改善より見守ること

幼い頃の生育環境がその後のその人の人格や人生に多大な影響を与えることになる、という事は現代においては誰もが知っている周知の事実ですね。

ところが私が思うに、そのニュアンスは間違って理解されているように見受けられます。本当のところ、環境に影響されるというよりは、それで出来ているのです。

もう少し丁寧に説明すると、我々に元々与えられているのは遺伝子とそれによって作られた肉体だけなのです。その人の内面を形成しているマインドは、当初存在してなかったのです。

影響されるという意味は、元々何かがあってそれが環境によって変化させられるということなのです。

サイコロのような形をしたスイカを見たことがあると思いますが、あれはそうした形の箱の中でスイカを育てる事で、その影響を受けてその形になったわけです。

けれどもその箱がなくてもスイカは自らの形に成長することができますね。一方でマインドは、マインドを持った家族に囲まれることでしか発生しません。

何もないところにマインドが生み出されるのですから、それは影響されるというレベルではなく、親などの家族のマインドが材料となって作られるのです。

意味が伝わったでしょうか?影響を受けるのと、それで出来ているのとの違いは絶大であり、それをどう考えればいいでしょうか?

もしも自分のマインドが気に入らないとしても、それを望むようなものに変えることは出来ないと知ることです。

鉄の板をどれほど磨いたところで金の延べ棒に変えることが出来ないのと同じことです。だから改善しようとするのをやめること。

そして唯一のできる事とは、マインドの働きを小さくするのです。あなたのマインドが様々な反応をしても、それを見ている側になる練習をすること。

そうすればどんなマインドであれ、その影響を見守りながら生きていくことが可能となり、それはより自分の本質に近づくことにもなるのですね。

親2世が生きている

ここで話題にしている「親2世」という言葉は、私が作った言葉なのですが、親のコピーとも言えるような人格のことを指します。

誰がそれを作るかといえば、四歳から六歳くらいまでの間に、子供が自らのマインドの中に自覚のないままにこしらえてしまうのです。

その理由はいくつか考えられるのですが、きっとケースによってその理由は少しずつ違うかもしれません。

例えば親から毎日口うるさく説教されたなら、そうやって自分を責める親2世が作られるのです。

そうすることで、親に責められる前に自分の中で自分を責めることになって、親から責められることが少しでも軽減されるかもしれないということ。

あるいは、親に死ね死ね!と言われて育ったとしたら、その耐え難い苦しみから逃れるために、自分に対して死ねばいいのにという親2世を作るのです。

そして親2世側の自分になることで、責められる側の苦しみから逃れることができるわけです。

いずれにしても、幼い子供が親2世を作るのは、切実な自己防衛のためだったということが言えるのです。

誰のマインドの中にも親2世は存在しています。それを見つけて、何と言っているのかを聞いてあげると、どのように育てられたのかを理解する助けになるでしょうね。

残された人生で向き合う唯一のこと

私たちのような自意識を持った生物である人間にとって、最も受け入れ難いこととは、「私」という個人はいないということです。

もちろんそんなことは考えたこともないし、聞いたこともないという人が今でも大多数であることは想像できます。

けれども、情報が溢れかえる現代において、誰だってきっと一度や二度どこかでそれらしき事柄を聞いたことがあるはずなのです。

その時にどんな反応をするのかが、人によって全く違ってくるのです。私の場合はどうだったかというと、一瞬にして何か救われた感じがしたような記憶があります。

それは直感的に、自分が体験するあらゆる苦しみというのは、外側にその原因があるのではなくて、自分自身が内包しているものだろうと感じていたからです。

そしてそれは単なる情報としてやってきただけではなく、ある種の体験としてやってきたのです。長続きはしませんでしたが…。

今では人生の多くの時間を自我として生きている一方で、それがイメージに過ぎないことを見抜いている本質側からの感覚もあるのです。

「私」はいない、自我はイメージに過ぎないと理解することでしか、本当に救われることはないのです。

それをより深く体得していくことだけが残された人生で向き合っていく唯一のことなのだと思うようになりましたね。

問題行動は助けになる

このブログでは、何度も繰り返して「問題行動」について散々書いてきましたが、あらためて「問題行動」とは「問題視してもらうための行動」のこと。

幼い子供が、親に対して自覚があってもなくても何らかの不満を抱えているときに、それを直接表現できないとそれを行動で表現しようとするのです。

言葉で表現すれば、私のことだけを見ていて、私の気持ちをもっと分かって、私は寂しい、私は◯◯して欲しい…。

