言いたいことを言おう

誰一人として理由もなく相手を攻撃したいと思っている人はいないはずです。もしも自分が相手を傷つけてしまったと感じたら、私たちは大抵は罪悪感を感じてしまいます。

自分の言った一言で相手の顔が曇ってしまい、明らかに悲しい気持ちにさせてしまったと分かったら、悪いことをしたなと思うのです。

これはとてもやさしい、相手をいたわる気持ちの表れだと言えますね。しかし、そのことを恐れるあまりに、伝えるべきことを抑えてしまうことが続くと今度は自分の心を傷つけることになってしまうのです。

一度や二度ならばいいのですが、こうしたことが日常的に繰り返されてしまうと、長い間にはとてつもない自己犠牲の塊ができてしまい、それは必ず大きな怒りへと変化します。

私たちは自分が相手を傷つけようとしていない限りは、本来何を自己表現してもいいのです。不幸の始まりは相手を傷つけたいという憎しみだけです。

そのつもりがないのであれば、恐れずに伝えるべきことはしっかりと伝えるべきなのです。それができないのは、今度は相手をいたわる気持ちではなく、自分を守ろうとする意識だといえます。

自己防衛は必ずや自己犠牲を伴うのです。ですから、防衛のし過ぎは人生を破壊してしまうことになると覚えておく必要があります。

このことは何度言っても言い過ぎることはありません。そのくらい、私たちは自分を抑えることに慣れてしまっているからです。

自己表現するというのは、自分の言いたいことをストレートに言う、自分の本当の気持ち、本心を相手に伝えるということですが、それには感情表現も含まれます。

人前では冷静でいられなくなってしまうのは、とても不本意だと思うのが普通の感覚ですが、相手にぶつけるようなことをしなければ、感情を表現することもとても大切なことです。

遠慮のない自己表現は子供っぽくて嫌いだという人がいますが、それはその人自身が自己表現を抑えているからなのです。

そうした自己犠牲を手放し、勇気を出してただ素直に表現しようとすれば、周りの人たちはかならずそれを受け止めようとしてくれるのです。

あなたはしっかり自己表現できていますか?こうしたことをよく見つめてみることはとても大切なことだと思います。

胡散臭い現実

みなさんは、どうもこの現実って胡散臭いなと感じたことはないでしょうか?なぜか急に「こんな変なのあるわけないよ」みたいな感覚になったりしたことはありませんか?

私は特に幼いころにそうした何とも言えない不思議な感覚になることが時々ありました。今でもたまにやってきます。

現実感がポーンと抜けてしまうような感じです。それはただ歩いているときにもやってきますし、何かをしていても、何もしていないときにも突然やってきます。

現実逃避かなとか、離人症の一種なのかもなどとよく考えたりしていました。本当のところはどうだか分からないのですが、唯一つ気になることはホンモノとは何だろうということです。

ホンモノとは作り物ではない、ニセモノではないというように反対の言葉は見つかるのですが、ホンモノということの本当の意味がなかなか難しいように思うのです。

自分の感覚がどれほどリアルなものであったとしても、それは単なる自分の知覚としてそう感じているだけなのだというように思うこともできます。

実際にものすごくリアルな夢を見ることもあります。色彩がとてもきれいで、ものがとても緻密に見えるような夢なのですが、それでもホンモノではないですね。

だとすると、この現実というものがどうしてホンモノであると言えるのかという疑問が出てきても不思議ではないのではないでしょうか。

この現実は果たしてホンモノだろうかと疑ったことはないでしょうか?こんないやなことは夢であって欲しいとか、逆にこんな嬉しいことは夢でないことを祈りたいということはあったはずです。

でもそれとも違うのです。ただ普通にしていて、何とはなしに違和感を感じて疑ってしまうのです。子供の頃は誰もが同じように感じているのだろうと思っていました。

奇跡のコースを読むようになって、この感覚への答えが提示されて自分としてはとても気持ちを落ち着かせることができたと思っています。

みなさんは本当のことを知りたいとは思いませんか?そしてそれは単なる興味のレベルではなくて、本当に幸せになるために是非とも必要となる知識なのです。

自信がないとは

よく自分に自信がないという人がいます。いつからですかと質問すると、物心ついたあたりから今までずっとかもしれませんと答えられることが多いです。

この自信がないとは一体どういうことなのかについて、考えてみたいと思います。自分の何に自信がないのかということをよく見つめてみると自信がないということの本質が分かってきます。

