個別の自己がないと気づくには、自己をなくそうとするのではなく、そもそも自己が存在するのか、直接確かめてみることです。
1. 見ている「私」はどこにいるのか?
今、目の前に何かが見えています。通常、私たちは「私がそれを見ている」と考えます。では、見えているものとは別に、「見ている私」を見つけられるでしょうか?
身体は見つかるかもしれません。しかし、その身体もまた、見られているものです。見られている身体と、見ている主体は、本当に別々のものとして存在しているのでしょうか?
答えを頭で出すのではなく、直接確かめてみてください。
2. 思考している「私」はいるのか?
思考が浮かんできます。では、その思考を生み出す「私」が、思考よりも先に存在しているでしょうか?それとも、思考が現れた後で、「私が考えた」という解釈が生じているのでしょうか?
思考はあります。しかし、思考を生み出す独立した思考者は、直接見つかるでしょうか?
3. 行為者のいない行為
手を動かしてみてください。手が動いています。では、その動きを開始させる独立した「私」を、動きそのものとは別に見つけられるでしょうか?「私が動かした」という考えも、経験の中に現れたものです。
身体の動き、感覚、意志、思考。それらは現れています。しかし、それらを所有し、操作する独立した中心が、本当にあるのでしょうか?
4. 気づいている「私」も探してみる
見る私が見つからない。考える私も見つからない。すると、「それらに気づいている私がいるのではないか?」と思うかもしれません。
そこで、その「気づいている私」も探してみます。気づきがあることと、気づいている個別の自己が存在することは、同じでしょうか?
気づきを所有する誰かが、気づきそのものとは別に存在しているのでしょうか?もし、その誰かに気づくために、さらに別の観察者が必要だとすれば、観察者をどこまでも付け加えることになってしまいます。
もしかすると、最初から独立した観察者を想定する必要などなかったのかもしれません。
最後に
個別の自己がないと気づくために、特別な体験が必要なのでしょうか?今、音が聞こえています。視界があり、感覚があり、思考も現れています。
それらが現れていることは、直接確かめられます。しかし、そこに独立した「私」が存在するということは、直接確かめられるでしょうか?
自己が消える特別な状態を待つ必要はありません。自己がないという結論を信じる必要もありません。ただ、自己があると思っている、その自己を探してみるのです。
見つかったものが身体であれ、思考であれ、感覚であれ、それもまた経験の中に現れているものではないでしょうか。
自己がなくなることではなく、もともと独立した自己があったのかどうか。その違いが、探求の核心なのだと思います。 by Claris
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