正しさのバカバカしさを見る

私は、セッションやこのブログにおいて、日頃から「正しさ」ほどバカバカしいものはないので、ゴミ箱に捨ててしまえと言っているのです。

正しさとか正義というのは、その人にとっては大切なものかもしれませんが、他人にとっては全くその限りではないのです。

そして正しさや正義というものに寄りかかって、それを鎧のようにして生きることは長い目で見れば、非常に息苦しい人生になっていくことになるのです。

ある人から聞いた話しですが、今から数十年も前のことです。満員電車の中で、ぎゅうぎゅう詰にされたある女性が、駅で降りようとしています。

けれども、車両の真ん中にいたために、ドアのところまで進んでいくことができなくなってしまったのです。

それで彼女は必死に「おろしてください」、「おろしてください」と大声で訴えたのです。

そのときに、近くにいた男性が「おろしたいのなら、作るな」と言ったのです。これを聞いた乗客たちの多くは、ゲラゲラ笑ったのです。

そして、それまで殺伐としていた車内がほんの少し和んだおかげで、彼女は隙間から降りることができたというお話です。

その当時だから、笑える話だったのでしょうけれど、今であれば相当なセクハラだと言われても仕方のないことです。

きっと誰も笑うどころではないはず。たった数十年の時差しかないのに、これだけの違いが正しさに出てきてしまうということです。

正しさというのが、どれほどいい加減なものか分かるというものです。今日のあなたの正しさが明日はどうなるか分からないのですから、それに頼ることが如何にバカバカしいものなのかを見ることですね。

