セラピストの役目とは

セラピストの仕事というのは、クライアントさんが抱えている様々な悩みや問題をお聞きして、一緒になってそれを解決していくお手伝いをするというものです。

解決とは言うものの、私たちが一般的に連想するようなものばかりではありません。問題がなくなる場合もあるし、問題を何とも感じなくなるということだってあるのです。

それは他の言葉を使えば、問題を開放する、あるいは問題を手放すということでもありますね。物理的な解決の場合もあれば、内的な解決の場合だってあります。

電車に乗ると冷や汗と動悸がひどくなってしまうという症状が治るとか、自己表現が出来なかったものが、ある程度は本音を伝えられるようになるなど…。

ときには、肉体の不具合として表面化していた症状が、収束に向かうというようなこともあります。何であれ、改善していくことは嬉しいことです。

けれども、ここにとても大きな罠が潜んでいるのです。懸案となっていることが、改善していくことはすばらしいことですが、それは本質的な変化ではない場合がほとんどなのです。

つまり、何か際立った問題がなくなったとしても、今度は他の問題が浮き彫りになっていくということがあるということです。

本質的な問題というものは、それがどのように現象化していたのかに係わらず、見えないところでずっと内在しているのです。

これが、エゴの最大のトリックなのです。私たちは、表面化した問題が治っていくと、頑張った甲斐があったなと、改善したことを喜ぶのです。

しかし、その実態はといえば、また別の問題が噴出してくるというように、形を変えてやってくることになるのです。

私たちが自分を何とかしようといくら頑張ったところで、そこでの変化は表面的なものに過ぎないということをいつも忘れないことです。

自分のことを、ある「人物」だと信じている限りは、エゴのトリックにやられたままなのです。したがって、セラピストの本当の役目とは、クライアントさん自身が、自分とは何か?ということに気づいていく手助けをすることなのです。

日本への熱き期待 その2

昨日は、「日本は、物質的な貪欲と暴力から人類を解き放つ、唯一の希望を担うだろう。日本は、世界を平和と繁栄の黄金の未来へと導くことが出来る!」という osho の言葉を掲載しました。

日本そして日本人が、今の人類に対して担っている役割はとても大きなものに違いないと感じている人は、他にも多数いるのかもしれません。

osho は、日本の古くからの伝統である「禅」、つまり光明を得た禅師たちにその根拠を見出していたのです。

禅師という特別な存在の覚醒した意識が、我々のような一般人、ごく普通の日本国民の意識へと波及することになるだろうと見抜いていたのだと思います。

だからといって、必死に何かをしなければならないということではありません。その波は、確実にしかも自動的にやってくることになるはずだからです。

誰にもそれを止めることなどできません。それは、真実なのですが、私たちの誰もが心がける必要があることはあります。

それは、韓国や中国の理不尽とも言える言動に反応する心とは別に、各自の心の深淵へとできるだけ意識を向けるということです。

今こそそのチャンスがやってきているように感じます。外側の世界の混沌とは対極の静寂と広がりに、なるべく注意を向け続けることです。

今世界中で起きている様々な出来事を見ていると、その波が押し寄せつつあることを感じざるを得ません。とてもとても貴重な時代に生きているとしか思えません。

そして、これからの近い未来において、日本人の多くの人たちの意識の目覚めが、全世界の人々の意識の覚醒を促すことになるのではないでしょうか。

日本への熱き期待

日本の隣国である韓国や中国との間が、なにやらきな臭いことになってきましたね。中国国内で起きている大規模な反日デモは、あちこちで暴徒化しているようです。

勿論、中国国内ではそんなことはニュースにはならず、整然としたデモ行進ばかりを放映しているのですが、実際は世界中の人々が中国人の卑劣な暴力に目を注いでいるのです。

日本がこれからどのように世界の中での役割を果たしていくのか、非常に注目すべき大転換期がやって来たのだと感じます。

こんなときに、いたずらに危機感を募らせるばかりではなく、20数年前の osho の言葉に目を向けて見るといいと思います。

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<OSHOの言葉、プレス・リリースより> (1989,1,16)

日本は今や世界の超大国だ。危機に満ちたこれからの数年間、アメリカの世界支配が造り上げて来た物質的な貪欲と暴力から人類を解き放つ、唯一の希望を日本が担うだろう。代わって日本は、世界を平和と繁栄の黄金の未来へと導くことが出来る!

