思考は意識ではない

誰しも物心ついた頃には、もうすでに自分は身体だと信じてしまっていたわけですから、この洗脳を払拭するのは大変だとの思い込みを持っています。

しかし、何かしらの目覚め体験をすると、一瞬にして自分と身体はまったく関係なかったと気づくものなのでしょうね。私はそういう体験をしたことがないので、分かりませんが…。

ところで、自分は身体ではないということが明確になったら、自分とは一体何なのだろうかと探求すれば、それはすぐに意識であるに違いないと分かります。

意識と身体では、まったくもって通ずるところがないですね。それなのに、その二つの認識が同時に私の心の中にあるということが今もって不思議でなりません。

ただし、この自分とは意識だという認識ですが、よ~く見つめてみると、どうも思考と混同しているようなところがあるかもしれないと気づきます。

ここは明確にしておかなければならないと思うのですが、意識と思考は全く異なるものですね。思考や感情と自分を同一視している人は、この辺りをざっくりと見ているふしがあります。

思考も感情も、意識の上にでっち上げられたものに過ぎません。ちょっと細かく言えば、思考は往々にして感情を発生させます。

思考について追い詰めていくと、思考の主な役目は自己防衛だということが分かります。したがって、その自己防衛の成功不成功に応じた感情が生まれることになるのです。

私たちは身体ではないばかりか、思考でも感情でもありません。意識の上に思考や感情が渦巻いている経験が豊富なために、思考や感情と意識を混同してしまうだけなのです。

思考も感情も伴わない状態でも当然意識はあります。その意識に注意を向けていると、それこそが全体性をもった私たちの本質であるということを感じることができます。

しかし、意識とは本当に謎ですね。この世界のことで、最も理解できないものの一つが意識であり、それこそが真の私たちの姿だというのも皮肉なものです。

死について真正面から見据える その2

昨日のブログを読み返していたら、関連することで少し書いて見たいことが出てきました。それは、自分は死を目前にしたときに、どんなふうになるのかなということです。

死ぬ理由はともかくとして、それまで生きてきた人生を振り返ったりするのだろうかと想像すると、そうした真面目な自分をイメージすることがイマイチできません。

よく、人は死ぬ直前に、過去を振り返って、もっとこうしておけばよかった、ああもしていればよかったと後悔すると言われます。

そして、そういうことがないように、毎日を精一杯生きるべきだと言われたりしますね。確かにだれも取り返しのつかないことを後悔するのはいやですから。

しかし、よくよく考えて見ると、死んでしまえばすべては終わりです。完全なる終焉です。これほどの真実はありません。

真実というのはいつも冷酷なまでに無情なのです。どれほど、もがいて抵抗しても絶対にどうしようもない終わりがやってくるのは何よりも確実です。

それならば、一体何を悔やむことがあるというのでしょうか?完全なる終焉という事実を心の底から迎え入れるなら、そこには何もないのではないかと思うのです。

それは、悔やもうが悔やまずにいようが、そんなことはぶっ飛んでしまうくらいの絶対的な終焉なわけですから、これほど小気味いいことはありません。

それこそ、何も残らないのです。きっと、そのときに自分は人生で何も所有していなかったということに気づくと思うのです。

ただ始まったものが終わりを迎えるということ、ただそれだけなんだなと思えるような気がします。それこそ何もない静寂に包まれているような、静かで安らかな気持ちになれるのかなと…。

そうだとしたら、それは肉体の死を待つことはないと分かります。そう、今この瞬間にもその気持ちになることはできるはずです。

あらゆるコントロールを放棄して、すべての終焉と同様に、精神活動を停止すればいいだけのことです。すべての闘争をやめて、ただあるがままに在ればいいのですね。
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死について真正面から見据える

まだ娘が幼いころに、寝かしつけてしばらくしてから、寝たはずの彼女が起きてきて、泣きながら「お婆ちゃんが死んだらどうしよう?」と言って訴えてきたことが何度かありました。

寝ようとしているときに、ふと大好きなお婆ちゃんの死というものを意識して、ものすごく怖くなってしまったのだと思います。

私の母は当時いたって健康でしたので、なぜ娘がそのようなことを急に訴えてきたのか不思議な気がしたものです。

彼女の場合は、自分の死ではなくて大好きな人の死についての恐怖だったわけですが、それでも大切な人を失うという想像は、幼い子供にとっては自分の死と同等くらいの怖さを感じたのでしょうね。

