自由は命よりも大事

自由は命よりも大事という次のoshoの言葉って、なかなか凄まじいものがありますね。

『自由は最も神聖な現象だ
それゆえ、自分の自由を何のためであろうとも
犠牲にしてはならない
たとえそれが愛のためであっても
自由を犠牲にしてはならない
なぜなら、自由より高いものは何もないからだ
自由のために、すべてを犠牲にできる
たとえ命でさえも』

16世紀にコペルニクスが例の地動説を発見したのですが、彼は教会からの圧力を危ぶんで、その論文を発表しなかったのです。

ところが、17世紀になってかの天文学者であるガリレオ・ガリレイは、自ら製作した望遠鏡を駆使して観察を続け、そこから得た事実をもってコペルニクスが唱えた理論を証明してみせたのですね。

彼の名台詞である、「それでも地球は回っている」という言葉は、自分の命よりも自分が証明した事実を発表する自由の方を優先したということです。

これこそが、osho が言う自由は命よりも大事だと言うことを身をもって見せてくれたと言えるでしょうね。

大小の違いはあるかもしれませんが、様々なことを優先することで、自分が自由でいることを犠牲にすることもあるなあと思うのです。

一番思いつくのは、罪悪感ですね。罪悪感を感じたくないがために自分の自由を犠牲にしてしまうと言うことは、よくあることではないでしょうか?

思い当たる人は多いと思います。私もこれまではそう言う経験を幾度となくしてきました。けれども、これからは自由を最優先するように勇気を持って生きようとあらためて思いますね。

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我々は互いに別の世界で生きている

この仕事をするようになって、つくづく思うことがあるのですが、それは誰もがその人に特有の世界で生きているんだなと。

そのくせ、そのことには全く気づくことなくみんなで同じ世界に一緒に生きているのだと錯覚してしまっているのです。

物理的な世界が一つだとしても、それぞれが生きている世界は全く別物だということを、どうやったら気づくことができるのだろうか。

もしもこのことに深く気づくことができたなら、無意味な争いやいさかいごとなどは消えていってしまうかもしれません。

たとえ深いところまで分かり合っているもの同士であったとしても、もっともっと深掘りしていけば、どこかで必ず分かり合えない場所に到達してしまうのです。

これは悲しいことではなくて、原理的な当然の結果でしかないのです。それを前提として、人との繋がりを大切にしていけばいいのです。

個人として生きているということは、結局のところそういうことなのですね。私のワールドは私の脳内に展開されたものだし、あなたのワールドもあなたの脳内にこそあるのです。

それぞれが一つにまとまることはできません。それをいくら望んだとしても、不可能なことなのです。

だからこそ、意識的に互いに寄り添って元々交われないものを少しでも埋め合えるようにすることに価値があるということですね。

生きたブッダの言葉は知り得ない

小学生の頃から、何となくですが宗教というものに関心があったような感じがしています。何も知らないのに不思議です。

信者になりたいということではなくて、一体どんな魅力的なことが経典などに書いてあるのだろうかが気になっていたのだろうと。

ところが、その一方では宗教的な教えの中心とも言える、人は◯◯でなければいけないとか、人とはこうあるべき、のようなルール的なものには興味がないのです。

それは今でも変わりません。人を正しさで縛るような教えは全くもって苦手なのです。このような自分なので、すぐにピンときたのがoshoだったのでしょうね。

oshoの生きた言葉をそのまま知ることができた自分は何と幸運なのだろうと思う反面、ブッダの言葉は永久に知ることができない。

もしもブッダが生きていたら、一体どんなことを教えてくれるのか?偉い学者さんたちでさえ、それを知ることはできません。

きっとこうであっただろうという予測でしかないのです。ただ、私が思うにブッダは決してルール的なことに触れたことはなかったのではないかと思うのです。

ブッダは仏教の開祖ということにはなっていますが、現在世界中に広まっている仏教の内容をブッダが知ったら、それはもう驚くでしょうね。

私はそんな宗教のことなど知らないと。それはきっと、イエスキリストが現在のキリスト教のことを知ったとしても、同じ反応をするのだろうなと。

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自我から離れていくことが賢い生き方

非常に秀逸なoshoの言葉を味わってみてください。

『かつてこの地上で、愛はひとつの過ちもおかしたためしがない
あらゆる過ちは愛の欠如によるものだ
じっさい、わたしにとっては
それこそ生における唯一の過ちに他ならない』

