思考に頼るのをやめてみる

自覚があろうがなかろうが、1日に何度も何度も繰り返し思考によって答えを見つけようとしているのです。

あれが◯◯だったのは何でかなあ?って思ってみたり、これはきっとこうだからそうなったに違いない等々。

どれもこれも突き詰めれば思考で解決しようとしているのです。あの人との約束は何時だったかなあ?

この思い出そうとするのだって思考を使っています。どうやったら、この人にこのことを理解してもらえるだろうか?

今日やるべきことはこれで全部だったかなあ?とか、こんなこと言っても大丈夫だろうか?などいくらでもあるのです。

こうしたことの全部が思考を使って、思考に頼って答えを見出そうとする行為なのです。これで分かったと思います。

いつも自分をしっかりと観察していれば、こうしたことばかりやっていると気づくことができるはずなのです。

そして、それをやめてみるのです。すると、頭の中が静かになるのを感じることができるはず。これはかなりの効果があります。

思考に頼らないでいるようにするだけで、思考は止まるのです。思考を止めなければと思う必要はなかったのですね。

もしも興味があれば、是非試してみてください。

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何が真実なのか、全く分からない

私たちが日々体験していることって色々あるのですが、身体に関して言えばそれは五感を通してやってくるのです。

それにプラスして、思考、感情、気分などの精神的なものもやってきます。特に、思考は非常に多岐にわたっています。

概念とか、観念、あるいは信念、イメージ、そして記憶の多くも思考が操っているのですから、思考まみれといってもいいかも知れません。

そうした思考を頼りにするのをやめてみると、それだけでかなりこの世界を違った感覚で見ることができるのです。

ただ、実際に概念や観念を抜きに見るなんてことは至難の技です。例えば、部屋で1人静かに坐って目を閉じます。

その状態で残っているのは、身体からやってくる様々な感覚だけですね。けれども、その感覚が身体のどこからやってくるのかはイメージに過ぎません。

自分が今部屋の中で坐っている、というのも目を閉じた瞬間から単なるイメージでしかないということに気づくでしょうか。

そのようにして見ていくと、確実に分かっていることなんて一つもないということに気づくことになってしまいます。

実は何も分からない。理解というのは思考によるものなので、思考を抜きにすればどんな理解もやってきません。

そして自分は身体の中にいるというしつこい感覚さえも、実際にはイメージに過ぎないのです。それを証明することができないからです。

これは困ったことになりましたね。全ては曖昧なものであって明確なものなど一つもない。理解もできない。

これこそが本当のこと。それが起きていることなんですね。 

「キャッシュバック」って大嫌い!

いつの頃からかは忘れてしまいましたが、新規顧客を獲得しようとして誰かが考え出したシステムなのでしょうね、例の「キャッシュバック」。

和製英語のヘンテコな言葉。何かを契約したり購入すると、◯◯円のキャッシュバックが貰えますというアレ。

契約金などの一部が戻ってくるっていう意味なんでしょうね。それに釣られてということはないのですが、とにかくキャッシュバックがありますと。

で、貰えるものは貰っておこうというシンプルな発想で、それなりに期待しているわけです。1万円とか2万円とかその程度なのですが。

ところが、それがすぐに貰えるわけではなくて、ひどい時には半年から1年くらい後にならないと貰えなかったりするのです。

さらに、時間が経ったらいつでも貰えるわけでもなく、ある特定の期間しか貰えなかったりするのです。

きっと、一定数が忘れてしまったりすることを想定しているとしか思えないのです。こういうの本当に嫌いですね。

今回新しい家に合わせて、家人が冷蔵庫を購入したのですが、それにキャッシュバックがついていたのです。

指示されてる通りに、冷蔵庫の中に貼ってある情報を写メして、購入証明になるものと一緒に送ったりしたのです。

2ヶ月後と言うことで、やっとその時期がやってきてそれなりの通知が来たので、その処理を進めていたところ、エラーになってしまい、お金は貰えず。

クレームのメールを送ったところ、ようやく手違いがあったことが分かって、最終的には無事お金を受け取ることができたのです。

大嫌いなシステムなのですが、だからと言って無視してミスミス貰えるお金を貰わずにいるというのも、それはそれで損をした気がして嫌なのです。

結局、お金を貰えたとしても別にそんなに嬉しいわけでもなく、どっちに転んでもただ嫌いだということだけが明確に分かったのです。

世の中からこんなアホなシステム、一刻も早く消滅して欲しいと思っているのは私だけでしょうか?