こうした明確な思いになっていなくても、つまり子供自身がそのことをはっきり自覚できていなくても、心の不具合を伝えたいということです。

私の場合は、「自家中毒」が常套手段でしたね。何も悪いものを食べていないのに、吐いて発熱して、お腹が痛くて下痢してという状態になるのです。

何も吐くものがないのに、繰り返し黄色い胃液ばかりを吐いていたのをしっかり覚えています。あれは、ネガティブな感情のエネルギーを物質化したものを吐いていたのだと。

もしもあの時に、自家中毒を発症していなければ、もっと多くの否定的な感情のエネルギーを溜め込んでいたことになるのです。

そういう意味では、問題行動はそれなりの助けにはなっていたということです。本当にひどい環境では、子供は問題行動すらできない可能性がありますね。

考えただけでも悲しくなってしまいます。大人になってもそれなりに問題行動を起こしている場合がほとんどですので、その自覚が出来ると癒しへのきっかけになるでしょうね。

「イエス」だけでは自我は育たない

私たちは誰もが自我として生きています。これが大前提でのお話しですが、私たちの応答を単純に表現すれば、「イエス」か「ノー」になるのです。

なんとなくですが、この世界では「ノー」ばっかり言う人よりは、「イエス」と答えてくれる人の方が好感が持てますね。

なぜなら、「ノー」を返されるよりも「イエス」と言われた方が嬉しいからです。「イエス」を貰えば、自分の期待に応えてもらえたと感じるからです。

逆もまた然り。ところが、自我が生まれて成長していく大切な時期においては、家庭内でしっかりと「ノー」を表現することが絶対的に必要なのです。

自我というのは、「私」という存在を明確にしなければならないのですが、それは他人と自分の違いを際立たせるということ。

つまりは、「イエス」だけでは周囲に埋もれてしまうので、繰り返し「ノー」を表現することで「私」の存在が明確になるのです。

自我の発育期に思う存分「ノー」を言えなかったとしたら、自我は未発達のまま大人になってしまう可能性があります。

「ノー」が言えない理由は、その家庭の事情により様々あるのですが、その中でも分かりづらいケースとして、親があまり「ノー」を言わないということもあります。

子供は親を見て学ぶので、「ノー」を含めたあらゆる自己表現が親の側で足りていないと、子供も同じような生き方を選んでしまうことになるのです。

そうした場合には、子供の側では親に対する不満は自覚できないかもしれません。そうなると、癒しの糸口が見つけにくくなってしまうはずです。

いずれにしても、幼い頃に家庭内で「ノー」を繰り返し使ってこなかったという自覚があるなら、そこを癒していく必要があるということですね。

不可能性に救われる

数年前くらいから、日本の皇位継承の問題が取り沙汰されるようになりましたね。候補となる男性が少なくなっている現実があるからです。

あまり詳しくないですが、次の天皇を決める時にこれまでずっと男系男子、特に男系(父系)が絶対条件でした。

というのも、そのルールを守っていれば、父方の先祖を辿れば初代天皇である神武天皇にまで直接繋がるからです。

2000年以上の長きにわたるこのような事例は、世界中探しても見当たらないでしょうね。ではこのようなルール決めのメリットは何でしょうか?

それはお隣の大国の歴史を見れば明らかなのですが、戦いに勝って国の支配者になった者が、国の王者になれるので、その度に国名が変わるのです。

これまでの国が亡くなって、新しい国が出来上がるわけです。ところが日本の場合は、どれほどの力を持ったとしても、国を転覆する事は出来ないのです。

なぜなら時の最高権力者といえども、天皇になることが不可能だからです。そこだけは父方の血を引いている絶対的な条件が必要なのです。

この縛りを破って、我こそが天皇だと声高に叫んだところで、全国民から総スカンを食らうことになるでしょう。

つまりは、男系男子のルールが日本国を護る役目を果たしていたという事です。で、私がお伝えしたいのは、不可能性のメリットです。

とかく社会では、努力すればどんなことでも叶うという事を肯定的な事として言ったりしますが、それが自我を活性化するのです。

どんなに可能性が小さくてもゼロでなければ、チャレンジは続けることができるからです。一方で不可能と分かっていれば、そこにエネルギーを費やす必要がなくなるのです。

その時、マインドは初めて鎮まりかえることになるのです。戦うことから解放されるのです。自我は穏やかになって、代わりに至福感がやって来てくれるのですね。

無償の愛

母親が運動不足にならないように、時々家の近所を一緒に散歩するようにしているのですが、その時に微笑ましい光景を見ることがあります。

ある夏の暑い日、真っ白いわんちゃんがしゃがみ込んでゼイゼイいっているのです。その両脇に飼い主のご夫婦がいて、わんちゃんをウチワで一生懸命あおいであげているのです。

そんな光景を見たことがなかったので、ちょっとだけお声がけをしたことがあったのです。それから、しばらくしてまたそのご夫婦がわんちゃんを散歩させているところに出くわしたのです。

