アウェイクニング・ワークショップ

昨日の土曜日に、アウェイクニング・ワークショップを開催しました。アウェイクニング(awakening)とは文字通り、目覚めを意味します。

ごく普通の暮らしをしている、ごく当たり前の私たちが、本質の自己に目覚めていく時代がとうとうやってきたのだと本当に感じるようになりました。

その大きなうねりに乗っていくための、何かのきっかけになればいいという程度の感覚で、このワークショップを開きました。

かつては、選ばれたごくごく小数の特別な人だけに与えられた覚醒という宝物、一般人はそうした賢人たちに教えを請う以外にはなすすべもなかったわけです。

それは場合によっては、とてつもなく苦しい難行苦行を強いられたり、世間から逸脱した人生を選ばねばならないことだったかもしれません。

けれども、時代が変わったのですね。本当に、誰でもがごく普通の社会的な生活をしながらも、自己探求をすることができるのです。

自己探求というと何だか堅苦しい感じがしますが、実はとても簡単なことを練習することで気づきはやってくるのです。

昨日のワークショップに参加して下さった16名のみなさんが、どんな印象を持たれたのか、そして何かの気づきを感じることができたのかは分かりません。

しかし、お話しをさせていただいたり、ワークをみなさんと実践したりしている中で、確かな手ごたえも感じることができました。

それは、何か今まで理性で捉えようとしていたものが、するっと力が抜けていく感覚とでもいったようなものを、参加された誰もが、自分なりの感覚の中で感じられたのではないかということです。

また、きっと何らかの反発を感じられた方もいらっしゃったはずです。それは当然のことで、「私」という想念が危機感を募らせる内容だったからです。

長いことセラピストの仕事をしてきて、自分が最も素直にお話しすることができた時間だったし、本当にこの探求のための時間をみなさんとシェアできることの喜びを感じることができました。

次回は、4月21日(土)に予定していますので、もしもご興味があればこのワークショップで目覚めを促すワークをご一緒に実践して行きましょう。ご参加、お待ちしております!

真実を探すことをやめなければならない

真実の周りはいつも矛盾に満ちているように感じます。言葉で表現すれば、大抵は逆説的な言い回しになったりするものです。

例えば、瞑想中に何となく自分が何者でもないという感覚になったときに、ああ、この感覚をもっと知りたいと思った途端に、ニセモノの何かを与えられてしまった感じがしたことがあります。

つまり、思考によってでっち上げられた「何者でもない感」というのを味わうようにさせられてしまったのではないかということです。

自己探求と言っておきながらも、実際には探求しようという意欲に任せていると、それが思考を生んでかえって邪魔をしてしまうのです。

結局、究極の自己探求とは何も探さないということでしかないのです。何も探そうとしないし、何も遠ざけようともしないということです。

なぜなら、私たちが欲しいものを常に求めてきた結果が、この世界の現在の姿なわけですから、どうみたってうまく行ってるとは思えません。

理性は矛盾することや、理解不能なことを極力嫌う性質を持っています。理性の力ですべてを把握できると信じていたいからです。

けれども、真実に近づくにつれて、あらゆるものに矛盾の匂いが漂ってくるのを感じます。それは、もしかすると理性がそれ以上近寄らせないようにするための作戦なのかもしれません。