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精神活動が止まっても残るもの

未だに自分のことを身体だと思い込んでいる人も一定数いるんでしょうかね?というよりも、誰の心の奥にもそんな部分が少しはあると思います。

けれども、自覚している部分だけで言えば自分はこの身体だと信じている人はそれほど多くはないのかも知れません。

私の場合ですが、自分はこの身体の内側に常にいて、(詳細な場所はちょっと分からないけど、敢えて言えば脳の中かな)この肉体をコントロールしていると感じています。

そしてなぜ自分の本体は可視化できないのかというと、精神活動そのものだと思っているからです。

自分のことを肉体だと思っているよりも、精神活動だと思っている方が何となく賢い感じがしますからね。

精神活動というのは、モノではなさそうなのでどこにあるかという質問に意味はなさそうですし、境界がないというのも頷けます。

ではその精神活動が独自に信じていることって、どの程度正しくて価値のあるものなのかを調べてみると。

かなりどうでもいいことのようにも思えてきます。さらに言えば、自分の存在を単なる精神活動だと捉えるのって、なんだかやっぱり無理があるように感じます。

深く瞑想をして精神活動そのものがかなり鎮まったとしても、何かは残り続けているのをいつも経験しているからです。

じゃあその経験て誰がしているのか?こうしたことを突き詰めていくと、自我の癖というのが見えてきます。

つまり、経験は誰かがしているという思い込みです。自我というのは、いつもどんな経験であれそれを自分のものとしてしまうからです。

そういった思考の癖を取り除くなら、ただ経験がある、ただ起きていると言えるのです。そうなると、自分という奴の入り込む余地は無くなってしまいますね。

精神活動が止まっても残るもの、それが何なのかを突き止めてみたいと思いませんか?思考を使わずに、ただそこにあるものを見てみたいと思います。

不可能に挑戦していたことに気づいてホッとする

ここ以外の他のどこかなんてない。どこにも行き場がない。改善の余地など全くない。それが分かるとどうなるだろう?

めっちゃ無駄な努力をしてきたなあという、呆れた状態になるのです。一生懸命瞑想を続けていれば、いずれは覚醒するかも知れないと。

覚醒してしまったら、自我が作り出すあらゆる苦しみ、悩み、そう言ったものから完全に解放されて、死ぬまでマインドは静かなままになる。

この思い込みが、これまでの人生で一番バカバカしい考えだということに気づいてしまいました。本当にしょうもないのです。

それ以外でも、今のままではダメだ、このままでは不満があるし、もっといい状態に持っていけるはずだと。

ずっとそんなことをどこかで考えていたような気がします。それが日々生きるエネルギーとなっていたような。

だって、昨日までの自分と全く同じではつまらないじゃないですか。ほんの少しでも進歩しなければ、時間がもったいないと。

生きている意味がないじゃないかと。けれども、改善するものがそもそもなかったと気づいてしまったら、アレってなってどこかで安堵が起きるのです。

不可能に挑戦していたことに気づいたら、あとはほっとして全てを放っておくしかなくなるのです。これって完全な自由ですね。

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滑稽過ぎて笑うしかない

ある本を読んでいたのですが、途中で何やら可笑しくなってきて最初のうちは我慢していたのですが、とうとう笑い出してしまったのです。

理性の自分は別に何も可笑しいことなどないのにな、と思っているのですが、どうにもこうにも笑いが込み上げてくるのです。

どんな内容の本かというと、これまでの自分の生き方、考え方、積み重ねてきたもの等々を根こそぎ否定された感じがしたのです。

もう全く取り憑く島がないといった感じなのです。何か自分なりの言い返しを試みようとしても、それも含めて全部否定されるのがわかるのでできなくなってしまうのです。

手も足も出ないとはこのことかなと。人の心って、あまりに全敗してしまうと、悔しいとか悲しいとか、惨めとか何もなくなるのですね。

そしてただ可笑しくて仕方なくなってしまうのです。あまり経験したことのないことだったので、ちょっと書いてみたくなりました。

で、まだ途中のこの本ですが、当然最後まで読むつもり満々です。なんでなのかというと、一切の言い訳ができないことが、清々しいのでしょうね。

それだけではなくて、今までの人生がいい意味で馬鹿馬鹿しく感じられて、滑稽に思えてきて不思議と気分爽快なのです。 

あるがままを見ることの難しさ

すでに目の前に展開されているものを、ただあるがままに見るということがどれほど難しいことなのかというお話しをします。

自分の部屋に1人腰掛けて、部屋の中をゆっくりと見渡してみると、様々なものが目に映るわけなのですが。

その時に、何も考えることもせずにただあるものを見ていると思ったとしても、実は脳内(左脳)では凄まじいほどの量の仕事をしているのです。

それは例えば、見えるもの一つひとつに対して自分に対するそのものの意味だとか、価値だとかのデータベースを作っているのです。

そのデータベースは以前からすでに脳内に作ってあったものですが、目を開けた瞬間に見えたものとそのデータをリンクさせるのです。

それはもう瞬間的な作業なのでしょうね。そうやって、部屋の中にあるテレビやテレビ台、ソファやテーブル、天井、壁、ライト、ドアなどがオブジェクトとして登録された状態で周囲を見ているのです。

