究極の心の避難所

私は子供の頃から、何となく自分は現実感が乏しいと感じていて、この現実の世界にしっかり自分がいるという感じがしっくりこないというのを持っていました。

こうしたことは、自分に固有のものだろうから、友達や親にもあまり話したことはなかったと思います。でも今は、ごく普通にこのような類の話をするようになりました。

現実感が乏しいからなのか、少し目を閉じて静かにしていると、あっという間に得体の知れないところへ自分が行ってしまいます。

それは他の言葉を使うと、何だかどこか懐かしい感じもしますし、それが幼い子供の頃の感覚をただ思い出しているようでもあるし、そうでもない感じもしてあやふやなのです。

けれども、その感覚は本当にあらゆるものを一瞬にして消滅させてくれるので、とても重宝しています。なぜなら、意味があろうがなかろうが、それも含めてすべてが消えるからです。

惨めな自分も、無残な人生も、理不尽な思いも、悔しい気持ちも、孤独感も、そこへ避難すればことごとくなくなってしまいます。

思考が完全に消えるというわけではないのですが、少しだけ残った思考の残骸が、どこでもない、なにものでもない、あるでもないでもない、というのをうっすら気づいているのです。

こうして言葉にしてみると、かなり危ない感じが漂ってくるようですが、それでもこの先も何があったとしても、この避難所さえあれば自分は大丈夫だという気がするのです。

この心の避難所は誰にでもあるものです。なぜなら、それこそが本当の私たち自身なのですから…。

問題行動について その2

昨日のつづきです。

問題行動が起きるときには、必ずその前段でひどく抑圧された心の叫びがあるということです。何らかの理由でストレートに表現できないときに、回りくどい方法を使うのです。

その婉曲なやり方が問題行動というわけです。たとえば親に対して、本音を言うことができない女の子が、無意識的に門限を破るということもあります。

母原病などと呼ばれる一種の病気のような症状がありますが、これも問題行動として捉えることができます。

お母さんと子供の間で、心の交流がうまくできていないと、場合によっては子供にぜんそくやアトピー、中耳炎や自家中毒などの症状が出ます。

私は子供のころに自家中毒をよくやっていた記憶があります。嘔吐を繰り返すあまりに、母親が洗面器を枕元に置いておくのですが、しまいにはそれを見ただけで具合が悪くなっていました。

子供に問題行動が出たら、それは周囲の大人がその原因である、本人の抑圧について注意深く見てあげる必要があります。

大人のしでかす問題行動にも様々なものがありますが、軽めのものでしたら、本人の心の中にいる幼い子供がやっていることだと思って、やさしい気持ちで見守ってあげるといいと思います。

ちょっと複雑なものですが、相手に喜んでもらおうとして、無自覚にミスやヘマをして、自分を相手にとって見下す存在に仕立てるなどというのもあるかもしれません。

このあたりになると、さすがにどこまでが問題行動といえるのか微妙なところですが、要するに人の行動をより広い心で受け止められたらいいなということですね。

問題行動について

問題行動という言葉が、正式にあるのかどうかは知りませんが、私はセッションのときによく使っています。

問題行動というのは、幼い子供であればオネショに代表されるような、ちょっと周りを困らせるような行動や身体の症状のことを指します。

短期間のオネショの場合は問題行動とは呼ばないかもしれませんが、それが一般的な程度を超えてしまうと、問題行動として取り扱う必要があるでしょうね。

問題行動というのは、子供だけではなくて大人であっても立派に発生します。というのも、大人であろうと子供であろうと、心のメカニズムに違いはないからです。

というよりも、大人の起こす問題行動も、実際にはその人のインナーチャイルドが起こしているわけですから、ご本人の年齢に問わずに起きるのは当然のことなのです。

子供や青少年の場合の代表的な問題行動としては、不登校が挙げられます。私自身も幼稚園のときに、半年ばかり不登園というのをやらかしました。

度が外れた夜遊びや援交、あるいは暴走行為なども問題行動であると考えられます。問題行動は一概に「問題」だとは言えないこともあります。

なぜなら、問題行動というのは、本人が正面きって自己表現ができない場合、あるいはどう表現していいか分からない、または表面的には何も感じていないけれど、深層では抑圧しているなどの場合に起こるからです。

つづく

本当の空っぽさとは?

今ちょうど引越しの最中で、普段じっと座ったきりで動かない生活をしている身としては、かなりしんどい筋肉痛がやってきてくれています。

日頃から自分は、あまり私物をもっていない方だろうとの自覚があったので、引越しなどあっという間に終わってしまうに違いないと高を括っていました。

ところが、いざとなったらやはり出てくるものですね。それも大抵がいらないものばかりで、普段から処分するようにしておいたら、どうってことなかったはずなのに。

今まで使っていた部屋が次第に空っぽになっていくに連れて、気持ちも清々しくなってきて、ああここに住みたいなあなどと変なことを思ってみたり…。

物が無いというのは、本当に気持ちのいいものなのですね。自分の心も空っぽにすることができたら、どれほどいい気分になれるでしょうか?

