きなことをしているほうがいいに決まっています。

働くということは、楽しいとか苦しいとかは別として、労働を提供することでその報酬を手に入れるということですね。

勿論どうせ働くのなら楽しく仕事をして報酬をもらえるほうがいいに決まっています。ですが、いずれにしても、お金を手に入れるためには何らかの仕事をしなければならないわけです。

宝くじに当たるとか、遺産が転がり込むなどの特別な場合は別として、労働を提供する必要があるのです。

そしてそうしたことは、何も労働とお金の関係だけではなく、この世界のほとんどの場合に当てはまることなのです。

つまり、何かを手に入れるためにはそれに見合う何かを提供する、あるいは与える必要があるということです。勉強を頑張ってテストでいい点数を取るなども同じです。

広い意味では取引をしていると言ってもいいかもしれません。英語では、give and take などというようですね。

このように、何かを手に入れるために与えるということは、この世界で生きていく上での誰もが知っている基本的な法則だと言えます。

その法則からはずれるのは、何も期待せずにただ与えるという行為ですが、そうしたことが全くないわけでもありません。

無報酬で働くボランティア活動などはただただ与える行為と言えそうですね。そして手に入れるために与える行為と、何も期待せずに与える行為ではどちらがより満たされた気持ちになれるでしょうか。

それはきっと無報酬で与えることの方だと言えそうです。なぜなら、その場合に与えられるものとは「愛」だからです。形はどうであれ、その中身は「愛」なのです。

そしてその場合に限り、実は「愛」が与え返されるのです。手に入れるために与えるのがエゴの法則なら、この「愛」が与え返されるのは「愛」の法則とも言えるかもしれません。

このことは経験したことのある人だけが知っていることです。心の中が暖かくいい気持ちになって、とてもすがすがしい感じがする経験だからです。

エゴの法則の中で生きるのか、「愛」の法則で生きるのか、どちらを選ぶのもあなたの自由ですが、より幸せに近づけるのはそのうちの一方だということですね。

新しい繋がり

新たな講座がまた今週からスタートしました。従来と同じ内容のものもあり、新規に始めるものもありますが、講座をやっていてつくづく思うのは参加されているみなさんを信頼するということがとても大切だということです。

いつも初めのうちは、正直言ってこの人達は大丈夫だろうかと感じることも少なくないのですが、その不安は全く間違っていたということに気づかされるのです。

いい意味でそうした感覚は裏切られるということです。誰もが、その人なりの理解の仕方や感じ方を持っていて、その人のやり方で学んでいくことができるのです。

伝える側は自分と同じ具合に理解してもらえると安心できるという傾向があるのですが、それを望むことは何の意味もありません。

それはきっと、自分が持っている不安を投影しているに過ぎないのでしょうね。伝える側とそれを受け取る側では、何の違いもないということをはっきり知らされます。

それは伝えることで沢山のことを気づかせてもらえるからです。聴いてもらえなければ、自分の気付きはとても少なくなってしまうと言うことが分かります。

そして、ここが最もありがたいところなのですが、伝えたことが本当に伝わってその人の心の中で大切な意味を持つことになったときに、自分自身の中の大切なものに確信を持つことができるようになるということです。

そのことによって、自分の心の中により深く浸透させることができるのですから、本当に感謝しかありません。

来年の3月までの期間に、またみなさんのそれぞれの癒しがどのようにして進んでいくのか、それを見せてもらうことも大きな喜びでもあります。

講座という形を通して、みなさんと繋がり、共に癒していけることに感謝するのみです。

時間を今に戻す

どんな状況においても、本気になって探そうと思えば心の中に平安があるのを見つけることができます。なぜなら、私たちの本質は平安そのものだからです。

ただし、その平安を見つけ出す作業にはある程度の練習が必要であるのも事実のようです。なぜなら、心の別の部分であるエゴが平安と繋がることを阻止しようとするからです。

何かを思い悩んでみたり、未来に対する不安を繰り返し頭の中で巡らせたり、過去のことを何度も悔やんだりすれば心の平安から遠のくのは当然ですね。

過去にも未来にも平安の根拠は決してないと知ることです。ですから、心の平安を探すときには、必ず意識を現在に戻すことが大切なのです。

心を静かにして、イメージしてください。自分の思いが過去から現在を越えて未来へと広がっていることをまず意識します。そして過去は罪悪感に、未来は不安にリンクしていると。

それから、徐々に過去に広がっている思いを現在に近づけていくのです。生まれた頃から時間を進めて昨日にまで戻します。

ずっと未来に向けていた不安な気持ちも時間を戻して明日のところまでに縮めてみましょう。そうすると、意識は昨日と今日と明日だけに限定されてきます。

そしてさらにその広がりを今日にだけ集中していきます。最終的には、この今という一瞬にまで狭めて、意識の向く先を完全に一点にシャープに固定します。

うまくできると、時間が刻々と進んでいるということが幻想だということを感じることができるかもしれません。そうならないとしても、気が付いたら心の平安と繋がっていることが分かるはずです。

私たちの苦悩の原因は罪悪感と恐怖なのです。それは過去と未来に直結しているのですから、こうしたイメージトレーニングをすることで、平安を自分のものにすることができます。

どんなことでも慣れるまでには練習が必要ですから、そのつもりで楽しみながら試してみて下さい。平安が訪れると、自分は何かを手に入れるために生きているのではないということにも気づくことができるはずです