だから、あるがままを見ているなどとは到底言えないのが分かります。もしも本当にあるがままを見るのだとしたら、まずはそのデータベースとのリンクを外す必要があります。

そして、あらゆる概念、観念、イメージ、そういったものからも外す必要があるのです。これまでの自分との関わり、あるいは歴史、そのものにまつわるそれ以外のすべての情報を外すのです。

そこまでやれて、初めてあるがままを見るというところに近づくのかも知れません。きっと右脳は最初からその状態で、周囲を見ているのでしょうね。

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マインドからハート中心へ

私が日々行なっているセラピーの根っこにある原理原則は、結果にはそれに見合った合理的な原因が必ずあるということです。

様々な困った症状が出て本人を悩ませてしまうので、それを何とかしようとしてクライアントさんはセッションに来られるわけです。

そしてその症状というのは、あくまでも結果であってそれをどれほど眺めていても、解決することはできないのだと。

その代わりに、その原因となるものを探し出してそこを癒すことによって、結果は自然と緩和して行くことになるのです。

とここまではいいのですが、ただし常に結果には合理的に(言葉で)説明できる原因があるという考え方は、あくまでも左脳によるものなのです。

つまり左脳偏重の世界では正しいのですが、左脳の理屈が及ばない右脳の世界では通用しないことであることを忘れてはいけないのですね。

左脳には理解できない世界というのがあって、それを左脳は否定したいのです。なぜなら、自分が理解できないことが苦しいから。

人間のあらゆる言動を、左脳の理解できるルールの中に無理やり押し込んで納得できたつもりになっても、そこには受容するという真の理解がないのです。

この宇宙はあるがままにあるのであって、起きることがただ起きるのです。それは私たち人間に対しても言えることですね。

私自身も含めて、多くの人がマインド(左脳)からハート(右脳)中心へとシフトすることで、より優しい世界になるような気がしますね。

自我は自分にまつわる記憶で溢れている

自我というのは、巧妙にあらゆる事柄を自分と関連付けて記憶して行くのです。そうすることで、自分を大きな存在として感じることができるのです。

それは例えば、身体のどこかに痛みがあるとすると、自我はそれを自分の身体のどこどこが痛いという具合に転換するのです。

本当はただそこに痛みが起きているだけなのに、それを自分と上手に関連づけて記憶してしまうわけです。

ただ歩くという行為が起きているだけなのに、自分が歩いているというように解釈することで自分にまつわる事柄が増えて行くのです。

物事や行為はただ起きているだけなのですが、それに対して自我は、「私は〜」のようにして、全てを自分のものにしてしまうのです。

そんなことをずっと毎日続けてきてしまったおかげで、朝起きてから夜寝るまでの全てを自分の経験とするのです。

だから記憶の中には、自分にまつわる膨大な量の情報が溜め込まれて行くわけです。もう自分で溢れかえっているのです。

自分自分、私私私、寝ても覚めても自分、私。それが日常的になってしまっていて、その異常さに気づけなくなっているのです。

物事をいかなる先入観も使わずに、ただあるがままに見ることができるなら、自分などが入る余地などないと気づくことになるのでしょうね。

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感謝はするものではなく、やってくるもの

敏感さと素直さの両方をあわせ持ったような子供は、多くの場合人生の初期の頃は苦しむことになる可能性が高いのです。

それに加えて大人のような聡明さを兼ね備えていたりすると、大抵の場合は大変なことになってしまいます。

親の言葉を額面通りに受け取ってしまい、それを死守しようとするあまりに自分をがんじがらめにしてしまうからです。

親のちょっとした言葉を真に受けてしまい、その通りにできない自分を責めてしまったりもするのです。

例えば、「◯◯さんには感謝しないとね」と言った何気ない言葉をそのままに理解して、なんとしても感謝しなければならないと思い込むのです。

けれども、その子の心の中にこれといった感謝の気持ちが芽生えていないとしたら、その子は自分の心がダメだからと自己嫌悪になるわけです。

親としては、相当に言葉を選ぶ必要があることに気づく必要があります。逆にもっと明確に感謝については伝えておくべきです。

感謝はするものではなく、やってくるものだと。だから、そのままの自分でいればいいだけで、何か努力をするようなものではないと。

親自身が自分に負荷をかけるような生き方をやめることができれば、こうした問題は自然と解決してしまうはずですね。