心を空っぽにするというのは、一般的に言えば思考を停止させてしまうということを連想するかもしれませんね。いわゆる無念無想というものです。

けれども、思考は別に悪者ではありません。思考が起こったとしてもそれに巻き込まれないようにできればいいだけの話しです。

つまり本当の空っぽさというのは、そこに何も無いということよりも、あるものに翻弄されない状態でいるということなのです。

何があったっていいじゃないですか。ただそれは、在るだけなのですから。そこに都合のいい解釈を差し挟むからこそ、苦悩するということに気づけばいいのでしょうね。

仕事は辛く苦しいという先入観を捨てる

子供の頃からずっと、学生の頃も会社員時代も、とにかく休日が大大大好きという人間でした。それは、裏を返せば学校に行ったり、仕事に出かけることが大嫌いだったということです。

初めての団体生活である幼稚園に通いだしてすぐに、膝が痛くて歩けなくなる、当時としては原因不明の病気になって、まんまと幼稚園を半年休園したのです。

そこからすでに、家から外に出て行って団体生活をすることを拒絶していたということですから、なかなか筋金入りなわけです。

社会人になったら、もう休日だけが人生の救いというぐらいになりました。幼いころから、外出することに何の興味も感じなかったのです。

自分にとって、一番居心地がよくて快適なのは、家の中なのです。外は何かと気苦労の多い大変なところだという間違った洗脳を自らしてしまったのかもしれません。

仕事は楽しいものではなくて、苦しいものに違いない。辛く大変な思いをするからこそ、見返りとしてのお金を稼ぐことができる、そんな勝手な思い込みをしてしまったのだと思います。

ところが、会社員を辞めて、今の仕事をするようになったら、休日というものが必要なくなってしまいました。

つまり、気晴らしが不要になったということなのかもしれません。毎日が日曜日というと、オーバーかもしれませんが、仕事と休日が毎日同時にやってきているような感覚なのです。

仕事は過酷で辛いものという勝手な解釈をしているとしたら、そんなことはできるだけ早く止めるべきですね。

そうすれば、休日を楽しく過ごすために歯を食いしばって仕事をするなどという、本末転倒な人生から開放されるはずです。

思考から離れると真実が見えてくる

○この数年で気づいたこと:

自分の顔もしくは頭があるはずと思い込んでいた場所には、何も無いということ。

外向きにあるものを見るとき、内向きに見てもまったく同じものが見えるということ。

外側と内側は同じであるということ。つまり、外も内もないということ。

自分には自由意志はないということ。つまり、選択したり決意することはできないということ。

自分や自分の人生をコントロールする力はないということ。

思考は解説するだけで、どんな力も持ってはいないということ。

○そして、以下のことは事実ではなく、ただ思考の中で思われていること:

自分の肩の上には顔(頭)がある。

自分の外側には世界が広がっていて自分はそれを見ている。

自分とはその世界の一部を肉体という形で独占している存在である。

自分には独自の自由意志があり、自由に選択や決意することができる。

自分は自分の人生をコントロールする力を持っている。

思考にはパワーがあって、それによって人は突き動かされるのである。

こうしたことを信じるから、苦しみがやってくるのですね。

愛に溢れた文章のおすそ分け

先ほど、ある方から以下のようなメールをいただきました。あまりに、愛に溢れていて私だけが読むのは勿体ないと思いましたので、ご本人の許可を得ましたので、ここに掲載させていただきます。

ちなみに、文中の「いただいたファイル」とは、私がお譲りした「奇跡のコース」のテキストのことです。

+—————————————————————-+

大澤先生

昨日はあれから駅前まで戻り、でもすぐにバスに乗りたくない気分だったので
マックでコーヒーを飲みながら、いただいたファイルを
適当に1冊取り出してぱらぱらめくっていました。

先生が赤でアンダーラインを引かれたところを
目で追いながら拾い読みしていたら、
突然涙が出てきて、止まらなくなりました。
しばらくはらはらと涙を流しながら、アンダーラインが引かれたところを
追い続けていました。

それは、すべてがゆるされたような
大きな愛で包まれているような
言葉では表せませんが、静かで、でも広くて深い至福のようなものでした。

それからずっと、目に映る人すべてが愛の存在であることがわかるんです。
そして、言葉を交わす人すべてから愛を受け取ることができるし、
私は何もしなくても、私の中から愛が流れ出していることがわかります。

これって、たとえようもないすごい至福です。
もう何も要らないって思います。

昨日先生にお会いして、これから先生は
今以上に大きな愛として存在されるようになるんだなとはっきりわかりました。

そして私も、すべての愛のためにだけ在りなさいと言われているような気がします。

むき出しのただ愛であるだけの存在でありたいと
そのことだけを祈り続けようと思います。

「祈りによって愛を受け取り、奇跡によって愛を表現する」
そうコースにも書いてありますしね♪

+—————————————————————-+

無防備な心の清々しさ

死とは無に帰すること。ただそれだけなのに、なぜ私たちはそれを恐れているのでしょうか?不思議なことだとは思いませんか?

