エゴの教え

エゴは毎分毎秒ごとにあなたの心を見張っています。あなたが本当のことに気づかないようにと目を光らせているのです。

エゴはずっと長い間命がけでそれだけをし続けていると言ってもいいのです。エゴが心配していることとは、何だと思いますか?

それは、あなたが自分の本当の姿に気がついてしまうこと、それを思い出してしまうことです。それだけは決してさせてはならないと監視し続けているのです。

そうならないように常にあなたに対して予防線を張っています。そのやり方とは、あなたに自分と誰かを比較させて喜んだり不安になったりさせること。

うかうかしていたら、誰かに傷つけられて痛い目に合わされるから、それを防ぐためにはこうしなければいけない、ああしなければならないとあなたを導くことです。

こうしたことばかりに気を取られているようにあなたを仕向けることができれば、決して本当のことに気づくはずがなくなるからです。

もしも万一あなたがそうしたことに翻弄されている隙をついて、自分が本当は何者なのだということに気づいてしまったとしたら、エゴは消滅する運命にあるのです。

なぜなら、エゴとは自分は他とは違う、全体から分離した存在なのだと思い込んでいる心の部分だからです。今あなたがこれが自分だと思っている意識とはそうしたエゴの心だといえます。

あなたはそれが自分だと思い込んでいるのですが、それが単なる思い込みであって本当は違ってたということが分かってしまったら、エゴはそのままではいられなくなる道理ですね。

他から分離している個体としての自分では、孤独で怖くて不安で、愛が欠乏しているという当然の結果としての境遇でいることになるのです。

それでもエゴはそうした世界でしか自分を存続できないために、この世界こそが本当の世界だということをあなたに教え続けているのです。

でももうそろそろ、エゴの教えの間違いに気づいて本当の自分を思い出す人が増えていくように思います。それは思いのほか、あっという間にこの世界に広がっていくのかもしれません。

エゴが導こうとして大声をあげているその隙間に、心の平安があることに気づいてそっと自分の奥深くを感じてみませんか?

何の努力も必要ないし、何かを達成しようとすることもないのです。ただ、自分をあるがままに見つめて受け入れることで、記憶は戻ってくるのだろうと思います。

現状維持

会社員だったころ、いつも不思議に思っていたことがあるのですが、それは会社というところは現状維持では駄目だということでした。

昨年よりも今年、今年よりも来年業績が上がらなければならないという不思議な使命のようなものがあったのです。

どこかで資本主義社会の宿命だというようなことを聞いたこともありましたが、本当のところはどうなのか今もって分かりません。

ただとにかく、会社の業績は右肩上がりでないと健康な会社ではないと言われていました。業績を上げるためには、従業員の数も増やさねばならないし、規模がより大きくなるということも命題のような感じでした。

確かに毎年ほんの少しずつかもしれませんが、給料も上がっていったのでそういうことなのかもしれないです。年齢とともに、家族を持つようになったりして若いときの給料のままだと生活が成り立たないからということもありますね。

しかし従業員の給料を上げるためだけであったら、高給取りの人々が退職していくことによってもそれはある程度まかなえるのではないかと考えたこともありました。

私自身は現状維持では社会も人間も駄目なのだという考え方に昔から違和感を覚えていました。よりよくしていこうというと、何となく上昇志向のようで悪くないのですが、そこには今のままでは駄目だという否定的な感覚が潜んでいるのです。

もっと早く、もっと強く、もっと多く、もっと快適にということを続けている限り、本当の心の平安は決して手に入れることができないと思います。

進歩を必要とするのはエゴの考え方なのです。芸術や愛にはそうした進歩というものは元々ありません。現状を受け入れるという心の状態になることこそが本当の幸せになることなのですから。

素直な感情表現

幼い子供が大声で泣いている姿は日常的にどこででも遭遇することができますが、大抵は微笑ましく見てしまいますね。

それでも激しく泣き続けるようだと、どうしたんだろうと遠巻きながら不安になったりもします。可愛そうに、早く泣き止むといいのになと思うはずです。

泣いている子供の親がそばにいて、その子をあやしたり機嫌をとったりして何とか静かにさせようとしていることも多いですね。

しかし、私たち大人はなぜ小さな子供が泣いていると、それをやめさせたがってしまうのでしょうか?彼らが泣くには、彼らなりに泣きたい理由というものがあるのです。

その理由を理解しようともせずに、うるさいからとか可愛そうだからとか思って、むやみにそれをとめようとするのは大人の身勝手ではないでしょうか。

ずいぶん前に、あるクライアントさんがお話ししてくださったことですが、小さいときに思い切り泣こうとすると、おばあちゃんが泣かないようにとあれこれしてくれるので、泣けなくて辛かったということでした。

