自我とは点だった

2600年前にブッダが説いた「縁起」というのは、あらゆるものが互いに繋がっていて、いかなるものも単独では存在し得ないということ。

逆に言えば、あらゆる関係性だけが存在して、その両端にあるものは存在しないということ。それは概念でしかない。

例えば、線と線が交わる場所を点と言いますが、つまり位置を表す点というのはそういう意味では存在するのですが、点そのものは存在しませんね。

点というのはあくまでも概念でしかないということです。あるいは、次のように表現することもできます。

私とAさんは友人関係であり、私とBさんも友人関係であると、AさんとBさんは私を交点として繋がっているのです。

互いに知らないとしてもです。その交点が私であるとするなら、交点という点である私は概念としてしか存在しないことになります。

私という自我はそんなものなのですね。つまり、私という自我は存在しないし、縁起という関係性を形作る概念としての点だったということです。

それを「無」というのか、「空」というのかは知りませんが、点は点としての役割があるということですね。

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意識的であるための一つのメソッド

椅子やソファに腰掛けて、目を閉じて心静かにしていると、自動的に意識的な状態になっていることに気づきます。

自分の心身をそのような状態に保とうとするその注意力が、思考の中から救い出して意識の方へとシフトさせてくれるのです。

つまり、意識的であるということと瞑想的であることとは、ほとんど違いがないということになりますね。

そういう時間を作れる場合はいいのですが、毎日が忙しくてそれどころではないという人もいるかも知れません。

仕事やその他何かに従事しているときに、意識的であることはとても難しいことです。なぜなら、意識が対象へと向かっているからです。

それでも、一日10分程度でも瞑想をする時間を作り出して、心と身体をその状態に慣らしていくことができれば、歩きながら、運転しながら、人と会話しながらでも、意識的であることができるようになります。

要するに、慣れの問題なのです。何かのスポーツなどと同じで、練習によって身につけていく以外には方法はないのです。

その上で、最近私がやり始めた意識的であることの補助的なメソッドがあるのですが、それは手の親指と薬指を繋ぐ方法です。

両手でやれない時は、左右のどちらかの手だけでも構いません。親指と薬指をくっつけておくのは、思いのほか大変です。

だからこそ、その注意力が意識的である状態を維持させてくれるのに役立つのです。是非試してみてくださいね。

コクのある生を生きる

神の存在って曖昧なものですね。誰もそれを証明することもできないのですから。それ以外にも、多くのものはこの世界では曖昧です。

例えば、過去生や未来世があるのかどうか、魂の存在も含めて本当のところ誰もそれを証明することができないのです。

けれども、たった一つ明確になっていることがあるのですが、それは死の存在です。死だけは、他のどんなこととも違って確実にやってきます。

証明の必要すらありません。それなのに、私たちは曖昧であやふやなことにはエネルギーを使うのですが、死を正面から見ようとしません。

毎日の生活の中で、自分の死について考えることがある人がどれほどいるでしょうか?若い人であればほぼいないと言ってもいいはずです。

もちろん年齢を重ねてくれば、それなりに迫ってきたものから目を逸らすのも難しいので、少しずつ死を迎えることを考えるようになるのです。

ただし、本当のところ私たちの誰もが年齢には関係なく、一寸先に死がやってこないとは言い切れないのです。

だから死を疎ましいこととして捉えるのをやめて、ある種肯定的に捉えることができるように準備しておくのは悪いことではありません。

夢がある人もない人も、目標がある人もない人も、どちらにせよ予期できない死と共に今日を生きるなら、バカバカしいことから離れてコクのある生を体験できるのかも知れませんね。