ここで言う愛とは、純粋な愛のことであって自我にそれを理解することはできないのです。その一方で自我の愛とは、偽物の愛のこと。

だから巷に溢れかえる恋人同士の愛憎劇とか、あらゆる人間ドラマに出てくる辛く苦しい愛もみんな自我の愛なのです。

それは当然のこと過ちを犯すのです。他の表現を使えば、それはとてもバカバカしいことと言えるかもしれません。

自我の愛というのは、防衛をその原動力としているので、実は純粋な愛の正反対のものなのです。だから、愛という名の苦しみなのです。

セッションで、あるクライアントさんに自我についての説明をしていた時に、それを聞いていたクライアントさんが、じゃあ人生が辛いのは自我のせいですね?と。

そうです、自我の原動力は恐怖や不安(愛の欠如)なので、それは必ずや困った事態へと連れて行ってしまうのですね。

自我が悪いというよりも、自我とはそういうモノでしかないという理解が大切ではないかと思っています。

そうなると、少しずつ自我から離れていくことが賢い生き方なんだろうなということが分かってくるのですね。 

家を建てるプロセスの終了

やっと今晩から新しい家で夕食をとり、今新しい自分の空間で落ち着いた雰囲気の中、静かにこのブログを書いています。

やあ、長かったです。思えば、昨年の7月の初旬から始まった家作りのプロセスが、ようやく今日終わりを遂げたということです。

まだ実は工事が終わっていない部分などもあるのですが、もう自分が寝泊まりするようになるので、今日から新しい住まいでの生活が始まったという感じです。

連日の猛暑の中でも、エアコンを使わずにひんやりとした部屋の空間を体感できるのは、軽い衝撃なのです。

けれどもその一方では、これまで聞いたことのないいわゆる騒音が聞こえたりして、何もかもが初めての経験です。

風呂の蛇口に何も表示がされていないので、シャワーからお湯を出すまでにしばし時間がかかる始末です。これは、初めての人には非常に不親切かもしれません。

夕方にものすごい勢いで夕立のような激しい雨が降ったのですが、その音が全く聞こえないくらい、外の音が伝わってこないので、いいような不便なような。

自分にとって一番大事な瞑想が心地よくできるのかどうか、これからゆっくりと検証してみたいと思っています。

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「案ずるより産むが易し」と「これもまた過ぎ去るだろう」

明日仮住まいのアパートのネットを撤去するため、新居の方に移り住む運びとなったのですが、いやはや色々ありました。

新居のネットとテレビの設置が、ようやく今日終わってあれこれ考えてどうなるかなと思っていたのです。

ところが、工事の人が来てみると、こちらがあれこれ言わなくても非常にスムーズに仕事を終えてくれたのです。

これこそまさに、「案ずるより産むが易し」というやつですね。なまじ少しだけネットのことが分かる分、気を揉んでしまうのです。

100%おまかせ状態であれば、なんてことはなかったと思うのですが、色々質問をしたところほぼ答えてもらえたことがありがたかったです。

4台あるテレビそれぞれを有線でネット接続して、一方のWi-Fiは一階と二階をメッシュWi-Fiというやつで接続することで、快適なネット環境となったはず。

残るは、ブロック塀へのタイル貼りと、クルマの充電ケーブルの収納ボックスの設置。この辺りは、お任せになるので問題なし。

今回の家の建て直しにまつわるすべての作業が、終わりを迎えようとしています。あと少し、残るは少しの引越し作業と不用品の廃棄作業。

「これもまた過ぎ去るだろう」が今回の私の中でのスローガンでしたね。これ、結構使えると思いますので、皆さんも是非活用してください。

人生に目標を持てなくても心配いらない

osho は、よく「生は無目的だ」というようなことを言ってくれます。その言葉にどれだけ助けられたことか。

子供の頃ばかりではなく、大人になってもずっと一貫して目的をはっきり持てと言われ続けてきたのですから。

目標設定を明確にして、それに向かって前進していくことこそが正しい人の道だとばかりに言われるわけです。

どう頑張っても目標など一つもなかった私にとっては、なかなかしんどいものがありました。勿論もうこの年齢になったら、そんなことは誰にも言われなくなりましたけどね。

上っ面の目標をでっち上げることくらいはできるものの、そんなものは自分にとっては本当はどうでもいいものだし。

人によっては、目的を持たない人物とは一緒に仕事をするな、と断言している人もいますが、その気持ちは分からなくはありません。

要するに、しっかり目標設定している人ほど、より社会的な人間になるので、社会では優遇されることになるのですね。

そしてその逆も真なりなのです。私のように人生に目的、目標を持てないという自覚がある人に是非とも伝えたい。

そのことで卑屈になる必要はないということ。目的、目標はあくまでも未来のもの、それは自我を活性化させるものなのです。

