非二元の立場から見ると、「事実」と「現実」の違いは、起きていることと、起きていることについて私たちが作り上げた世界との違いとして説明できます。
ただし、これは辞書的な定義ではなく、非二元の視点からの捉え方であることを考慮して読んでみてください。
たとえば、目の前にコップが見えているとする。色や形が見え、手を伸ばせば触れる感覚がある。音が聞こえ、温度が感じられる。ここでいう事実とは、今、現れているものそのもの。
見ること、聞くこと、感じること。その経験があるということ。そこには、まだ「これは私のコップだ」「コップは私の外側に存在している」「昨日からずっとここにある」といった解釈は必要ない。
ただ、見えている。触れている。音が聞こえている。非二元的に言えば、まず注目したいのは、この直接的なことなのです。
では、私たちが普段「現実」と呼んでいるものは何だろう。たとえば、次のような認識があります。私という人間が存在している。私の外側に世界が存在している。世界は過去から未来へと続いている。
私は世界の中で、様々な出来事を経験している。これらを組み合わせることで、私たちは一つの世界像を作り上げている。その世界像を、ここでは「現実」と呼ぶことにします。
もちろん、日常的な意味では、現実という言葉は目の前の出来事そのものを指すこともあります。けれども、非二元の探求で注目したいのは、直接経験に、思考が付け加えている世界の構造なのです。
たとえば、誰かに批判されたとする。事実として現れているものは、声が聞こえる。言葉が認識される。胸に不快な感覚が生じる。
そこから構成される現実は、私は傷つけられた。相手は私を否定している。私は大切にされていない。これは私の人生における問題だ。
後者が必ず間違いだと言いたいわけではないし、日常生活では、その解釈が妥当なこともあります。ただ、よく見ると、声や感覚が現れていることと、それらが「私という存在に起きた出来事である」という世界像は、同じものではない。
経験そのものと、経験についての物語は別のものだということです。ここからが、非二元の核心に近いところ。私たちは通常、次のように考えています。
「私が存在し、その私が現実を経験している」しかし、直接経験を調べても、「経験する私」という独立した存在が、経験とは別に見つかるだろうか。見つかるのは、視覚、音、感覚、思考などではないだろうか。
「私が見ている」という思考は現れる。でも、その思考とは別に、独立した観察者が存在することまで、直接経験によって確かめられるわけではない。
さらに、「世界が私の外側に存在する」という認識も、直接経験そのものと、それについての解釈とを区別してみる必要がある。
ここで非二元は、私と世界が一つだと主張するだけではなく、そもそも独立した「私」と「世界」という二つのものが存在するという前提を問い直すのです。
さらに徹底すれば、そこにあると思われていた事実さえ、独立した実体として存在するとは限らない。見えるものがある。しかし、それを支える独立した物体が、経験とは別にどのように存在しているのか。
思考が現れる。しかし、それを所有する独立した思考者がいるのか。行為が現れる。しかし、それを行う独立した行為者がいるのか。
こうして調べていくと、私たちが当然だと思っていた現実の構造そのものが、揺らぎ始めることになるのです。
非二元の立場から、この二つを簡潔に区別するなら、こう表現できることになります。事実とは、今ここに現れているもの。
現実とは、その現れを解釈し、時間・空間・主体・客体などの構造を与えることで成立している世界像。
そして、さらに徹底した非二元の視点からは、事実も現実も、独立して存在する何かとして確立できるわけではない。ただ現れがある。
いや、「現れがある」ということさえ、何かが本当に存在するという主張ではなく、そう見えているということにすぎない。この最後の一歩が、単なる現実批判と、非二元との大きな違いなのですね。 with Claris