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勇気を持って立ち向かう

二十数年前に、催眠療法のクラスを受講していた時に、講師の方が「癒しにとって一番大切なのは勇気です」って言っていたのです。

あの当時は、へえと思ってただ聴いていただけだったのですが、確かに勇気は必要だなということを切実に感じるようになりました。

逆い言えば、勇気を使わないように生きてきた人にとっては、残念ながら癒しが遅々として進まないことになる可能性が大なのです。

幼い頃に、親からコントロールされ、無抵抗でいるように洗脳されてしまうと、勇気を使うという選択肢が消えてしまうのです。

そうなると、我慢することには人一倍長けてしまい、それが自己犠牲を蓄積することになって、人生を破壊することになるのです。

幼い頃の洗脳というのは、そんじょそこらの極悪宗教の教祖様よりもタチが悪いのです。人に親切にしてみたり、動物の世話をしたり。

そうしたことはいい人、優しい人という括りに入るかも知れませんが、勇気を使わずともそういう人にはなれるのです。

勇気を持って立ち向かうという選択肢があることにどうしたら気づくことができるのか?それには、大人の自分が成長する以外にありません。

あなたはこれまでの人生の中で、「勇気を持って立ち向かう」ということをどれほど自らに体験させてきたでしょうか?

あるいは、今日1日の中で、勇気を持って行動したと思える瞬間があったのかどうか、見返してみることも必要かも知れませんね。

ただ、今ここに在る

自分という存在が確固としたものであるなら、記憶データを使わずとも自分のことを伝えられるはずです。

ところが、記憶には一切触れずに自分が何なのかを説明しようとすると、何も表現することができなくなるのです。

自分とは、過去の記憶そのものではないのは確実だし、この肉体でもないし、思考でも感情でもありません。

そう言ったものを全て傍へ置いた後に何が残るのか、瞬間瞬間やってくるあらゆる感覚も、自分自身とは違うと分かっています。

どんな考えがやってこようとも、どんな喜怒哀楽に翻弄されたとしても、そう言ったものは自分自身とは違います。

最後には何が残るのか?何も残っていないような気がするのですが、それでもここに自分がいるという感覚だけは消えないのです。

面倒なものですね。その感覚が一体どこからやってくるのか?ただし、この自分がいるという感覚は、個人としているということではないようです。

なぜなら、個人であるという明確な理由づけがもはやできないからです。つまり、最後に残っている自分がいるという感覚は、「ただ今ここに在る」というものなのです。

これはもう人間としてのものではないでしょう。ただ在るということ以外はどんな説明もできないのですから。

それが自己の正体なのでしょうね。到底、この3次元の存在とは思えません。だからこそ、どこにいる?という質問には答えられないのですね。

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内側も外側もない

日頃からいつも外側で起きていることばかりに心を奪われているのではなく、内側に目を向けてくださいと言ってきたのです。

そのことが間違いでしたというのではないのです。その話しとは少し次元の違う視点で見直してみると、内側も外側もないという理解がやってくると言うお話しです。

というのも、内側と外側という分離は何を基準にしているのかと言えば、当然ですが自分の肉体なわけです。

肉体の内側を内側としてみて、肉体の外側を外側の世界としてみるという、当たり前のことなのですが、けれども自分の本質と肉体とは全く別物。

それが分かった時に、自分の本質からすれば内側と外側という区分けなど存在しないと分かるということです。

自己の本質が、純粋な意識であって、空間のようなものだとするなら、やはり内も外もないと分かるのです。

敢えて表現するとしたら、あらゆる一切合切が自己の内側にあるという言い方もできるかも知れません。

けれども、それも本当には正確さを欠いています。真実には、そうした概念などないからです。どんな言葉もどんな表現も当てはまらない。

ただ沈黙して全てを受け入れるしかありませんね。真実には疑問を感じる余地すらないということに気づけばいいのですから。

意識は空間に似ている

意識的であることをライフワークにしてしまえば、日常的にそこに注意を向け続けることができるのです。

そして意識的であればあるほど、その状態が次第に馴染んできてそれを自分のものにすることができるようになるのです。

そうなると、いいことばかりが起きてきます。意識の方に軸足が向くことで、思考は自然と静かになってきます。

そして、何があっても無関係である意識の存在に気づくようになります。それは、透明で形がなくて、境界もなく大きさがない、そういう何かです。

それを捉えるときに感覚という表現を使うしかないのですが、いわゆる五感のような感覚として感じているのではない。

五感は体から入ってきた情報を脳が解釈して、五つの感覚として感じることができるのですが、意識の方は身体も心さえも使わないのです。

いつも全体性という言葉で表現してきましたが、もっと分かりやすく言えば単に「空間」という感じでもいいのかなと。

意識的であろうとするときに、時として空間に意識をむけてみるといいかも知れません。空間も透明で形がなくて、境界もなく大きさがない。

先ほどの意識の特徴と同じであることに気づくと思います。是非とも、この感覚を体得して欲しいと思うので、なるべく意識的であろうとすることですね。 

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命を懸けて「ノー」と言おう!

