音を通して気づきを見る

今回は聴覚に特化した非二元のワークをやってみたいと思います。

ステップ 1: 静かに耳を開く

今の環境にただ耳を向けてみてください。エアコンの音、鳥の声、車の音、部屋の物音…どんな音でも構いません。

ステップ 2: 音はどこにありますか?

• その音は「外」で鳴っているように感じますか?

• あるいは「頭の中」で聞こえているように感じますか?

• もう少しよく観察すると、音はただ「現れている」だけで、実際に「内」と「外」の区別はありません。

音は「気づき」という開かれた場にただ現れている、と見えてきます。

ステップ 3: 聞いているのは誰?

• 音は現れています。

• では「それを聞いている誰か」は見つかりますか?

• よく探すと、「聞いている私」という中心はなく、ただ音が起きては消えているだけです。

ステップ 4: 音も感覚も同じ場にある

以前に実践した「身体感覚」も、今の「音」も、どちらも区別なく同じ場に浮かんでいます。

どちらも「気づきのスクリーン」に現れては消える現象にすぎません。

ステップ 5: ただ休む

しばらく「音がある/ない」「感覚がある/ない」を追わず、すべてが自然に現れては消える気づきの場にくつろいでみてください。

感覚が変容することはない

非二元の中へと入っていくと、ここには誰もいないとか身体もないということに気づくことができます。

ところが、不思議なことなのですが、これまでの二元の世界での見え方が何か変わったのかというとそうでもないのです。

というか、見え方や感じ方には少しの変化もないのです。それなのに、ここには身体がないというのも明確になっているのです。

これはどれほど他人に説明しようとしたところで、簡単には理解してもらえるようなことではないのは当然です。

かつて、探究の唯一の手段として瞑想を続けていた時には、覚醒に近づくにつれて自分の普段の感覚が変容するはずだと思い込んでいたのです。

けれども、そういうことではないのですね。これまで通りの見え方、感じ方が続く一方で思考による作り込みを分離できるようになるだけなのです。

その結果、元々の経験、体験が明確になるということなんですね。これが本当にあるがままを体験するということなのかなと。

それこそが非二元のワールドなのですね。

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ただ在ることのシンプルさ

非二元でいうコレは、シンプル過ぎて一切の説明ができないほどだし、それを捉えることや、理解することもできないのです。

たとえば、色という現れが無数に散らばっているとしても、本質的には均一であるということに気づけるでしょうか。

そのシンプルさの中には、時間もないし、空間もない。あらゆる境界もないし、分離もない。つまり個別性もないのです。

コレにはどんな構造もないし、関係性もありません。そのため、モノもないし、もちろん身体もない。

誰かもいないので、自分が身体の中にいるということもあり得ないと分かります。そんな複雑怪奇なことは起きようもない。

我々が暮らしている二元の世界が複雑に感じるのは、その全てが思考によって想像されたものだからなのです。

非二元においては、今というのは時間ではないし、ここというのは場所ではないのです。そんな特別なものは存在できない。

ただ在るということのシンプルさとともにいること以外、何もないのです。そしていつもあるのはただのコレ。コレより他はない。

個別性の消滅

身体は見かけだけで単なる現れであって、他の全ての物体と同じようにその実体はないということが明確になりました。

つまり、身体なんてないということです。となると、次にやってくるのは個別性の消滅という何とも大胆な結論です。

私たちは、個別性の象徴である身体と結びついているという想いによって、自分自身の個別性を担保しているのです。

特定の身体との結び付きがあるからこそ、他人と自分を区別できるし、そこには明確な分離があると思えるわけです。

その個人としての私が、身体からの様々な感覚を感じたり、何かを思考したり感情を味わうことで、そうしたことの全てが個人的なものだとなるのです。

ということは、その個別性の拠り所である身体がないのであれば、そこにはどんな個人もいないということになるのです。

あなたが感じているあらゆる痛み、そしてどんな思考も個人的なものではなかったということになるのです。

このことが深く腑に落ちた時、私たちはどんな苦しみからも解放されることになるはずなのです。

なぜなら、苦しみの根本は個別性という幻想にあるからです。妄想によって作られたどんな分離もなくなってしまえば、ここは天国になりますね。

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「ここから向こうを見ている」という幻想

昨日のブログでは、身体は単なる見かけだけで実際にはない、ということを明確に気づけるようになったということを書きました。

そしてそれは、目を開けている状態であっても分かるようになったのですね。つまり、身体のようなものが見えていてもということ。

そして、その一方ではまだ自分が身体の中にいるような気がすることは継続しているということも書きました。

その理由の一つについてはっきりしたことがあるのですが、それはこの二元の構造をイメージしているままだからだなと。

つまり、ここから向こうを見ているという感覚があるのです。そして「ここ」というのは身体のある場所なわけですね。

だから、身体と私の居場所が一つであるがために、身体の中にいるという感覚が拭えずにいるということだったのです。

身体はないということがはっきりしたとしても、こうした二元構造を抱えたままであることで、身体の中にいる感覚を生み出し続けていたのです。

理由がはっきりしたので、二元構造が空想に過ぎないことを意識するようにしてみようと思います。

要するに、「ここから向こうを見ている」→ 「色や形(という経験)が起きている」と気づいていればいいのですね。

 