世界は日本に注目している。日本は、この大いなる責任を引き受けて立ち上がるべきだ。光明を得た禅師達という日本の黄金の過去こそが、新しい夜明けへと世界を導く、洞察、責任、慈悲を、日本に与えるだろう。

全世界の遺産相続を、生まれながらの権利として主張する「ニューマン(新しい人間)」を創造する上で、日本において東洋と西洋が出会うことが出来る。日本に今必要なのは、創造性、自発性、反逆精神という、本来の面目を取り戻す20世紀の禅革命だ。

日本人のマインドは不幸なことに、もっとも規律を課せられたマインドのひとつに留まっている。そして、その規律の中で、全ての自発性と創造性が死んでいる。日本では自殺率が世界でもっとも高いのも偶然ではない。緊張があまりにも強いので、圧力と緊張のもとで生きるよりは、自殺する方がたやすいようだ。そして、この圧力と緊張は非常に尊ばれているので、それに反抗する者はひどい非難を受ける。だから、日本には反逆者が存在しない。反逆そのものが、日本ではまだ知られていない。

日本に必要なのは、「ニューマン(新しい人間)」の誕生へと向けて人類を導くことが出来るよう、その創造性と反逆と意識を再び開花させることだ。私がロナルド・レーガン政権下のアメリカで不法に逮捕され、毒を盛られた時、最初の抗議は日本の禅院から出された。これは私に、日本の生きている禅の本当のハートはまだ命脈を保っていて、再び鼓動し、人類の新しい夜明けの先駆者となることが出来る、ということを示してくれた。

マインドからの開放

人は何もしないではいられません。どれほどの怠け者であっても、とんでもない面倒臭がりやであろうと、ずっと何もしないでいるということは、まずできません。

それは、マインドが動いているからです。マインドは、片時もじっとしていることができずに、常に何かを思考したりして、せわしなく働いているのです。

なぜなら、それがマインドの根本的な性質だからです。マインドは本当にその動きを止めてしまうと、時空から開放されてしまうかもしれません。

それはマインドにとって、とても危険な状態となってしまいます。この世界にいられなくなってしまうことになるからです。

マインドはただ動いているだけではなくて、何かを達成しようとしたり、成果を出そうとして頑張らせようともします。

だからこそ、私たちは絶えず何かを計画して、今よりももっといい自分になろうとしたり、もっと豊かな生活を目指して頑張ろうとするのです。

しかし、私たちが何をしようとするにしても、マインドの命令に従っている限りは、本当の平安を手に入れることはできません。

本当の平安とは、マインドの動きから開放されることを意味するからです。これが、マインドのジレンマなのです。

何もしないでいることはできないし、逆に何かを目指して頑張ってもマインドの虜であることには変わりないということです。

それでもたった一つだけ、マインドの働きを利用しつつマインドから抜け出る方法があります。それは、自分は決してマインドではないという感覚を繰り返して感じるように務めるのです。

それが、「自分は在る」の感覚です。自分は○○であるとか、自分の○○、というような感覚を使わずに、ただ自分は在る、だけを意識するようにするということです。

それができると、自然とマインドの動きから離れていくような、とても心地のいい状態になることができます。繰り返して練習することが必要ですね。

この宇宙(自己)の不思議さには降参です その2

昨日の続きです。

私たちは、不思議なものには大抵の場合に興味を持つものです。何かにびっくりさせられたり、驚きを禁じえない体験をしたときには、それが何だったのか知りたいと思うのです。

つまり、不思議さというものは自分の理解を超えたものに対して感じるわけですが、それを理解したいという欲求が発生するということです。

その欲望とは、自分が理解できないものをそのままにしておくことは、危険であるという発想から由来したものです。

危険を回避するために、分からないことを分かるようになりたいという欲求を持つということです。これは、単に自己防衛からきているとも言えます。

それこそが、まさしくエゴの欲望に他なりません。けれども、私たちは不思議なものに対して、それを解明したいというだけではなく、シンプルに惹かれるという側面も持ち合わせています。

この、不思議さに単純に惹かれるというのは、きっとエゴを越えるものに対する心地よさなのかもしれませんし、本当の自己を思い出したいという隠された欲望なのかもしれません。