探そうとすればするほど、探そうとしているものを見失うという決定的な矛盾に、私たちは本当に気づかなければならないのでしょう。

私たちが探そうとしている方向には決して真実はなく、また遠ざけようとしているもののど真ん中にこそ、真実は隠されているのですから。

思考や感情と自己を同一視する罠

今に生きるということが大切なんだということを人生のどこかで聞くようになって、もう随分と時が経ったように記憶しています。

そして勿論いまだにそうした言葉を聴くことがあるし、私自身もそういった類のことを人に話すことがあります。

けれども、よく考えて見るまでもなく、私たちは誰しも当然今に生きているのです。過去や未来に生きている人がいたら、出てきて教えて欲しいです。

私たちは思考の中で、過去を思い出すことや未来を予測することがあります。というよりも、思考のほとんどは過去か未来にまつわることです。

しかし、そうした思考が起きるのはまさしく今この瞬間なわけですから、誰もが今以外のところで生きられるはずはありません。

ただし、そういった過去や未来にまつわる内容の思考そのものと、自分自身を同一視してしまうとどうなるでしょうか。

自分は今この瞬間にその思考に取り込まれている、という事実を意識できなくなり、代わりにその思考の中味である過去か未来へと意識が飛んでしまうのです。

その状態こそが、今に生きていないという言い方で表現されることなわけです。この状態になってしまう本当の理由、そしてその原動力は自己防衛です。

私たちの思考の使い道のほとんどが自己防衛であるということに気づくことです。自己防衛するためには、過去の経験を利用しなければなりません。

だからこそ、思考とは過去がベースになっているというわけです。いやいや、今この瞬間に目の前にいる人の理不尽さを考えているのは過去ではないと言うかもしれません。

しかし、その理不尽さをそれと理解するためには必ず過去が必要になるのです。そして未来に関する思考も、全面的に過去がベースになっています。

思考を悪者にする必要はまったくありません。思考を止めて、ただ感じなさいという必要も私はないと思っています。

しかし、自分の中に立ち上がってくる思考やそれが作り出す感情と自分を同一視していることに気づき、そしてその同一視こそをやめる必要があるということです。

感情は思考がなければ存続できませんし、思考は意識の上で起きては消えていくものです。そして、本当の自分とはその意識そのものなのですね。

意識に個別性はありませんので、もしも自分は個人としての意識を持っていると感じるのなら、それは思考と意識を混同していることになります。

思考や感情のような生まれては去っていくような一過性のものを自分自身と勘違いしてしまうこそが、あらゆる苦悩の根源なのです。

苦しみを乗り越えないこと

幼いときに、ころんだりして足を擦りむいて泣いていると、お母さんが「痛いの痛いの飛んでけ~!」と言ってくれて、それで不思議と痛くなくなることがありました。

ところが、この心温まる母親のおまじないの威力も、そう長くは続かなかったと思います。すぐに、「そう言われたって痛いものは痛いんだ!」となったはずです。

そうなってくると、今度は別の戦略を使って何とか痛みを遠ざけようとするようになります。例えば、この痛みを誰かのせいにするとか…。

私なんかは、今だに身体のどこかを家具などにぶつけると、その家具のせいにしたりします。その家具がここにあることが悪いと思ってみたり…(笑)。

あるいは、誰かがそれをここに置いたからこういうことになったのだと他人のせいにするのです。そうしたところで、痛みそのものがなくなるわけではないのですが、ほんの少し気が紛れるのです。

ほんの一ミリでも効果があれば、私たちは貪欲に戦略を使うものです。それほど、痛みや苦しみを敵対視しているということです。

人生とはそうしたことの繰り返しです。気持ちよくなるものや欲しいものを求めて、苦痛や都合の悪いものを遠ざけることの繰り返しです。

苦しみや痛みを遠ざけようとするだけではなく、それを乗り越えようとすることも戦略として持っています。

それが成功すると、遠ざけることでは決して得られなかった充実感や達成感、それに自己評価が高くなるというおいしい思いを手に入れられるからです。

しかしそれは、都合のいいものを手に入れたいという願望と何ら違いはありません。その証拠に、しばらくするとまた苦悩は訪れてきます。

苦しみを遠ざけようとせず、さりとて乗り越えようともしないでいるという選択肢があるということに気づくと、人生は違ったものに見えてきます。

それは何事とも闘わないということです。その苦痛をただそのまま見るということです。どんな戦略も使わないということです。

何であれ、それを乗り越えるということは闘いであり、乗り越えた喜びに浸っている間は、これが幸せだと錯覚すらできますが、しばらくすると化けの皮が剥がれてくるのです。

そうすると、またあの喜びを手に入れようとして無意識的に苦しみをでっち上げることになり、そうやって次の戦いにまた巻き込まれて行くのです。

この終わりのない戦いが、外側に投影されたものが人類の戦争に違いありません。戦争をやめるためにも、一人ひとりが苦しみを乗り越えるのをやめることが必要なのです。

真実を少しだけ知ることはできない

夕べは久しぶりに両親と家内とで外食をして、帰宅してからしばらく4人で話し込んでいたのですが、ほんの少しだけこのブログで日々綴っているようなことを話してみたのです。