自信がないのは、自分の能力や経験やルックスなどの場合もあるかもしれませんが、本当に自信がないのは、自分の存在に対してなのです。

自分の存在に対する自信のなさというのは、分かりやすく表現すれば自分の存在価値が分からない、もしくは価値がないという思いと同じことなのです。

存在価値を感じることができないということこそが、自分に自信を持つことができないという本当の理由なのです。

だからこそ、どれだけ能力を身に着けても、沢山の勉強をして知識を人よりも得たとしても、ダイエットなどを一生懸命やって外見を磨いたとしても、どれも効果はないのです。

何をしても、どんなすばらしい結果を出しても、学業や仕事で成果をあげても、周りの人から褒められたとしても、最終的には自分には価値がないというところに戻ってしまうのです。

頑張れば頑張るほど虚しくなるのは、最後には結局元通りの駄目な自分に戻ってしまうからなのです。こんな人生をいくら繰り返しても決して幸せにはなれません。

一つの大きな解決方法としては、自分以外の誰かのために一生懸命尽くすということがあります。これができると、愛を与える経験ができるために、自分への愛があったということに気付くことになるのです。

それは自分は駄目な存在で価値がないという間違った思いを訂正してくれるはずです。そして自信など必要ないのだという境地になるはずです。それこそが幸せな状態であると言えるのではないかと思います。

深刻にならない

最近私は自分の身の上に何が起ころうとできるだけ深刻にならないように気をつけています。それは、自分が深刻な気分になればなるほど、心の平安から遠ざかると分かったからです。

深刻になっているときには、大抵何かについて思い巡らしています。その時には思考が働いているのですが、どうも空回りしている感じがしてあまり有効な考えが浮かびません。

数日前に気付くことこそが大切だというお話しをしましたが、深刻になっている心の状態では到底気付きはやってこないように思うのです。

私たちは何となく真剣さというものと深刻ということを混同しています。真剣という意味は、雑念が入らない状態で物事にまっすぐに向き合うさまを言います。

ところが深刻というのは、雑念だらけになりがちなのです。そして、物事をいいようには考えられなくなっている感じがしてしまいます。

深刻さには必ず不安や恐怖がつきまとうのです。深刻さの反対は、笑い飛ばすとか、物事を肯定的に捉えるなどですね。

なぜ人は何のメリットもないのに深刻になってしまうのでしょうか?これは自覚できないですが、実は心の中にいるエゴの差し金なのです。

エゴは、思考をフル回転させると自分がうまく活動できることを知っていて、深刻にさせることで否定的な気持ちにさせようと企んでいるのです。

深刻になっていると、何となく自分のエネルギーから活力とか輝きなどが消えうせてしまうようにも感じています。闇のエネルギーになってしまうともいえます。

もしも、気が付いたら自分は深刻になってるなと思ったら、深呼吸や瞑想などをすることで気分を平静に戻すことです。

そうすると、ああ自分は今はまっていたなと分かるようになります。機会があれば是非試してみて下さい。そしてできるだけ深刻な状態にならないように工夫することが大切だと思います。