不思議なものに対するこの二つの衝動は、そういう意味で互いに相反するものであると言えるのです。一方はエゴの防衛であり、もう一方は真実への渇望だからです。

この世界では、理解できないことを理解できるように学んでいくことは、必要なことであり、何ら問題ありません。

しかし、もう一方で自分の理解(思考)を越えたところにこそ、真実が隠されているということに気づくことは、より一層大切なことなのです。

それこそが、自己の不思議さに降参するということです。解決しようとするエゴ(思考)の誘いに振り回されないでいるということです。

それは、エゴ(思考)が自分の限界を悟り、真実にひれ伏すということです。そこにこそ、この世界のものではない、真の安らぎがあるのです。

この宇宙(自己)の不思議さには降参です

目を閉じて、しばらくの間静かにしていると、この世界、この宇宙が壮大な夢のようなものだという感覚になることができます。

それは別の言い方をすれば、自己という純粋な意識が全体であり、それが唯一だということでもあるのです。

内側も外側もなく、ただ自分の本質としての意識が在るという感覚です。それは、大きさも位置も時間も何もない、完全なる澄み切った空であると。

あまりに不思議過ぎて、どうにかなってしまうんじゃないかというこの感覚は、自分としては幼いころからとても馴染んでいるものです。

だから決して恐がるような類の感覚ではないのですが、それでも自分がいなくなるような瞬間を、子供の頃から感じていたように思います。

大人になった今と違って、子供のころはその感覚がいつ何時やってくるのか見当もつかないので、それが来た時には無言で固まっていたはずです。

今では、落ち着いているときであれば、いつでもこの感覚の中に戻ることができますが、残念ながらその感覚には、人間としての感覚が混じっているようです。

それが、夢のように感じるという表現を作り出しているように思います。こうして、ブログを書いていると、ものすごくそれがやってきてくれます。

昨日も書きましたが、この変化のまったくない深淵の静寂さと、表面的な現象界の忙しさが同時にやってきて、その見事なコントラストには驚かされます。

それらは互いに全く異なるモノであるのに、完全に一つであるとも言えるのですから。本当に不思議で仕方ありません。

今この瞬間の美しさを見る

私たちは、いつも自分にとって都合のいいことが起きてくれるようにと、絶え間なく願い続けています。

仮に、誰もが羨むようなトントン拍子のような人生であったとしても、本人の心の奥には否定的なことをできるだけ排除したいという思いがあるはずです。

それはある意味、生存本能から派生した自己防衛であると考えれば、当然のことですね。誰だって、苦悩から逃れたいと思うのですから。

だからこそ、引き寄せの法則などというモノがかつて流行ったのでしょうね。私には縁がなかっただけで、今でも多くの人々の心を惹きつけているのかもしれませんが…。

引き寄せの法則というのは、この世界は内面の投影であるとの見地からすれば、それなりに的を得たものであるとも言えます。

けれども、どんな法則であれ、それを何が何でも信望してしまうと、真理から遠ざかってしまうものです。

なぜなら、何かに法則性を見出すことは、思考の中でのことだからです。思考はそれを真理だと断定しようとしますが、思考からはずれてしまえば真に客観的な事実というものはないのです。

思考の外側では、たとえ相対性理論といえども意味を成さないということです。あ、今これを自分で書いていて、びっくりしました!

こういうこと、時々ありますが、今初めてそのまま書いてしまいました。話しを元に戻しますが、だれのところにも、都合のいいことと同じだけ都合の悪いことが起きるのです。

それは避けて通ることはできません。どんなことが起きたとしても、それは一過性のものであるし、思考の外側には都合がいいとか悪いということもありません。

これから先どんなことが起こるのかということよりも、今この瞬間に起きていることに目を向けることです。それがどんなことであれ、真の自己の永遠性から見れば、一過性のはかないものの美しさが際立ってくるのですから。

自己という内面の真実

osho の言葉からの抜粋です。

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人が絶対に確信できる現実はたったひとつしかない。
それは内面の真実だ。
人は内側に動いて行ける。
人が在するためにすら、少なくとも自分が必要だ。
すべては夢かも知れないが、自分はそうではない。
なぜなら確信できるのは、自分自身しかない。
他には何もない。
だが、ひとたび自分が存在するという、この確かさを射抜けば…。
いいかね、夢の中にさえ、自分はいる。
夢のためにすら、意識が必要だ。

あらゆるものが夢だと証明することはできる。
だが、夢を見る人を夢だと証明することはできない。
夢を見る者は、実在でなければならないからだ。
さもなければ、夢も存在できない。

確かなことはひとつしかない。
そして、それは、自分だ。
たったひとつの事だけは絶対に確かだ。
それは、自分の内面という真実だ。
改心とは、不確かな世界、見かけの世界から、
その真実の世界に向きを変えることだ。

ひとたび人が、その内なる確かさを、
自分には根拠があることを知ったら、
ひとたび自分がいることを知ったら、
その確かさによって、視界が変わる。
その質が変化する。
そうすれば外の世界を見ても、別な世界が開示される。
その世界が神だ。