私自身も小学生のときに、何となく死ぬということについてとりとめなく独りで考えていたら、何だか真っ暗な奈落の底に落ちていくような恐怖にかられたことがありました。

そのとき、母親に向かって「死んだらどうなるの?」と恐怖を露にしながら聞いたのですが、きっと顔面蒼白になっていたように覚えています。

母親は、自分の息子が何だか思い詰めたような態度で、真剣に死について聞いてきたので、「そんなこと考えなくていいの!」という言葉で包んでくれました。

本当はそんな言葉では勿論納得などしてないはずなのですが、何か母親に大丈夫だからと受け止めてもらえたような気がして、安心したのを記憶しています。

そのときの死に対する恐怖感が自然消滅したはずはありませんので、今でも心のどこかに隠し持っているのは確実です。

しかし、いくら捜してもそれを今見つけることは無理のようです。そのくらい、自分にとって二度と体験したくない感情だったということですね。

人はそのようにして、無意識的に死の恐怖を封印してしまうのです。よほど、身近に危険が迫ってくるような環境であれば別ですが…。

死ぬということにまつわる話題ですら、あまり人はいい顔をしないものですね。本質的には、私たちの誰もが死と隣り合わせの生を生きているというのに。

生きることと、死ぬことを同じくらいに意識の中で位置づけておかなければ、それは本当に生を楽しむことのできない人生になってしまうと思います。

なぜなら、それはやはりご都合主義だからです。都合のいいことも悪いことも、それらを丸ごと同じようにして受け止めることでしか、自由を得ることはできないのです。

本当の自由は、何事からも目を背けずにいることができなければ、すぐにどこかへ行ってしまいます。エゴの自己防衛こそが、自分を束縛する根本原因だからです。

肉体を自分だと思っている個人としての自分が死ぬ前に、是非とも本質の自分への気づきと共に、「私」という想念の死を迎えたいと思っています。

誰もが自分という意識

昨日、空いた時間に何とはなしに自分以外の人がいるって何だろうと思っていたら、ふとある考えが浮かんできたのです。

そのことについて、書いてみようと思うのですが、文章表現能力の問題でまったく意味不明になるか、あるいは当たり前過ぎる内容になってしまうかもしれません。

それでも誤解を恐れずにチャレンジしてみようと思います。突然ですが、輪廻転生があるとしたら、過去生における自分という存在がいたわけです。

その過去生の自分と今の自分とは、DNAも違えば育った環境も違うし、何一つ共通であることはないはずなのに、それでも自分だとどうして言えるのか。

沢山の過去生があって、沢山のそれぞれの人生での自分がいて、互いに時間がずれているために同時には生きていなかったということです。

だとしたら、なぜ今同時に生きている自分以外の70億の人たちだけは、他人だということが言えるのでしょうか?

いや、言えないのではないかと思うのです。なぜなら、今生きている他人と自分の違いとは、やはりDNAや育った環境が違うという点で、過去生の自分と同じわけですから。

誰かと自分の違いとは、肉体、つまりDNAの違いと育った環境の違いによる体験の違いであって、意識そのものにはバリエーションなどないと思うのです。

意識そのものに一体どんな違いがあるというのでしょうか?意識とは何かということがまったく謎に包まれている以上、本当のことはわかりませんが、それでも直感的に意識は意識でしかないと感じます。

ただ、その意識が肉体とその体験というバリエーションと手を繋いだときに、違う人間だということになるだけなのではないかと。

自分のことを身体ではなく、意識だといつも見ているためにこのような感覚がやってきたのではないかと思います。

意識とは、思考や感情ではなく、そうしたものが現れては消えていく土台なのです。その土台である意識は、きっと70億人を串刺しにして貫いているものなんだろうと。

誰もが同じ自分という意識なのだということですね。

今に意識を向け続ける方法

この半年くらいの間、ずっと過去からやってくる想念(私の場合には思考がそのほとんどですが…)に、巻き込まれないように心がけて生活してきました。

それは単に思考に巻き込まれないためにというよりも、なるべく今この瞬間に在るということへ注意を向けるということを意味します。

当然のことながら、今だに完全とはほど遠い状態ではありますが、そのいくつかの方法について書いてみたいと思います。

一つ目は、今現在の自分のことを見続け、自分で自分に実況中継してあげるというものです。具体的には、以下のようなやり方を使います。

心の中で、「今自分は井の頭通りを歩いている」とか、「今信号待ちをしてイライラしている」という具合に、そのときそのときの自分の行動や心の状態を自分に伝え続けるというものです。

これはヴィパッサナ瞑想という名前で親しまれているかもしれませんが、この方法は特に外出したときに効果がありました。

二つ目は、「私」という意識そのものに意識を向け続けるというものです。集中するというわけでもなく、さりとてボーっとしてしまうということでもないのですが、ただただ自分の意識にそれ自身が気づいている状態にするのです。

この方法は、静かに瞑想しているときにも使うのですが、大切なことは瞑想をしているいないに係わらず、あらゆる場面においてなるべくできるようにすることだと思っています。