~~お知らせです~~

『奇跡のコース』無料ご紹介セミナーを10月23日(土)午後1時から開催します。

『奇跡』のヒーリングセミナーを10月30日(土)午前10時から開催します。

11月第二週より、また新たな講座がスタートします。

詳細については、HPの「セミナー・講座等」のページをご覧下さい。

都合の悪い人達

私たちは自分の意に沿わないことを言ったりやったりする人のことを快く思わないはずですね。嫌いになったり、その人のことを見ないで済まそうとしてしまいます。

そばにいられるだけで、穏やかな気持ちでいることができなくなってしまって、何か一言いってやりたくなるかもしれません。

どうしてそういう言い方しかできないのか、なぜそんな行動ばかりとるのか、考えれば考えるほどイライラさせられてしまったりもします。

自分にとってそういう天敵みたいな人がこの世界からいなくなればいいのにと思ってしまうのも当然かもしれないですね。

でも誰にとっても、程度の差こそあれそのような人というのがいるものです。奇跡のコースでは、そういう人のことを神からの賜物だと教えています。

自分の周りにいる人が一人残らずすばらしい人ばかりであったらどんなに生活が楽になるだろうかと考えたことがない人はいないはずですね。

ところがそれは、単に自分というエゴにとって都合のいい人ばかりであって欲しいといっているだけなのです。都合の悪い人というのは、本当は自分の心の中にある都合の悪い自分を投影しているだけなのです。

奇跡のコースの教えはそうしたことを伝えているのです。自分にとって自分が見ずにいようとしている暗闇の部分を、そういう人たちが見せてくれているわけです。

その天敵のような人たちがいなければ、もしかしたら一生自分のそうした部分に気付くことができないかもしれないのです。

もしもあなたの周りに困った人がいたら、その人をただ闇雲に嫌ってしまうだけでなく、その人は自分に何を気付かせようとして神に派遣されてきた人なのかということを考えてみることです。

冷静になって相手と向き合うことで、自分が抑圧してきたことに気が付かされるかもしれません。深刻な気持ちにならずに相手を許したいという気持ちになってみることです。

そこには、人生を幸せにしてくれるとても大きなヒントが隠されているはずです。

質問する気持ち

私は何を隠そう、子供の時からずっと質問魔でした。といっても大人に対して何度もしつこく「なんで?なんで?」と聞くようなことはありませんでした。

どちらかというと、ちょっと聞いて相手が分からないのだろうなと理解すると、もう聞くのをやめてしまうような子供でした。

そのあとは自分の中でずっと繰り返し自問自答するような感じだったかもしれません。といっても、それを真剣に考え続けるということでもありませんでした。

大人になると、経験が足りないと自他ともに認めてもらえるうちは、そこそこ質問をするほうでしたが、やはり相手が答えられそうにないと分かるとすぐにやめてしまいました。

会社員をやめて、今の仕事をするようになる前に、ヒプノのスクールやヒーリングを習ったりしていたのですが、そんな中ではまた質問魔に戻っていました。

何も分からずにただ黙って聞いているということが苦手なようで、私は大抵は講師の方に質問をしていたと思います。

そしてセラピストの仕事をするようになると、心の事を日々クライアントさんにお話ししている間に、全くそれに関して自分の中では質問がなくなってしまったのです。

確かに分からないことはあるのですが、質問という形では浮かんでこなくなったのです。それはきっと、質問を受ける立場になったからなのではないかと思っています。

そしてちょうど二年前に奇跡のコースを読み始めたときにも、また沢山の疑問が浮かび上がってきましたが、これは聞く相手がいないために自分で答えを導き出そうと努めていました。

そして気が付くと、奇跡のコースに関する疑問も自分が答える側になったために、質問がほとんどなくなってしまいました。

質問というのは、単に分からないことがあるというだけではなくて、それを誰かに解決して欲しいという気持ちが含まれているように感じるのです。

だからこそ、答える立場になると質問というものが心の中に浮かんでこなくなってしまうのだと思います。みなさんは疑問、質問が沢山ありますか?