人がある確かな、絶対に確かな実在に根を下ろした時、
その人の眼差しはそれまでとは異なった質を持つ。
その時、そこには信頼がある。
今や、見ることができる。
すると、全世界が変わる。

その時そこにあるのは、そう見えるものではなく、 実在だ。
本当に真実であるものだ。
本当に真実であるものとは何か。
それは、この目に見える形ではない。
形態は変わるが、その形態を通して動くものは変わらない。

思考からの脱出

この人生において、最も、それも群を抜いて一番に関心を持っているのは、何を隠そうこの「私」についてであるというのは、間違いないことです。

それなのに、何がきっかけだったかは忘れてしまいましたが、この「私」というのは厳然とした実体のあるものではなくて、単なる思考の産物だったと気づいたのです。

この気づきは、とてもショックであり、またある種の小気味よさというものも感じたのです。自分に対して、ざまあみろ!的な思いというのか…。

多くの人は、自分の存在価値に気づけなくて苦しい毎日を生きていたり、自分の中の罪悪感や自己嫌悪感に苛まれていたりと、悩ましい人生を生きているのです。

けれども、その中心にいるはずの「私」というものが、本当は何の実体もない、ある意味架空の作り上げられたものだったということなのです。

こんな馬鹿げた、やってられないような話しってないと思いませんか?一体毎日私たちは何を悩んで、頑張り続けてきたのかアホらしくなってしまいます。

でもそれは、本当のことなのですね。私たちが、何かを価値があると思ったり、大切だと感じたりするのも、すべては「私」がここにいると錯覚している思考の中でのことだったということです。

そして、その思考とは過去そのものなのです。過去の体験、つまりそれは知覚による体験ですが、それと記憶の働きによって、過去を積み重ねてきたのです。

それこそが、「私」という人物の本当の姿だったのです。何度も言いますが、何の実体もありません。すべては思考だったのです。

過去によってでっち上げられた張りぼてのようなものとしての「私」、それは常に過去と過去の変形である未来の申し子なのです。

だから、人物としての私たちは、決して今この瞬間に生きることはできません。今ここには、誰でもない本質の自己が在るだけなのです。

思考という部屋の中を、ぐるぐる回って出口を見つけられずにいるのが、私たちの現実なのです。でも必ず出口は見つけることができます。

出口を見つけ、その方向に一直線に向かって歩いていくには、思考そのものを利用する必要があります。

しかし、最終的にはその思考そのものから出てくるのです。そこには、やっと出てきた本当の自分を待っていてくれる真の自己が在るはずです。

いつまでも浮かばれない心の部分

生まれ持った気質が過度に敏感であるとか、生育環境が本人にとってかなり苛酷なものであったりした場合に、成長するにつれて心のバランスが崩れてしまうことがあります。

そうすると、心の機能をまんべんなく使うことができなくなってしまうために、非常に偏った考え方をするようになることがあります。

過度に人を恐れるようになってみたり、自分で作ったルールを守ることに全エネルギーを注ぎ込むような生き方をしたりするのです。

そうなると、心の中は小さな部分に分裂してしまい、それぞれが互いに意志の疎通をしなくなってしまうのです。

そのうちのどれか一つが、その他を圧倒するような力を持っている場合には、偏っているとはいえ、本人はある意味安定の状態を続けることができます。

そしてそれが本人にとっては、本当の自分であるかのような錯覚に陥るのです。それは、本人だけでなく、周りの人からもそのような人だと勘違いされるのです。

けれども、そうした心の不均衡というのはいつかは崩れることになります。なぜなら、抑圧されていた心の部分が耐え切れなくなって、表面化するときが必ずやってくるからです。

それは本人にとっては、自分の中にこんな面があったのかと、驚いてしまうことになるかもしれませんし、困ったことになったと思うかもしれません。

しかし、セラピストの目からすれば、それは大きなチャンスが到来したのだと映ります。もしも、突然自分のことがコントロールできなくなる時があったり、自分の言動を理性で説明できないことが頻発するなら、そのチャンスを逃さないことです。

長い間の葛藤によって、張り詰めていた心が何とかして元通りになろうとしているのですから。自分の心の反応を否定することなく、静かに見守ることです。

人の心の中には、まだまだ埋もれたままになっている、浮かばれない部分が残っているものです。それが当然だと知っていると、慌てずに済みます。

どうしても、自分独りでは不安であるというのでしたら、セラピストなどの専門家に力を借りることを考えてもいいと思います。