先日、「今を生きる」という映画を見ました。今はもう亡くなったロビン・ウィリアムスが破天荒な先生役で、生徒が若き頃の有名な俳優たちが沢山出演しているのです。

イーサン・ホークの10代の頃など、見どころは満載でしたね。内容的には、全寮制の厳しい名門進学校の生徒たちに対して、その先生が「自分で考え自分らしく生きることの大切さ」を訴える映画なのです。

ややネタバレしてしまいますが、最初は呆気に取られていた生徒たちも、次第に自分は本当は何をしたいのかなどに目覚めていくのです。

そして中心的な1人の生徒が、演劇をやりたいことに目覚めていくのですが、父親にそれを厳しく咎められてしまうのです。

けれども、彼は頑張って主役の座を勝ち取り、それを立派に演じ切ったのですが、その喜びの頂点の時に、それが父親にバレて寮から家に連れ戻されてしまうのです。

そして、遠方にあるもっと厳しい学校へと編入させられようとするのです。父親が「何か言いたいことがあるなら言ってみろ!」というのです。

ところが、10数年飼い慣らされてきてしまった彼には何も言うことができずに、全てを飲み込んでしまうのです。

そしてその晩、彼はピストルで自殺をしてしまうという悲しいストーリーなのです。自分の命を犠牲にしてまで、「ノー」を言わないというのが何とも悔しい限りです。

このブログを読んで、何となく身に覚えがあるという人は、親と子供の双方の人生を台無しにする前に、セッションをしっかり受けて欲しいと思いますね。

ありのままを正直に知覚する練習

自分で分かったつもりになっていたことであっても、改めて他人からそのことを聞かされて認識を新たにすることってありますね。

昨日ある動画を見ていて、それを思い知りました。それは、「目の前にすでに展開されているものを、正直にただ見てみる」というものです。

自我というのは、無数の思い込み、観念、概念、そう言ったもので認識を嫌というほどに歪ませているのです。

ただ見てみるということがどれほど難しいかを知っていたのですが、やはり気付かぬうちに忘れてしまっていたようです。

自分では忘れていたわけではないという言い訳をしたくなるのですが、だとしてもそれを意識せずに生きていたなら同じことです。

自我のやり方というのは、例えば身体に痛みを感じれば、自分が痛いと感じていると解釈してしまうということです。

けれども、本当は痛みという感覚が起きているだけなのです。自分が何かを考えていると思っているなら、本当は思考が起きているだけだと。

自分が歩いていると思ったとしても、歩くという行為がただ起きているのだと。こうやって、自我を追い詰めていくのです。

自我としては、居心地が悪いのでなんとなく忘れさせてしまうということを裏でやっているのでしょうね。

知らない人の動画で思い出させてもらえたので、また地道にこれを続けていこうと思いを新たにしました。皆さんもぜひ試してみてくださいね。 

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意識的であれば物語から抜けることができる

もしもあなたが、周囲で起きている物語にばかり気を取られてしまって、自分を見ないでいるならそれはもう動物と同じなのです。

動物が悪いという意味ではなく、人間として生まれてきたのに動物と同じことをしていることが残念だということです。

起きつつある事象から外れた自分に意識を向けることができれば、そこで初めて自分の「存在」に気づくことができるのです。

存在というのは、物語とは違う次元にいるからです。外側には自分の存在を感じるための仕掛けがないのです。

物語の一つの断片としてしか自分を見出せなくなってしまうから、自分の存在価値という概念が生まれないのです。

これに気づくことができないままに大人になると、存在に代わる何か価値のあるものを見つけようとして人生を台無しにしてしまいます。

私がずっとずっと意識的であることが大切と言い続けているのも、実は意識的である瞬間、物語の外に立っていることができるからです。

1日のうちの数分でもいいので、あらゆる物語から距離を取っていられるようにするのです。すると、あなたの存在が際立ってきます。

物語とは無関係の自分という存在に気づくことができれば、人生の深い部分にも気づけるようになるはずです。

その全ては、意識的であることで現実のものとすることができるということですね。