質問をすることは決して悪いことではありませんし、質問があるにもかかわらず黙っているよりは率先して質問するほうがいいに決まっています。

ですが、物事を受け入れようとする気持ちが大きくなってくると、質問というものが少しずつ消えていってしまうのです。

質問をしたい気持ちというのは、ある意味訴えたい気持ちと同じなのかもしれませんね。本当は、その気持ちが消えてくれたら穏やかな気持ちだけが待っているのです。

徹底的に気付くこと

私たちは生まれて物心つくころからずっと、自分の能力を伸ばしていくことにエネルギーを注いできました。それは自立していく上では当然のことだと言えます。

一人で服を着替えられる、一人で食事ができる、一人で勉強できる、一人で電車に乗れる、一人で○○することができるようになるということをいつも目指してきたのです。

そして大人になると、それだけではなくそれぞれの自分の能力をフル回転して成果を出すことによって、人から認められるようにと頑張るのです。

こうした生き方は気が付くとすでに始めてしまっていたわけで、年老いてリタイアするまで続くのかも知れません。

しかし、なぜかこのようにして結果を出したとしても心の奥にある不満や満たされない思いなどがなくなることはありません。

つまり、自分の力で何かを成し遂げてもその満足感、達成感は一時的なものであって、それが永続的な幸福感には繋がらないと分かっているのです。

私の経験では、成し遂げるのではなくて、気付くことでしか本当の変化を感じることはできませんでした。このこと自体も気付きの一つと言えると思います。

気付くというのは努力して成果を出すのとは全く違う体験です。気付きはあるときに突然やってきます。それを予想することはできません。

ですが気付きがやってきたときには、成果を手にした時の喜びとは全く別次元のとても新鮮な何かが見えたという感覚になれるのです。

気付きとは元々自分の中にあるものを発見するというような意味ですから、自分の外側に大切なものを発見するのとは全く異なるのです。

そしてこの気付きというものが実は本当の幸せ、本当の感謝、本当の喜び、そういったものに自分を誘(いざな)ってくれるものなのです。

しかも、気付きは努力して成果を期待する今までの生き方とは正反対の生き方をするときにこそ、沢山やってくるものだと実感しています。

人は大切なものは元々すべて持っているのです。だからこそ、そのことに気付くことこそが本当の生き方だし、そこにこそ真の心の平安、幸福感というものがあると思うのです。

気付くことには限りがないようです。何度気付きがやってきたとしてもまた次に新たな気付きがやってきてくれます。人生とはその繰り返しなのだと思います。

気付くためにはとにかく外側の世界を見る代わりに、自分の内的世界に常に目を向けておくことです。外の世界を見るときには、必ず内側を見ているのだという意識で見ることです。

外と内は一つなのだという気付きがその後の大きな気付きへと向かわせてくれるかもしれません。

危ない理性

人が動物と一番違うところは、理性を持っているところかもしれません。しかし、この理性というのがとてもクセモノなのです。

というのも、理性は物事の正しさを判定することができるからです。幼い子供や動物というのは、理性的というよりも直情的といったほうが当たっています。

自分はこれが嫌だとか、こうしたいということをストレートに表現することができます。勿論100%ではないでしょうけれど。

ところが理性的な大人はそうは行きませんね。物事の道理や理屈、そして常識的な感覚などを総動員して自分の言動や相手の行為を制限しようとします。

し~んと静まり返った美術館で大きな声でおしゃべりすることは何も分からない子供の特権です。エレベーターの中でオナラを我慢しないのも子供です。

理性的であることが一人前の人間として当然のことと受け止められているのです。しかし、この理性が必要以上に自分を縛ってしまうととんでもない人生になってしまいます。

これはやってはいけない、こういう場合にはこうしなければならない、こんなことをしたらはしたないなどなど、常に自分や人の言動を見張っていることになってしまいます。

理性的なことを過度にしてしまう理由の一つは、恐怖なのです。誰からもできるだけ後ろ指をさされない人物であろうとする意識があまりにも強すぎるのです。

理性的であることは時としてとても危険であるということを認識しておくことです。そして、実はどんなに理性的な人であろうと本人の自覚のないところでは意外に理性的でない部分も持っているのです。

つまり理性には人それぞれに抜け穴があるのです。それは自分では決して気付くことがありません。そのことに一度でも気付かされると、理性的であることが馬鹿らしくなることがあります。

理性的な作られた自分だけではなくて、無邪気な子供のような部分も両立できるように自分を工夫してあげられると、心のバランスがとれて心地よく生活できるようになるはずです。