結果は、惨敗ですね(笑)。災害などが来そうだということで、不安な気持ちがあるらしいので、少しでもそれを解消してあげられたらと思ったのが間違いでした。

やはり、私たちの本当の姿について、どうやっても伝えることはできませんでした。家族が相手だと、お互いに甘えが入るせいか、とても難しいと感じます。

自己探求というのは、今まで培ってきた様々な知識の上に、また一つ大切なことを追加するということでは全くないのです。

真実とはそういうものではありません。あの人はピアノが得意だけど、この人は科学に詳しい、というような類のものでもありません。

真実に詳しい人など、この世界には一人もいません。真実のエキスパートだとか、真実を伝える人というのも本質的にはいません。

なぜなら、真実とは言葉で伝えることのできるようなモノではないからです。真実について、少しだけかじっているとか、あの人よりは知っているなどという比較も無意味です。

真実は全体性であって、部分的に理解するということはできないからです。人生の中で、真実を垣間見るチャンスというのは、きっと誰にでもやってくるはずです。

それは、お金持ちになるチャンスやノーベル賞を受けるチャンスがやってくるということとは、全く違うのです。

真実に気づくチャンスがやってきても、それに気づかずにいる人が沢山いるというのも事実かもしれませんが、それはそれでいいのだろうと思います。

そう考えると、家族は家族の生き方を自ら選んでいるわけだし、自分は自己探求に熱烈なエネルギーを持っているというだけなのですから。

誰がどんな人生をどう生きようと、それらすべてが真実という器の中で育まれて推移しているだけなのですから。

真実は決して学べない

私たちの人生を通して、一貫した一つのテーマとして、何かを手に入れるということがありますね。それは、必要なものだったり、欲しいものだったり…。

その中には、物質的なもののほかに、情報として学習していくことも含まれています。知らないことを知ろうとする人間の知識欲というのはすさまじいものがあります。

誰もがかつては、毎日学校で、来る日も来る日も授業を受け続けたことを思い出すと、何であそこまで詰め込むのかと言いたくなるほどです。

成人する前後まで学業を通して学習し、また家庭や学校の生活での経験から様々なことを学習して大人になっていくわけです。

知るということについては、ただ知識を身につけるというだけではなくて、物事を理解していくということにも重点が置かれるのです。

そうやって学習することは一生続いていくのですが、そのことは人間に与えられたすばらしい能力であることは間違いありません。

しかし、そうした日常があまりにも当たり前になってしまうことで、私たちはどんなことでも時間と労力と熱意によって学んでいくことができると思い込むようになるのです。

残念ながら、本当に大切なこと、それはつまり真実のことですが、それだけは決して学習することができないものなのです。

なぜなら、学習して身に着けるということは、それが対象として存在するということが前提なわけですが、真実とは決して何かの対象ではないからです。

私たちは衣服や肉体をまとうことはできますが、私たち自身をまとうことは決してできませんね。つまりは、真実とは私たちの真の姿であると言ってもいいのです。

真実とはこうだと教えてくれている文献、経典や聖典などは沢山あるのですが、そういうものを何百年学習しても真実を知ることはできません。

真実は決して学ぶことができないということを認めるには、もしかしたら勇気がいるかもしれません。なぜなら、私たちは自分たちの理解力で何とかしたいと思っているからです。

私たちは勇気を持って、知らないことを知ろうとする長年親しんだやり方を一時的に放棄する必要があるのです。

本当に大切なことは、手に入れることができないと同時に、身に着けることもできません。いつも最も身近にある本当の自分を取得することは不可能だからです。

そして、知らないという地点にただ何もせずにいることです。その時にこそ、きっと知らないのではなくて気づいていないだけだったと知ることになるはずです。

二種類の土台

私は二十二年間の会社員生活を途中でやめて、今の仕事に就いたわけですが、サラリーマンの頃は会社を辞めて独りで何か仕事ができたら夢のようだろうなと思っていました。

そしてその願望はどういうわけか、全面的に叶ってしまいました。そういう経緯を思い返すと、確かに今の生活は夢のようです。

ところが、どうしたわけか、最も望んでいた夢が叶ったのに、何とも心の底からの幸福感を感じることができませんでした。

それに気づいたときには愕然としたものです。それは、セラピストの仕事をするようになって、慣れない仕事に自分が馴染んできて、収入も充分なものになったときに気づいたのです。