今日も二刀流で生きる

二刀流といえば、かつてはあの宮本武蔵が両手に刀を持って、攻守を同時に行った戦法で有名ですね。

今では、エンジェルスの大谷選手が投手であると同時に打者でもあることから、二刀流選手と言われているのです。

私の場合、この二刀流というのは一方では自我として生き、もう一方では本質からこの世界を眺めるということになるのです。

残念ながらごく普通の人間なので、覚醒したりすることはそうそうないなと分かっているので、少なくとも自我は健在なわけです。

とは言っても、自我100%ではとても生きられないことも知っているので、本質から世界を見るというのも同時に実践しているのです。

なんというか、今の自分のレベルでのせっちゅう案ということになるのでしょうね。今の自分に出来ることをただやっているだけです。

もう決して自我だけに戻ることはないと断言できます。それでは生きていけないと知っているからです。

そして何か、困ったことや辛いことなどが起きるたびに、自分の本質への感覚が大きくなっていくように感じています。

この二刀流の生き方、結構お勧めですよ。

全ては全体がやっている

この生の唯一の目的は、自分の本質に気づくこと。自我は実在しないと気づくこと。これに尽きると思っています。

そうした気づきを得るまでには、何層もの邪魔が入るのですが、それはこれまでに培ってきた知識や常識がブレーキとなるからです。

自我を自分と同一視してしまった人生しか知らないので、本当の自分などと言われたところで、何を戯けたことを言ってるんだと取り合おうとしないのです。

けれども、個人としての自分がいるという感覚は確かにあるけれど、どうもそれはおかしいなという感覚も感じてしまっている人もいるのです。

そういう人は、その疑いを大切にするのです。なぜなら、何かがおかしいということの原因を突き止めたいからですね。

自我は実在しない、つまり個人というのは存在しない。この世界、この宇宙であらゆることが起きているけれど、それは唯一の全体の仕業だということ。

だから個人として生きているつもりになっているあなたには、どんな責任もどんな罪も何もありはしないのです。

何も正しいものなどないし、何も間違いということもないのです。私たちを通して、全体がことを起こし続けているということ。

それが腑に落ちたら、これまで感じたことのない開放感を得られるはずです。全部全体にお任せでいいんだと。お任せする自分もいないのですけどね…。

結果ではなく原因を見るべし

今日のブログは上記の題名を見ても明らかなように、誰でも知っている内容になると思います。それでも敢えて書くのは、多くの人が結果に重きを置いているからです。

もしも勉強をせずにテストで0点を採ったなら、原因は明らかですが、猛勉強して0点を採ってしまったら、真剣にその原因を探すはずです。

このようにして、原因がないのに結果だけが現れるということはこの世界では通常ありません。

もしも突然突発性難聴になったら、他人からの罵詈雑言を黙って耐えて聴いていたことが原因かもしれません。

原因を突き止めることができれば、そこから自ずと改善していく手段が見つかるはずなのです。

逆に原因が特定できなければ、結果をいくら改善したところでいずれはまた同じ結果が繰り返される可能性大なのです。

私の見る限り、クライアントさんの多くは自分の状態(症状)という結果をどうにかして改善したいと願っている割には、その原因を見つけようと努力しないのです。

その理由も同様にして原因がちゃんとあるのです。それは、もしも症状が治ってしまうと都合が悪いと思っているマインドの部分があるからです。

そうしたマインドがあるのも、ちゃんと原因があります。それは、幼い頃に自己表現が足りずに怒りが溜まっていて、問題行動を継続しようとしているのです。

自己表現が足りなかったことの原因は、恐怖や不安、罪悪感や自己嫌悪感などがブレーキをかけたのです。

そうした環境だったということです。このようにして、どこまでも原因を追求していくことで、最も根本となる原因が分かり、そこから癒しを進めていくことができるのです。

自分をいつも観察して、結果をどうにかしようとばかりしていないか、きちんと原因を探そうとしているのかを見極めることです。

お一人で原因を探すことが難しいと感じるのなら、初めのうちだけでもプロの力を借りることをお勧めします。

絶対的な安心感

ごく普通の平凡な人生を生きてきて、それは今もそのままずっと変わらないのですが、どういうわけか自分の本質に気付こうとする人生になったのです。

会社員を辞めたことが一つのきっかけになったことは確かだと思うのですが、それでも自分のことが不思議で仕方なく思える時がたまにあるのです。

幼少期の家庭環境はごく一般的だったし、学生時代も社会人になってからもこれといった特徴があったわけではないのです。

やはり人の内側を深く覗いている間に、何かしら気づきがあったのかもしれないですね。どんなクライアントさんに対しても共通する何かがあると。

それは自分自身とも同じもので、それは絶対的に救われているというどこからくるのかは分からない確信のようなもの。

なぜか、この現実というのが夢を見ていることとダブってくるような感覚。目覚めたら、な〜んだそうだったのかという安心感。

それをもっと自分でも知りたくて、さらにそれを多くの人とも共有できるはずだと思っていて、できれば誰もがその絶対的な安心感に気づけるはずだと。

これもどこかで分かっていることなのですが、私自身の気づきの深さに比例して、気付く人が増えていくのだろうなと。

全体性を分かり合える人

「人生観」という言葉は一般的なものですし、一度や二度自分の人生観はどんなものだろうと考えたことがある人は多いかもしれません。

そしてもう一つ、「国家観」という言葉もあります。今、自民党の総裁選の真っ只中であって、ニュースを見ていると候補者の方々の国家観が問われていたりします。

それを見ていて、ああ自分にはこれといった、人に誇れるような国家観など微塵もないなあというのが本音なのです。

とはいうものの、自分のことは高い棚に上げておいて、しっかりとした国家観を持った候補者が総裁になり、結果として総理大臣になって欲しいとは思うのです。