子供に限らず、大人でも誰でも泣きたいときには思い切り泣くことが必要なのです。必要だからこそ心と身体を使って泣こうとするわけですから。

私たちは他人の感情表現を身近にすると、後ずさりしようとしてしまうような習慣があるのです。だから、相手に冷静になって欲しいといつも思っています。

ですが、本当に相手のことを思うのであれば、十分に感情を開放させてあげることがとても大切なことだと気づく必要があります。

講座でカウンセリングやヒプノセラピーの実習をしてもらっていると、クライアントさん役の人が感情を露わにすると、セラピスト役の人は無意識的にそれを抑えてしまう傾向があるのです。

それは繰り返しの練習によって、逆にそうした感情を感じるように促して差し上げることができるようになります。そしてそれは、必ず普段の人間関係の中にも応用することができます。

幼い子供を持つお父さん、お母さん、そしておじいちゃん、おばあちゃん、かわいい子供に沢山泣かせてあげて下さい。大きな安らかな心て感情表現を見守ってあげることが大事なのです。

そうしてもらえた子供は、大人になっても自分の感情をネガティブに捉えることがないので、自然に素直な感情表現をすることができるようになるはずです。

大人気ない自分を見つめる

子供と大人の違いとは何でしょうか?もしも年齢だというのなら、何歳までが子供で、何歳から大人になるのでしょうか?

その両者の境界はかなり曖昧なものであると誰もが知っていますね。元々、どんな特徴が子供を表しており、反対に何が大人を表すのかという明確な差異というものもあるようでないのが本当のところです。

大人っぽい子供もいるでしょうし、子供っぽい大人もいるわけです。そうした個人差があることも周知の事実ですが、ある一人の心の中にも子供の部分と大人の部分が同居しているのです。

皆さんは大人の自分の心の中にある子供っぽい部分について、どれだけ自覚があるでしょうか?誰の心の中にも子供の部分が多分に含まれていると言って間違いありません。

そうした心の部分のことをインナーチャイルドと呼ぶこともあります。インナーチャイルドが心の内で暴れると、人は大人気ない言動をする可能性があります。

恋人の前ではまるで幼子のように甘えてしまったり、いつか食べようと思って楽しみにとっておいたお菓子の類を誰かに食べられて激怒してしまったりすることがありますね。

そうした分かりやすい言動ばかりではありません。本人にはなかなか自覚できないようなものも沢山あるのです。

興味のない買い物につき合わされるとすぐに足が痛くなってしまったり、理由もなく急にあるときに不安な気持ちに襲われてしまうなども実は子供の意識の現われなのです。

自分の気持ちや言動を常に冷静に見つめていると、必ず大人気ない態度をとったりする自分に気づくようになれるものです。

そしてそれは必ず、幼い頃の自分の満たされていない心の現われなのです。そのことに気づけるようになったら、その満たされない心が何を訴えているのかということに気を配ってあげることです。

その辛く苦しい訴えを理解して許してあげることで、大人気ない自分の言動を少なくしていくことができるのです。

そうした言動というのは通常大人の自分にとっては不自由に感じられるものですので、そうした理由の分からない不自由さからも開放されることになるのです。

罪悪感を友達にしよう

何はなくとも、一分一秒罪悪感のネタを探しまくっている人もいます。自分の周囲を見る目は、どこかに罪悪感を感じる原因はないかなといつも見張っています。

心の中に湧き上がってくる様々な感情や気持ちをすべて罪悪感を持ってしまう元に使おうといつも注意を怠らないようにしているのです。

だから、自分の一言で友達の顔を曇らせてしまったら、ああ悪いことを言ってしまったと自分を責めてしまうのです。

ちょっとだけでも思っていたことを無邪気に口に出してしまっただけで、お母さんの機嫌が悪くなってしまったとか、親を心配させるようなことを言ってしまったと自分を責めるのです。

あの人のことをこんな風に悪く思ってしまう自分の心は邪悪だとか、幸せそうな人を心から祝福してあげられないで嫉妬してしまう自分は駄目だとか思うのです。

朝早く起きられない自分は情けない奴、決めたことをやれない自分は怠け者、約束の時間に遅れてしまうのは人間として失格だと裁いてしまうのです。

こうしたことを見ていくと、数限りなく自分を責めてしまうネタだらけだと言えますね。自分を責めようと企んだら、そのネタには事欠かないということです。

しかし、自分を責めてしまう心というのにもそれなりの理由があるのです。まずは、そうした自責の念を抱いてしまう心をしっかりと受け止めてあげて許してあげることです。

それができると、そこからすべてが変わり出すはずです。つまり、罪悪感を感じてしまう自分自身を愛しいなと感じることです。

罪悪感そのものを敵対視しないで受け止めてあげることです。それには、罪悪感が湧き上がってきたときに、その感覚そのものをしっかり味わって逃げないようにする必要があります。

それが十分にできたときに、罪悪感を怖がらないでいいということに気づくはずです。罪悪感を親しい友達にしてしまいましょう。

自分を責めてしまうこと自体を怖れなくなれば、罪悪感としっかり向き合って心の中で溶かしていくことができるのです。試してみてはいかがでしょうか?