何かがおかしいと。長年の願望が叶っただけではなくて、心の癒しも進めてきて、もう幸せいっぱいになるはずだったのに…。

自分に正直になると、そうでもないと言わざるを得ませんでした。これは本当に謎でした。それで、自分のやっている仕事にも疑問を感じるようになったのです。

結論から言うと、人は至福という土台と、苦悩という土台の二種類の足場のどちらかの上に立っているということに気づいたのです。

そして、その足場が苦悩という土台であるならば、人生の中でどんなに願望が叶おうが、それはやはり苦悩を感じて生きることになるのです。

願い事が次々と叶ったとしても、一般的な心の癒しをどれほど進めていったとしても、この土台が苦悩から至福へと変わらなければ、本質的には人生は同じものなのです。

従って、自分が今どちらの土台の上に立って生きているかをまず見極めることが大切です。そして、もしも苦悩という土台の上で生活しているのなら、それを変える必要があります。

このブログを読んで下さっているみなさんなら、もうお分かりかと思いますが、苦悩を至福という土台に変えるためには、自分の本質の姿に気づかねばなりません。

自分とは一体何なのかという真実に気づくことなしには、至福の土台の上に立つことは不可能だと知ることです。

そして、自分の本質に気づくことができれば、たとえ人生が過酷なものであろうと、痛みがたくさんやってこようと、土台としての至福は微動だにしません。

私たちが本当に求めているものとは、そうした至福という土台の上に立つことであり、それはなにものにも影響されない奥深い心の平安を手に入れることなのです。

今年こそは、努力することなしに、みなさんとご一緒に自己探求の年にしていきたいですね。

視点のシフトは画期的な変容をもたらす

私たちは、幼い頃から努力しただけ成果が出るし、そうすることにこそ人間としての価値があるということを教えられて育ちます。

確かにそれは大切な教えかもしれません。自分の願望を達成するために、それなりの努力を惜しまない生き方というのは、素晴らしいと思います。

しかし、どんなことでも常に努力をしなければ、何事も達成できないということに縛られてしまうと、楽をして手に入れることを否定することになってしまいます。

つまり、あまりにシンプルで簡単なことは、容易に実現してしまうので、あまり価値を見出すことができないということになるのです。

こういったことは、考えるということをベースにした信じ込みであるということに気づく必要があると思います。

人生において、本当に大切なことはたった一つ、自分は何者なのかということに気づくことです。間違った思い込みで自分というものを認識している限り、何を為し得たとしても結局意味がないからです。

本当の自分とは誰かということに気づくためには、実は努力など一つもいらないのです。もしかしたら、その気づきは神の恩寵によってもたらされるのかもしれません。

最も大切なことに気づくために、我々が慣れ親しんだ努力と時間を投資するということが、全く必要ないというのはなんと皮肉なことでしょう。

それはほんの一瞬のちょっとした視点のシフトによってもたらされるのです。この人生という物語の中で、前線部隊の兵隊のようにして生きてきた人にとって、それ以外の生き方があるという気づきはまさに青天の霹靂かもしれません。

しかし、本当の自分とはその人生の登場人物ではないのです。ただただ、そうした自分を見る側にいる自分、その視点があるということに気づくチャンスは必ずやってきます。

それに気づいたときに、人はどんな努力も必要としないで、ゆるやかに変容していくことができるのです。それは、まさに奇跡ですね。

それまで、どれだけ頑張ってよりよい自分になろうと頑張ってもどうにもならないままであったものが、ただ視点が変わっただけで変化は起きてくるのです。

そのチャンスは、きっと誰にでも訪れるはずです。多くの人に、そうしたチャンスがやってきているように感じるのです。本当にいい時代に生まれたと思います。

輪廻転生について一言

私はセラピストの仕事をするようになって、私の個人的な好みを別にしても、過去世を見たいという人向けに催眠療法を沢山やってきました。

その結果、人には現在の人生とは明らかに異なる人生、それも多くは過去における人生の記憶があるということが分かりました。

その記憶が本当のものだということを証明することはできないのですが、私自身の過去世の記憶も含めて、なんらかの過去の人生の記憶というものがあるということは間違いありません。