それでは、人生観も国家観も持ち合わせていない自分には、一体何があるのだろうと思ったところ、ちょっと分かりました。

それは、ノーマインド(全体性)に帰するということです。こうしたことを分かり合える人なら、政党などに拘らないのです。

これをどんな言葉で表現すればいいのかは分かりません。宗教という言葉も自分にはそぐわないような気がします。

あなたが大切にしているモノ、一緒にいたいと感じる人とは何を共有できたらいいなと思っているのか、一度しっかりと見つめてみてもいいと思いますね。

大人は子供で出来ている

私がこれまでにお会いしたどの方であっても、その人のマインドの中には確実に子供の頃のその人が棲んでいると知ることになりました。

内側にひっそりと潜んでいることもあれば、すごく活動的に暴れ回っている子もいたりと、それはもうさまざまです。

こうした内なる子供のことをインナーチャイルドと呼んだりするのですが、それは概念的なものではなく、エネルギーとして実在しているのです。

といっても、身体があるわけではないので、直接目に見えるものではありませんが、声が聞こえることもあるし、その子の感情が丸々表出してくることもあるのです。

もしもその子が恐怖などから身を守るために作り出した信念を持っているなら、それは大人になってから作り出した信念など、比べようもないくらいに堅いものなのです。

そのため、大人になってから持つことになった理性などでは、とても太刀打ちできるようなものではないくらい強力なものとなるのです。

幼虫がサナギになって、そこから更に脱皮して成虫になっていくようには、単純に私たちは子供が脱皮して大人になっていくわけではないということ。

なぜなら、私たちには自我(マインド)があるからです。それはいつでも過去と強く繋がっているからです。

過去はもう過ぎ去ったことなので、全て無視して明るい未来に向かって生きていけばいいのだという、うわべだけの良さげな言葉に騙されないことです。

あなたのマインドは子供のままの部分が多分に含まれているからです。そのことを忘れずに、自分を見つめてみることですね。

自我は「ここ」に到達できない

自我というのは、いつもいつもほっつき歩きたがっているものです。だからこそ、重罪を犯したものへの見せしめとして、狭い独房というのが用意されています。

薄暗い独房に何年も閉じ込められていることをイメージしただけで、気が遠くなるほど堪え難い気持ちになりますね。

それは、自我がじっとしていることがとても苦手だからなのです。だからこそ、自我は本質的には瞑想が苦手なのです。

物理的に一箇所にじっとしているとしても、マインドの中ではあっちに行ったり、こっちにフラフラしてみたりをずっと繰り返しているのです。

自我は、「ここ」にいられない存在なのです。言い換えれば、自我は「ここ」には到達することができません。

もしも「ここ」に行き着いてしまったとしたら、自我はもたずに崩壊してしまうはず。それをまず理解することです。

そしてその真逆ですが、私たちの本質は常に「ここ」に在るのです。「ここ」というのは場所のことではなく、全体性のことです。

今あなたが目の前のものを見ているとき、あなたの本質は「ここ」から見ているのですが、あなたの自我は肉体のある場所から見ていると思い込んでいるのです。

その違いをいつも気づいていられるように、何度も繰り返して練習することが大切ですね。

自分を守り続けたいという思い

いつも感じていることではあるのですが、セラピストというのは本当に無力だなあということです。

クライアントさんの協力がなければ、それこそ何もできないのですから。クライアントさんは、常に恐怖と戦っているのです。

セラピストが、その恐怖を外してあげることができればいいのですが、それもなかなかどうして難しいのです。

そうした恐怖というのは、実は思考によって作り上げられたものなので、大丈夫だからそこを見てみましょうとお願いするのですが、それはこちらの勝手な言い分でしかありません。

最終的にできることは何かというと、とても弱腰に聞こえるかもしれませんが、信頼することしかできないのです。

信頼というのは、どんなことであれ起きることを受け入れることなのです。自我にとってはとても難しいことですが、一瞬でも自我が静かであるときにそれを感じられるのです。

何がどうなろうと大丈夫。私たちは初めの初めから救われているのだからという地点に着地できたら、それは人生から戦いが消えていくことを意味するのです。

違う言い方をするなら、自分を守り続けたいという幼いインナーチャイルドの思いが、少しずつ薄れていくことに繋がるのだと思います。

答えを持ち歩かない

ネットのニュースを見ると、今は自民党総裁選の真っ只中ということもあって、立候補した方々の質疑応答を幾度となく見ることになりました。

それで思ったのですが、彼らはどんな質問が来てもいいように、前もって準備をしていてこの質問にはこう答えようと予め決めているのだろうと分かるのです。

それはそうでしょうね。国民の前で答えに窮してしまった姿を見せてしまったら、落選してしまう可能性が高くなってしまいます。

それと比べるのはどうかと思うのですが、クライアントさんとのセッションにおいては、実は何も決め事がない状態でスタートするのです。

ですので、その日のクライアントさんの状態次第でどんな内容のセッションになるのかがその瞬間ごとに決まっていく感じなのです。

だからセッションの終わり近くなって、必ずこのような結論で締め括ることになるなんてこともないのです。

私自身がどういう内容のセッションになるのか、全くわからない状態で進行していくのですから。

実は今自分はこんなことを口走っているけど、それはどうなんだろう?と思っていたりもするのです。これはクライアントさんには言わないですが。

同じ質問をされたとしても、クライアントさんによっては全く違うことを説明していたりすることはよくあるのです。

答えを持ち歩かないということを心がけている方が、きっと自分のエゴの影響が少なくなるのかなと思っていたりします。