自我のこしらえた社会には迎合できるけれど、そこに興味を持てない人にとっては未来よりも身近な今日を楽しむ方が合っていると思いますね。

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いつまでもできると思うな、家具の組み立て作業

家内が自分の部屋に置くこぢんまりとした机を買ったので、その組み立てを手伝って欲しいと言われ、勿論やりましょうと。

さて、取り掛かろうとしたら、全行程が25くらいあるうちの、初っ端の第一番目の行程だけを一人でやったらしく、少しだけ進んでいたのです。

見てみると、板と板を繋ぎ合わせる木ダボが中途半端にはまっている状態のまま接着剤を流し込んでしまっているのです。

これじゃ先へ進めないことを説明して、しばしどうしたものかと思案して、これはペンチで一回強引に外してしまう必要があるなと。

アパートに戻って、ペンチを取って来てもらう間に作り方を読んでおくからと言ったら、ペンチってニッパみたいな奴?と言われ‥。

返答に困ったものの、結局は工具箱ごと持ってきてもらい、ペンチで無事ダボのいくつかを抜くことができたのです。

説明書には二人で60分程度で完成すると書いてあったのですが、もうすでにこの時点で30分くらいかかってしまっている。

ただもうあとは淡々と作業を進めていって、もうそろそろ完成するという時に、どうやら足腰の負担がかなりのところに来てしまったようで。

一つの工程を終えるたびに休憩を挟みつつ、身体さんを騙しつつ進めていったので、結局完成までに100分ほどかかってしまいました。

高齢者が二人で組み立て作業をするのはどうなのかなと。これからは、躊躇することなく業者さんに頼むことにしようと決めたのが、今日の最大の成果でしたね。

他人に迷惑をかけても、あなたの存在価値は変わらない

私たちが持っている「自己否定」の理由には、それこそ沢山のネタがあるのですが、その中でもかなり重症のものとして挙げられるのは、「自分は人に迷惑ばかりかけてしまう」というものがあります。

こうした根深い思い込みは、当然のことですが幼い頃の親子関係に起因するものがほとんどだと言えます。

幼い頃というのは、非常に視野が狭いですから、目の前で親が楽しそうではないとか、悲しそうだとか、幸せそうではないと知ると、その原因を自分にむけてしまうのです。

もうそれだけで、自分が迷惑をかけている張本人だと信じこんでしまうのです。親が怒れば、それも自分のせい。

親のネガティブな感情はすべて、自分が悪いんだとして早々に結論づけてしまうのです。経験が少なくて、視野が狭い状態ではそうなりやすいのです。

この状態になってしまうと、一人で立て直すのは大変なことです。その逆に、自分が迷惑をかけているという思い込みの中で生きるようになってしまうのです。

本当に迷惑をかけているのかどうかを相手に確認することもなく。実際、相手が迷惑を被ったと言ったとしても、それは本質的にはその人に起因することなのです。

そしてこの自己否定は、自分の価値を決定的に下げてしまう効果があるのです。もちろん、そのすべてはインチキでしかないのですが。

そうして、自己価値をなんとかして上げようとして、正しい自分を最優先させるのです。正しいことで、できるだけ人から否定的に見られないようにするわけです。

こうなると、悪循環はもうとどまることを知りません。一度立ち止まって、どこから間違った信念をベースに生きてきたのかを、振り返って見てみることが大切ですね。

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人格にも道徳にも一切の興味がない

以下のoshoの気持ち良い文章を味わってみてください。

『私は人格には全く興味がない
道徳にもいっさい興味がない
私は人々に不道徳になるようにと
言っているわけではない
私は人々に意識的になるように
意識を生み出すようにと言っている
そしてそれこそ瞑想の真意だ 』

まさに我が意を得たりと言ったら、とてもおこがましいのですが、でもそのくらいに激しく同意しますという感じなのです。

元々父親譲りなのかもしれませんが、正直なところ、個人個人に対してそれほど特別な興味や関心というものが薄いのです。

つまりは、人格という自我が作り上げたその人の社会的顔には殆ど興味を持ったことがないのです。

人とのご縁を大切にしなさいという言葉がありますが、確かにそれはそうなのだろうと思ってみても、現実はご縁がすぐに切れてしまう。

そして、道徳も同じ。興味がないというよりも、もう少し積極的な意味合いでどうでもいいという感覚を持っているのです。

やっぱり大切なことは、いかに意識的であり続けられるか?もうこの一点しかないというところに行き着くのです。

自分のこうした傾向が嫌いなわけではないし、今更変えていけるような物でもないだろうし、今回はこういう人生なのだろうなと。