三つ目は、二つ目を続けていると自動的にこの状態に移行するのですが、意識の全体性に注意を向け続けるというものです。

この方法は、確実にドーンとその感覚になれるわけではなくて、きっと調子のいいときにそれがやってきてくれるのだと思います。

そして四つ目は、ダグラス・ハーディングさんの実験方法によって体得したものですが、目を開けたままで頭(顔)が馬鹿でかく拡大した感覚になるものです。

この方法は、今この瞬間に刻々と変わる、見えているもの自体が自分の内側あるいは自分自身だという感覚になるものです。

またこうしたいくつかの方法を重ねて実践している場合もあります。今はまだ、どれか一つに集約されていく段階までは至ってないようです。

いずれにしても、こうした方法を常に心がけて実践し続けることによって、日常的などの場面においても、今この瞬間に意識を向けていることが可能になるはずです。

そして、自分がこの人生のストーリーの中で活躍する個人としての側面を、愛を持って見ることができるようになればと思っています。

傷つきたくないという思いが傷をつける

以前どこかで書いたことがあったと思うのですが、小学生の頃に塾に通っていたときのことです。確か夜9時に塾が終わって帰る途中、何かが自分の後ろから影のようについてくる気がして、怖くなったことがありました。

通りには人影もまったくなくて、怖くてどうしようもなくなったのですが、だからといって立ち止まって振り向いて確かめる勇気が出ません。

結局、意を決して全速力で走って逃げ出したのですが、そのときの恐ろしさといったらなく、恐怖で足の裏が地面を蹴っている感覚がなくなったくらいです。

後で思い返したときに気づいたのですが、逃げれば逃げるほど恐怖は大きく膨らむものなんだということでした。

私たちは恐怖や罪悪感、そしてそれ以外のあらゆるネガティブな感情から逃げるようにプログラムされています。その根っこは生存するための生物としての本能ですね。

しかし、私たち人間だけがその本能にかこつけて、それ以上の心理的プログラムを持ってしまったのです。それは必要以上に痛みや苦しみから逃げようとするプログラムです。

残念なことに、そのプログラムによって自分を守れるのはほんの一過性のことであって、少し長い目で見れば、逃げれば相手は必ず自分を目掛けて追ってくるものです。

シンプルに表現すれば、自己防衛ほど自分を痛めつけるものはないということです。人生という戦場で繰り返し自己防衛した経験によって、私たちはこうしたことを実は自覚しています。

もう自分を過度に守るのはよそうと思うのですが、やっぱり怖くてその決意は長続きしないのです。無防備になって愛に心を開こうとしても、なかなか難しいのです。

それは、傷つきたくないという強烈な思いを持っているからです。そして、これこそが、自分を傷つけることになるという皮肉をいつも忘れてしまうのです。

傷つくことを恐れない人こそ、本当に強い人だと誰もが思うのですが、本当のところはその人は傷つかないという結果を知っている人なのです。

荒れ狂う海の上で今にも沈没しそうな船にしがみついている人が一番恐怖を味わっているのです。思い切って海の中に飛び込んだ人だけが、そこには平安があったことを知るのです。

瞑想的な生き方の実践

最近では、瞑想をすることについてごく普通に語られるようになったと感じています。以前なら、何か宗教的な修練のような、特別な行為のような捉え方をされることが多かったはずです。

そのように誰でもが気軽に瞑想をするようになるのは、とてもいいことだと思います。そして、その目的も人によって様々あっていいのでしょうね。

ただ、心を穏やかで静かな状態にしたいということもあるし、身体をリラックスさせるということもあるでしょう。あるいは、禅僧のように瞑想している我を無くすことを目的としている場合もあるかもしれません。

どんな目的であれ、瞑想をしない方がいいと感じる人は少なくなってきているのが実情でしょう。私自身が、今現在瞑想に求めるものは、やや一般的ではないかもしれません。

それは、そもそもある一定の時間、例えば30分とか一時間程度の時間をとって、わざわざ瞑想して何か特定の意識状態になるということを目指しているわけではないということです。

それが仮に、相当に深くて頂上的な体験であったとしてもです。そのことはただすばらしい体験であるということで、瞑想が終わったらまたいつもの自分に戻ってしまうものだからです。

