誰でも子供の頃は特にそうですが、見るもの聞くもの何でも疑問に思うものですね。小さい子供が親を質問責めにしている光景が目に浮かびます。
自分自身の記憶を遡っても、そんな時代がありました。けれども、割とすぐにあまり質問をしないようになったように思います。
子供の自分が問いかけるものが、大人を困らせることになると思ってしまったのかもしれません。あるいは、どうせ回答は貰えないとたかを括ったのか。
ただし、大人になってこの質問はリーズナブルだろうと思えるものについては、積極的に質問するようになったのです。
特に何かを学んでいるような時には、分からないことをそのままにしておくのが嫌で、かなり質問をする方でした。
ところが今の仕事をするようになってから、本質的な疑問はいくらでもあるのですが、それについて答えを知りたいという欲望が小さくなったのです。
きっと誰に聞いても答えはないだろうというのもあるのですが、より深く見つめてみると分かるのですが、そもそも答えはないということにも気づくようになったのです。
この世は謎なのです。疑問に対する答えが必ずある、あるいはあって欲しいというのは自我のものだということにも気づいたのです。
疑問というのは思考の範疇であり、その癖思考の外側にその答えがあるならそれは決して理解できないのですから。
そういうわけで、私のマインドが持っているたくさんの疑問は、そのほとんどが宙ぶらりんのままになっていますが、それでいいのです。
それが瞑想の時の感覚と一緒なのです。瞑想すると疑問も消えてしまうので、答えを求める欲望も無くなるのですね。