相互依存

人には得意な分野もあれば、苦手な分野というのもありますね。それは上手くできるかどうかということとは直接的には関係ないのでしょうけれど、やはり苦手なことは上手く出来ないことが多いようです。

私は単純作業というのが苦手で、繰り返しの作業を続けているとミスを連発するようになってしまいます。きっと、間違えて休憩させようとしているのか、はたまた諦めてやめさせようとしているのかどちらかだと感じます。

事務的な作業も相当に苦手で、きちっとしたノートを残したり、誰にでも分かるような記録をとったりすることがへたです。

書類などをきれいにまとめたり、ファイリングできる人を尊敬するようなところもあります。ものを捨てるのは得意なのですが、それは整理するというレベルであって、その後の整頓はやはり得意ではないです。

誰かと協力して何かをするということが煩わしいと思っているために、とりあえず自分でやってしまおうという習性があるので、そうした苦手な作業もやることになるのです。

ですが、最近は本当に得意な人と分業することが一番いいことなんだと分かるようになってきました。それは実際には相互依存という人間関係のレベルなのだと言えます。

相互依存というのは、本質的には互いに自立している人同士の間でなされ得ることであって、依存の状態にある人には難しいことなのです。

依存状態の心が依存する相手は大抵自立の状態にある相手を選びます。ですから、この依存と自立の関係は対等な関係とは言えません。

エゴは依存から自立へと進化させようとします。しかし、自立の状態だけでは、人との関係があまりにも対立し過ぎてしまい、様々な面で問題が出てきます。

自立状態が目指す関係こそが相互依存だと言えます。対等なもの同士が互いの得意不得意をうまく補い合って足して2以上の成果を生み出すことを可能にします。

そして勿論成果だけではなく、相互に委ねあうことによってより緊密で愛が発生しやすい関係を構築することができるのです。

忘れていたこと

人生で一番最初にレコードを買ったのは、確か小学生の4年くらいの時で、昔懐かしいビートルズのドーナツ盤でした。何度も繰り返し聞いて、でたらめな英語で一緒に歌っていたのを覚えています。

そのあたりから音楽が自分の人生の一部になって、ずっと一緒に過ごしてきたのですが、いつの頃からかあまり熱心に聞かなくなっていました。

持っていたギターやシンセサイザーなども息子に譲ってしまったりで、楽器からも遠ざかることになってしまいました。

最近ではもうほとんどCDを買うこともなくなっていて、テレビもほんの少ししか見ないという生活になってしまったので、音のない生活に慣れてしまっていました。

ところが、ヒーリングセミナーを開催するのに音楽があった方がいいということで、久しぶりに様々なミュージシャンの楽曲を聴くことになったのです。

それで分かったのですが、聴いているだけで心が癒されていくのです。それは実は自分としては、とても意外な心の反応でした。

もうそうした知覚によって得られる癒しにはそれほど期待しないという気持ちがあったのですが、久しぶりに聴くと理屈なしに心が揺さぶられる感覚になりました。

ああ、やっぱり音楽はいいなあということを今頃また思い知らされたのですね。今後誰かお気に入りのミュージシャンにはまっていくということはないにせよ、音楽は大切な心の仲間だなと再認識することができました。

音のない本当に静かな世界というのもとてもすばらしいのですが、それも一つの音楽のジャンルだと思えばいいのかもしれませんね。

そして地球上には数え切れないくらいに沢山の音楽家たちがいてくれて、素敵な音楽をいっぱい生み出してくれることに感謝せずにはいられません。

中立な心

私たちは中立な心で生きていると思い込んでいます。つまりそれは、自分の外側で何かが起きたので、それに対して反応をしているだけだと思っているということです。

何事も起きなければ、いつでも中立で平静な心でいられると信じ込んでいるのです。朝起きたときに、雨が降っていて気圧が低下しているので気分がすぐれないだけだと感じているのです。

職場に出かける途中で満員電車を我慢しなければならないという現実によって、心が疲労してしまうと思っています。

仕事中に上司にいやみを言われたり、理不尽なことをされたりするから怒りが湧いて出てくると考えているのです。

そういういやなことが起きなければ、自分はいつも冷静で穏やかな心で居られる、それが中立だということを証明しているように思うのです。

しかし本当はそうではありません。私たちの心が中立で平静であれば、それを乱すようなことは何も起きないのです。

元々自分の心の中に怒りがあるからこそ、怒らざるを得ないような現実がやってきてしまうのです。こういうことを引き寄せの法則と呼ぶ人もいますね。

あらかじめあった、こうしたいという不満な思いこそが、その不満を正当化するような現実がやってきてしまう原動力なのです。

つまり心の奥の状態がそのまま現実の世界に反映されて起きているということです。何事も起きなければいつも平静でいられるというのは都合のいい解釈をしているに過ぎません。