しかし、そのことと輪廻転生ということとは必ずしも同じものであるということにはならないというのが、私の個人的な見解です。

というのも、輪廻転生のベースには、魂というものの存在を認めなければならないからです。つまり、ある人が死んだ後、その人の魂が肉体から離れて、また別の肉体に宿るということを繰り返していくのが輪廻なわけです。

しかし、魂の定義の詳細は分かりませんが、個であることは確かです。この魂とあの魂という具合に、個別性があるのですから。

私の感覚では、純粋な意識が、とある肉体とそれを同一視することで、「私」という想念が作られるように思っているので、肉体が消滅すれば自ずと「私」という個別性も消えていくはずです。

肉体がなくなった後の個別性とはどんな意味があるのでしょうか?私には魂の存在する余地を考えることができないのです。

仮に、私の肉体が滅んだ後に、私という個別性が残っているとしても、私は身体がなければ自己防衛を続ける理由がまったくなくなるので、完全なる無防備の状態になれるはずです。

そうなると、自動的にエゴは消えうせて愛の状態に戻るため、個としての想念は完全に消え去ることになるはずです。(もっとも、肉体の消滅からエゴの消滅まで、若干の時間がかかることはあるかもしれませんが。)

だとしたら、過去世の記憶とは一体なんだろうかということになるのですが、私は個人的には次のように考えています。

この宇宙のすべてのシナリオの源には、あらゆる鉱物、植物、動物、そして過去から現在に至るあらゆる生の経験の記憶が詰まっています。

そのシナリオの一部として、ある人が生まれて人生がスタートするときに、膨大な生の記憶のいくつかがセットされるのではないかと。

それらの生の記憶がプリセットされると、新たな人生において何らかの影響を与えるように働くことになるのだろうと思うのです。

歴史上の有名な人物の生まれ変わりだという人が、同時に複数いることがあったりするのも、このように考えれば説明がつきます。

勿論、所詮は私の理性が考えていることなので、真実とは程遠いのは間違いないですが、いろいろな解釈を持っていてもいいのかなと思っています。

とにかく、私の肉体が消滅したら、この私にまつわるあらゆる一切合財が完全に消滅すると思いたいのです。魂はおろか、ほんの少しでも何かが残存するとは決して思いたくありません。

自由であるために必要なこと

今年に入ってすぐの事だったと思うのですが、オーム真理教元幹部の容疑者が自首して逮捕されるということがありましたね。

突然のことでその記事を見たときには、意外な感じがしました。どういういきさつで自首することになったのかは分かりませんが、逃亡生活17年(?)というのは大変な束縛だったはずです。

一見すると、捕まって留置場に入れられているよりは、自由があるんじゃないかという気がしますが、よく考えて見るとそんなことはないと分かります。

自由とか不自由、つまり束縛というのは物理的なこともさることながら、心理的な要因の方がはるかに大きいのではないかと思うからです。

監獄に入っているのは、外に出られないという点では束縛されていますが、何からも逃げずにいることができるという点では、圧倒的に心は自由なはずです。

そういう観点で見れば、私は逃亡生活ほど心に堪(こた)えるものはないのではないかと思います。常に捕まらないように注意を払っていなければならないのですから。

ところで、逃亡生活というのは、何も、逃げ続けている容疑者に特有のことではなく、私たち一般人であっても心理的逃亡を常にしている可能性があるのです。

一体何から逃亡しよう、あるいは逃亡しているのかと言えば、それは自分にとって恐ろしいもの、とても正視したくないようなもの、などです。

もしも、私たちが何からも逃げずに、日々何がやってこようとただそれをありのままに迎え入れることができるのなら、これほど自由な人生はないはずです。

実際、私たちが感じるあらゆる苦悩というのは、何かから逃げようとすることが原因であると言ってもいいのです。従って、自由である人とは、苦しみとは無縁なのです。

自由であるとは、あらゆる痛みに背を向けずにいること、傷ついてもいいという思いでどんなものにも対峙することでのみ、得られるものなのですね。