わんちゃんは体重のほとんどをご主人が支えている状態で、何とかゆっくり歩けるという状態でした。それでも一生懸命歩いている姿がちょっと感動させてくれるのです。

今日また散歩をしているときに、そのご夫婦とわんちゃんに会ったのですが、今回はもう完全にバギーのようなものに乗せられていました。

いつも思うのですが、そのご夫婦の無償の愛がすごいなあと。そのわんちゃんは人間で言えば、完全な認知症のレベルで自分が何をされているのか、分からない状態なのです。

わんちゃんからのどんな見返りも求めることなく、とにかくできる限りのことをしてあげているそのお二人の姿がすごいなあと。

それに引き換え、この世界には「誰のおかげで飯を食えていると思ってるんだ?」などと威張り散らす父親もいるのです。

誰が考えても雲泥の差なのですが、そんなバカなことを言う父親であっても、癒しをして過去に縛られずに生きることができれば、無償の愛が使えるようになるはずですね。

自己イメージを疑ってかかる

私たちはみんな自分のワールドで生きています。自分以外の誰かのワールドを直接知ることは決して出来ないのです。

例えばあなたがこのお菓子は甘くて美味しいと言ったとき、お友達が確かにそうだねと言ってくれたとしても、その人の味覚を直接体感することはできません。

自分と同じものを感じていると証明することはできないのです。結局は違うワールド同士で、お互いに類推し合うしかないのです。

だから自分のワールドが全てなのです。それなのによく言われることですが、「人の事はよく分かるけれど、自分のことは気づきにくい」というのがありますね。

どうも真逆のような気がするのですが、でも誰もが経験していることでもあります。なぜそんなことが起きるかというと、実は自己イメージの存在がカギなのです。

私たちはいつも幼い頃から作り上げて来た自己イメージをまといつつ生きているのです。その自己イメージが現在の実際のあなたと違っていたらどうでしょう?

他人は実際のあなただけを見ているのに対して、あなたはそれとは違う自己イメージのワールドで生きているのです。その逆もまたしかり。

例えば、A さんのことを周りの誰もがごく普通の人物だとみていても、本人が「自分は人よりも劣っている」という自己イメージを持っていたとします。

すると、A さんは何かにつけて自分なんて…のような態度をとるかもしれません。この場合、A さんは自分の本当の姿を知らずに生きていることになるのです。

私たちは自分の自己イメージを信じ過ぎてしまっています。一度自己イメージをしっかり見直してみて、それが理に適っているかを検証してみて下さい。

多くの場合、あなたの自己イメージと現実のあなたとは食い違っているものです。良いイメージはそのままに、否定的な自己イメージを疑ってみることをお勧めします。

自分の手に自分の人生を取り戻す

ウツ症状で苦しんでいる人は、自分以外の誰かの人生を生きようとしてしまったことが原因なのです。

自分以外の誰かになろうとするなら、その不可能の中でもがき苦しむことになるのは当然と言えるのです。

あなたが自分以外の誰かになる必要などないし、そもそも自分のままでいることしかできないのですから。

もしもあなたが誰かの言いなりの人生を生きているなら、それは奴隷と同じことになってしまいます。

それだとその誰かの人生をあなたが代わりにやっているのと同じです。それはウツになっても仕方がありません。

そして自分は一体誰なのかが分からなくなってしまいます。あなたは誰の言いなりになる必要もないし、他の誰かを言いなりにする必要もありません。

私たちの一人ひとりは、みんなそれぞれに別々の人生を生きているのですから、あなたの自分オリジナルの人生を取り戻すことです。

そのために最も必要となるものは、ズバリ「勇気」ですね。勇気を振り絞って、オリジナルのあなたを探しにいくことです。

きっと見つけることができるはず。その出会いは、一生忘れることができないものとなるでしょうね。

思考だらけの毎日

私たちのあらゆる体験全般を考えたときに、そこにある現実やあるいは夢や、イメージなどがあると思うのです。

そして私たちはそれらは決定的に違いがあると信じています。それはそうですよね、夢と現実とイマジネーションが同じとは思っていないのです。

けれども、マインドを通して生きている限りは、結局のところそれらに違いを見つけることはできないのです。

なぜなら、マインドに浮かぶ「思考」という意味では同じだからです。現実を見るとき、そこでは思考経由で見てしまっています。

当然のことながら、夢もイマジネーションも同じようにマインドにやってくる思考であるということです。

自我として生きている限り、マインドが活動しているので全ては思考なのです。なかなか受け入れ難いかもしれませんが。

これが自我の本性です。あなたが目の前にいる素敵な人を見ている時、一つの思考が浮かぶのです。

あなたが夢を見ている時、あるいは何かをイメージしている時にも、同様にして一つの思考として現れるのです。

思考思考思考、思考だらけの毎日。もしも思考から離れるなら、その時にだけ自我は消えるのですね。その時には個人としてのあなたは消えてしまうのです。