心の中に隠し持っている様々な要素をすべてこの現実の世界に映して見せてもらっているというのが真実だということです。

この世界から争いが絶えないのは、心の中に争い続けているつもりになっている意識があるということを証明しています。

外側の世界に影響されてしまっているという思い、そうした信念を少しずつ手放していくことが心の癒しにはどうしても必要なことなのです。

それなくしては、決して本当の自分の心の状態を把握することができません。心は受動的なのではなく、能動的であるということを忘れないことです。

時間の流れ

今もまだ残っているかもしれませんが、以前はビデオを見るにはVHSが主流でした。今ではそれがDVDという円盤状の媒体になり、そして最近ではブルーレイというものに変わりつつあります。

あの媒体の中に数時間分の映像や音が収録されているわけです。私たちがその円盤状のものを見るときにはその内部に時間があるとは見ません。

円盤はただの円盤に過ぎないと分かっています。ところが、特殊な再生機械であるプレーヤーにかけると、時間と空間の中で物事が起きているように見えるのです。

本もそうですね。自伝などを読んでいると、その人の一生分の時間の経過がそこには盛り込まれています。しかし、本は本に過ぎません。

つまり、時間や空間というものがあり、そこで何かの事象が起きているという認識は、私たち自身の内面にのみ存在するということです。

時間は過去から現在を通過して未来へと止まることなく流れているというように感じるのは、心の中での認識に過ぎないのです。

敢えて言えば、DVDを鑑賞した時間の全てがその媒体の中に全部凝縮されているということです。時間の流れではなく、一瞬でしかありません。

私たちのこの現実も本当は同じことが言えると考えることができます。時間の流れは本当はなくて、一瞬にすべてが起きていると考えられるのです。

ということはこれから起きると思っている未来はもうこの世界の事象を全部含む無限とも思える容量を持った大きなDVDの中に納まっているのです。

未来は不定なのではなくて、すでに決まっているということです。それならあくせくすることなく、ただ喜びや楽しみを満喫するだけでいいと分かります。

こうした気づきは人生をより豊かな気持ちで過ごすことができるようにしてくれます。人生にまつわる様々な不安や恐れからも開放してくれるのです。

手助けしたい気持ち

目の前にいる幼い子が何かを一生懸命にやっていて、もう少しで目標を達成しそうになっているのに、なかなかそこから進めないでいる姿を見たら、誰だってちょっと手を差し伸べたくなるものです。

ほんの少しだけ力を貸してあげるだけで、必ず成し遂げられると分かっているのに黙って見ていることは何だかせつなくなってしまうかもしれません。

どうすればできるのかを知っているものが、その方法を教えてあげるのは親切かもしれませんし、余力のあるものが力を貸すというのは決して悪いことではないですね。

しかし、自分が黙って見ているのが辛いという理由だけで、勝手に手を出して助けようとしてしまうことは余計なことなのかもしれません。

幼子に限らず、人は誰でもそれまで出来なかったことを、自分だけの力でできるようになりたいと望んでいるものです。それは楽しみでもあり、喜びにも繋がることだからです。

やりたいからこそ頑張るのであって、頑張ることを褒めるよりも、何かを喜んでやろうとしていることの方をむしろ褒めるべきではないかと思います。

そしてそういう場合には、なるべく手を貸さないようにしてあげることが本当の愛なのです。なぜなら、本人はそれを喜んでやっているからです。

しかし、頑張るというときには、ただそれを楽しみたいからという理由以外に、やらねばならないからという場合も往々にしてあるのです。

それは不安や恐れから逃れようとする自己防衛が理由であるため、それを褒めてしまうと人生を楽しむという原点の大切さを忘れさせてしまうことになるかもしれません。

やりたいから頑張っているときには、心が喜んでいるために本人は苦しみを感じないのですが、やらねばならないので頑張っているときには、自己犠牲から苦痛を感じるのです。

私たちはとかく歯を食いしばってやり遂げることに価値を見いだそうとしてしまいますが、決して忘れてはならないのは本人がそれを楽しめているのかどうかという点なのです。

そこにこそ、唯一の価値を見いだすことができるのですから。それをすばらしいと感じ、それを賞賛することが大切なのではないかと思います。

安易に手を貸してしまいたくなる自分の気持ちをしっかり受け止めたうえで、相手の喜びや楽しみを奪う結果とならないように注意したいものです。