実践こそすべて

奇跡のコースを学習するという場合、大切なことは日々の生活の中でどれだけ活かせるかということに尽きると思います。

コース自体は、原理を教えてくれるテキスト、訓練するためのワークブック、それと教師用マニュアルの三つの部分からできているのですが、メインとなるのは実践を促すワークブックなのです。

毎月行っている勉強会では、その中のテキストを順を追って読んでいくに過ぎません。テキストを読んでそれで分かった気になってしまったら、私は読まない方がいいかもしれないとさえ思います。

なぜなら、理屈ばかりが先行してしまい、愛の目で周りを見ようとしたときに逆に裁きの目で見てしまうようになる可能性が高いと思うからです。

自分はこれだけのことを理解した、他の人が気付いていないこんなすばらしいことを知識として身に着けたのだからという驕(おご)りが、真理を見る態度の邪魔をするかもしれないのです。

だからこそ、コースに興味があるのでしたら絶対にワークブックを先生だと思って毎日実践することです。ただし、ワークブックだけでも実はこれが何のためなのかということが分からないとやる気が長続きしないかもしれません。

テキストをしっかり読んで、自分の目的や役目がはっきり分かった状態で、ワークブックを使って実践することこそが最大の成果を生み出すはずなのです。

ただ、ワークブックは毎日真面目にやっていくと、ちょうど丸一年で終わってしまうのですが、たぶんそこからが本当の実践になると思います。

日々周りの人達との関係性の中でどれだけ実践していくことができるか、ここが最も大切なところなのです。なのでワークブックが終わったとしても、忘れてしまったら再度紐解いて思い出せばいいのです。

つまり、コースのテキストもワークブックも繰り返し利用するようにできているのです。そして実践は勿論毎日の繰り返しの中でほんの少しずつ身についていくものです。

愛を選択するための様々な実践法を日々繰り返し生活することこそが本当の救いへの道なのだと思います。

比べることの苦悩

自分が27歳くらいの時の経験なのですが、最初の赤ちゃんが生まれたときに、大きなガラス張りの部屋に何人もの赤ちゃんが寝かせられていたのです。

その中に自分の赤ちゃんがいるはず。どれかな~と見ていて、きっとこの子に違いないと思った赤ちゃんがやっぱり自分の赤ちゃんだったのです。

このときに、もう自分の赤ちゃんと他人の赤ちゃんを比べてしまっている自分がいました。うちの子が一番いい子に違いないと。

そしてやっぱりあの子が自分の子かと分かった瞬間に、更に赤ちゃんの中で一人だけ輝いて見えるようにさえなりました。

単なる親ばかだけならいいのですが、そこに他の赤ちゃんと比べている意識が働いてしまうと、その目が今度は後々の子供の心にきっと突き刺さってしまうのです。

子供は自分が親から愛されていることを通常は分かっているものの、それが他の子供と比べてという条件付きであるとそれだけで傷ついてしまいます。

そして、その親の比べる目に応えようとして本来の無邪気な自分を捨ててしまうのです。なぜなら、比べられて駄目出しされたらこんなに惨めなことはないからです。

他の子と比較されていると心のどこかで察した子供は、今度は成長するにつれて自分のことを他の誰かと比べるようになってしまいます。

比べることで他より勝っていたら自分は価値がある、劣っていたら価値がないというような判断をすることが癖になってしまうのです。

そんなところに自分の価値があるというのでは、いつも恐怖と隣り合わせで生きているようなものです。自分という存在そのものが大切なのだという本来の存在価値が分からなくなってしまいます。

そこには恐怖ばかりがあって愛が見当たらないのです。このようにして、親の比べる目が子供の人生から愛を奪ってしまうことになるのです。

愛がない世界は殺伐としていつも恐怖を感じていなければなりません。その恐怖や不安を払拭するために頑張るというのが人生の目的にならざるを得なくなってしまいます。

どうか、赤ちゃんや幼いお子さんがいる親御さんは、その子そのものを見るだけにしてあげて下さい。けっして他の子供と比較したりせずに、愛してあげてください。

本当にその子のことが大切であれば、そうしてあげることがその子の人生を比較のない愛に溢れるものとすることになるのですから。