瞑想中に何かすばらしいものを期待するのは、やめることにしました。その代わりに、朝から晩まで出来る限り継続して今この瞬間の意識に注意を向けることにしたのです。

それこそが瞑想的に生きるということです。どんなにすばらしい体験であっても、それが一過性のものであればあまり役に立つことはないからです。

しかし、ごく普通の生活の中で、今の意識に注意を向け続けるのは相当に難しいことなのです。特に、能動的に何かを読んだり人と会話したりしているときには。

そのために、瞑想という、ある程度外側からの刺激が少ない状態を利用してその練習をすることによって、そのように注意を向けることに慣れていくことができるのです。

そうした瞑想の仕方をすることによって、瞑想の時間が終わって日常の生活に戻った時にも、変わらずに今に意識を向け続けることができるようになるのです。

こうしたことは、瞑想とは無念夢想になることが唯一の目的だとの強い決め付け(思考)に囚われていると、受け入れることができない場合があるかもしれません。

瞑想的に生きる、今この瞬間の意識に注意を向け続けるということ、このことをこれからも継続して練習していけたらいいなと思っています。

願望実現のための本に一言

願望実現の方法について書いてある本というものがたくさんあるようですね。そして、そうした本はやはり売れ行きもいいのかもしれません。

ひところ流行った引き寄せの法則のような本などもベストセラーになったのでしょうし、それは当然のことだとも思います。

誰だって、自分の願望が現実となったら嬉しいし、それが続いてくれたらきっと幸せになるに違いないと感じるはずですから。

昔、受験生のころに何かで読んだのですが、希望の大学に合格するためには、それを祈願するのではだめで、合格したという気持ちで勉強するのがよいというのがありました。

合格を願うと、合格していないことがイメージに刻印されてしまうため、その通りの現実がやってくるというわけです。

だから、もうすでに合格した自分が、学校のキャンパスを友人たちと一緒に笑いながら歩いている風景を思い描くのがよいということでした。

これは確かにその通りだと私も思います。何かを手に入れたいと思えば思うほど、手に入っていないという印象が強く残ってしまうのですね。

現実を作っているのは自分自身であるので、こうしたことは真実だと私も思います。しかし、一つだけこうしたことに同意できない部分もあります。

それは、願望が実現したら幸福になるに違いないという間違った思い込みです。誰しも、三畳一間の薄暗い安アパートよりも、日当たりのよい高級マンションで暮らす方がいいに決まっています。

そして、そうしたグレードアップが実現したら、それは本当に幸せを感じるはずですね。でもその感覚はきっと一過性のものなのです。

願望というものは、それが叶ったら次々と別の願望が現れてきます。そしてそうしたことがすべて叶ったとしても、自分が何か苦悩の上に立っているということに気づいて愕然とするのです。

どんなに快適な暮らしが手に入ろうとも、心の癒しを進めて心理的にも物質的にも豊かさを手に入れたとしても、土台は変わらないのです。

それをとことん実感したとき、とても大きなチャンスがやってきます。つまり願望実現よりも大切な何かに気づくときが来ると言うことです。

そこから本当の意味での自己探求が始まるのかもしれません。

鏡に映った自分の姿は…

スピリチュアルなことに傾倒している人がよく言う言葉として、「私たちの本質とは、魂が肉体を纏(まと)っているのだ。」というようなものがありますね。

要するに、この身体は着ぐるみのようなものであって、本当の自分はその中に入っている魂なのだと。だから、死んだときにはその着ぐるみを脱いで、魂としての自分は次なる世界へと旅立つのだと。

自分を他人が見るように、外側から見たら確かに身体なのですが、自分を自分自身として見れば意識であると分かります。それが魂と言えるのかどうか、私には分かりませんが…。

ミッキーマウスを捕まえて、着ぐるみを剥いでしまえば中にいる誰かを見つけることができますが、私の身体をいくら切り刻んでも、誰にも本当の私を見つけることはできません。

なぜなら、私は決して身体を纏ってなどいないからです。私は身体の中に入っている「何か」ではないからです。

そのことをいい加減にしておくのではなくて、もっともっと明確に意識することが自己探求に繋がるのですね。

鏡に映った私の外見は、最近では少し老いも入ってきて可哀想な感じもするのですが、あれは決して本当の自分ではないという確信が出来てきました。

もっと正確に表現すれば、あれは私自身の外見ではなくて、単に他人が捉えることのできる唯一のこの身体の姿であるということに過ぎません。

私には、そもそも外見などはないという気づきがあります。他人から見た姿と、意識としての自分というものがあまりにもかけ離れていることは、本当に驚くべきことです。

こんなにも違っていていいんだろうかと。鏡の中の彼はあと数年で還暦を迎える年齢なのですが、意識としての自分には全く年齢がありません。

意識というのは本当に不思議なものであり、例えようのないものですね。それこそが自分なのですからこれほど不可解なことはありません。

過去の何かを思い出したときには、その時点を生きていた人物としての自分が出てきますが、そのときにも今意識できる私もそこにいたことをはっきり思い出すことができます。

結局、意識としての私は過去のいつ如何なるときでも、今と全く変わらずにいたということです。この先も、鏡の中の彼がどれほど老いぼれていこうが、意識としての私は今と同じなはずです。

つまり意識には時間の入る余地がないのですね。この感覚というのは、個人としての自意識ではなくて、今この瞬間に注意を向けている意識についてのみ言えることです。

この意識という気づきにのみ、注意を向け続けている限り、そこには何の変化も見い出すことはありません。たとえ、鏡の中の彼が死んだとしても。