無とは、何もないのですから恐れも勿論ありません。恐れのない状態へ遷移することを恐れているのですから、何とも奇妙な話しなのです。

無でない状態において、無に一番近いと感じるのは深い平安な状態です。苦痛もない代わりに、感動や楽しみもありません。

けれども究極の平安という安らぎには、何とも形容することのできないとても奥深い静寂があるのです。生きていても、それを垣間見ることはできます。

ラマナ・マハルシは、高校生の頃に突然覚醒してしまい、その圧倒的な世界へとのめり込んでしまい、洞穴のなかで身体をねずみに食われても動こうともしませんでした。

勿論彼の場合は、とても稀有なケースではあるのですが、どこかで私たちは死を恐れている以上に、それを望んでいるのです。

死は本当は恐れる対象ではありません。それなのに、これほどまでに死から遠ざかっていようと自己防衛を続けているのは、物語の続きをもう少し見ていたいからです。

子供の頃に、毎週欠かさず見ている大好きなテレビ番組がもう少しで終わってしまうというときに、必ず一週間待てないよ~と心の中で叫んでいたものです。

それと同じことなのですね。自分の人生という物語を、どうしても今この瞬間にはまだ終わらせたくないという欲望がるのですが、これが死の恐怖なのです。

テレビ番組が無情にも、時間になると終わってしまうのと同じように、神が「その物語はもう終わりですよ」と言われる、そのときが死なのです。

それはただ無に帰するだけなのですから、そのときは潔くただ観念するようにしたいものですね。そして、常日頃から死を恐れる自分をしっかりと正面から見つめることです。

そうすれば、過剰な自己防衛が減って、無防備な心の特徴である何とも言えない清々しい安らぎの中で生きていくことができるのです。

所有するという幻想から目覚める

大切なものを喪失するのは、誰にとっても辛いことですね。自分が一度手に入れることができたなら、それを失いたくないと思うのです。

勿論欲しいと願っているものが手に入らないということも、苦しいことかもしれません。けれども、私たちは一度手にした喜び、一度味わった満足感を忘れないのです。

そして、その宝物を決して奪われたくないと強く思うのです。これが、執着のもっとも代表的なものかもしれません。

執着しているものが、手から離れそうになると、必死になって悪あがきしてしまうのです。それが、強烈であればあるほど、苦しむことになってしまうのです。

つまり、喪失を受け入れられずにいればいるほど、苦悩は募るばかりです。分かってはいるのですが、自分の心は簡単にはコントロールすることができません。

逆らうことにもいつか限界がきて、もうどうにでもなれと観念してしまえば、驚くほどさっぱりと楽になってしまうことにびっくりするかもしれません。

そこまで行く前に、こうした執着をなくすためには、一体どうしたらいいのでしょうか?そのためには、所有するということをじっくり見つめなおすことが大切です。

所有するということが、単なる約束事であり、本質的なことではないということに気づくことです。AがBを所有するという場合、それは単なるルールなのです。

ルールは真実ではありません。決め事に過ぎません。ということは、自分が何かを手に入れたと思うこと自体が間違いだったと分かればいいのです。

そうなれば、喪失ということ、そのものがなくなってしまいます。所有するという幻想から、そろそろ目を覚ますときがやってきたのではないかと思います。

新たな時代の到来

昨日は、まじかに迫った衆議院議員総選挙の不在者投票というのをやってきました。選挙当日も仕事と引越しの準備で何かと時間が取れないといけないと思って。

不在者投票は、ほとんど人がいなくてのんびりムードで、とてもよかったのですが、私の選挙区には私が推している政党の候補者が立候補していないのが残念でした。

今度の選挙では、何か今までにない大きなうねりがやってくるような気がします。それは、長年変えることができなかった憲法の改正も争点になっているからです。

ところで、来週末あたりに例のマヤ暦の終焉がやってくるのですね。何でも闇の時代から光の時代へと変遷するらしいです。楽しみですね。

その数日前に、私はセッションルームを引っ越すことになったし、どうやら人類レベルで、そして日本のレベルで、最後に私個人としても、そしてきっとみなさんすべてが同期して、とうとう変化するときがやってきたように感じます。

都合のいいことも悪いこともすべて含めて、やってくる変化の波をそのままに受け入れることができた人から、平安がやってくるはずです。

引越しに先立って、いらないものを整理しているのですが、「奇跡のコース」のテキストをプリントアウトしたもの(ファイル数冊分)を処分しようと思っています。

それは各段落ごとに、日本語翻訳と英語原文を交互にした私オリジナルの手作り品です。もしも、欲しい方がいらっしゃいましたらお譲りしますので、ご連絡して下さい。

ついでに、あるクライアントさんから頂いた「奇跡のコース」の原書があるのですが、こちらも欲しい方に差し上げますので、ご連絡下さいね。

新たな時代がやってくることを、謙虚な気持ちで元気に迎えたいものです。