「身体はない」という気づき

身体の中に閉じ込められてるという感覚から解放されたくて、これまでさまざまなワークを考案しつつ実践し続けてきているのです。

そして、例によって目を閉じて身体を意識すると、スーッと身体は消えていってしまうようにはなったのです。

その時ふと、ああ身体の中って空洞だなっていう感覚がやって来たのです。身体の中は肉や内臓や骨などでぎっしり詰まっているというイメージがあったはずなのに。

その空洞さがやって来た時に、物体だと思っていたものの実体がやはりなかったんだと、改めて気付かされたのです。

この身体は、壁やテーブルなどと同様に現れでしかなくて、中身はなかったんだということがより明確になったのです。

もっとはっきり表現してしまえば、「身体はない」ということです。そしてこの感覚は、目を開けた状態でもしっかり残っていてくれるのです。

これは自分にとってとても大きな成果かもしれません。さらに、身体の中に閉じ込められている感覚をなんとかする必要もないということにも気づけたのです。

「〜な気がする」を無理に解決しようとせずに、直接経験の検証を続けていけばいいのだということですね。

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諦めれば解放される

私たちは、何かが自分の望み通りにいかない時に、しばらくジタバタするのですがそれでもどうにもならないと悟った時に、「もう諦めた」となるのです。

こうしたことは、誰でも何度か経験したことがあるはずです。ところが、この「諦めた」というのがかなり怪しいのです。

クライアントさんとのセッションの中で、クライアントさんのこれまでの人生をご一緒に振り返っているときに、何度も出てくるこの「諦めた」。

側から見ていると非常によくわかるのですが、本当には諦めていないだろうなと。本人は気づかないのかもしれませんけれど。

ご本人は、本当にもう諦めたと決着がついたことにしているのですが、心の深いところでは本当にはまだ諦めがついてはいないことが多いのです。

それが私たちが抱える苦しみの一つなのです。実は、100%諦めがついた事柄というのは、決して苦しみを温存することがないのです。

実際、過去の様々な出来事の中で、諦めていないことがどれだけあるかで、その人の生きづらさが決まると言ってもいいかもしれません。

心に少しでも引っかかっている過去があると感じるのでしたら、それは諦めがついていない証拠だと思ってください。

そこに気付けたら、諦めるということを全力で実践することです。真に諦めがついたなら、その事柄が当人を苦しめることはできなくなるからですね。

本当に諦めているのかどうか、過去に遡って怪しい事象を再度見つめてみるといいと思います。諦めるとは執着を手放すことに近いですね。

薄目を開けて実践してみる

この2ヶ月くらいの間の自分のターゲットは、自分は身体の中に閉じ込められているという感覚から解放されるというもの。

そのために様々な思考実験を考案しては実践してみてを繰り返してきたものの、そう簡単には解決するような類のものではないです。

とはいうものの、ほんの少しずつではあるけれど、ああそうか、という瞬間はやってくるようになってきたのです。

その中で、一番やりやすかったのは、やはり視覚を閉ざすというやり方ですね。目を閉じていることで身体も周囲の現れも同時に消えてくれるのです。

そうすることで、自分というものの場所も消えてしまいます。この時には、完全に身体の中にいるという妄想は無くなってくれるのです。

それはそうですよね。身体自体が消えてくれるのですから、その中にいるという感覚も同時に無くなってくれるわけです。

さらに言えば、ここから向こうを見ているという錯覚からも解放されるので、目を閉じていれば肉体との結びつき自体が消えてくれます。

問題は目を開けた状態に戻った時に、どうしても思考が身体の中にいるという思い込みを瞬時に発動してくるのです。

そのことに気づきましたね。要するに、目を開けている時に目を閉じていたときの感覚を忘れなければいいだけだなと。

最近ちょっと思ったのは、目を閉じた状態と開けた状態の間、つまり薄目を開けている状態にすると、現れは現れどそれに惑わされることは減るなと。

こんな感じで自分なりに工夫しつつ、実践するしかないなと。そして飽きずに、もっともっと実践していく必要がありそうです。 

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非個人的な自己を求めて

これまでの自分の人生のほとんどを、当たり前のように「一人の個人」として生きてきて、その物語の中の人物として自分のことを見ていたのです。

そして表面的にはこれからもそれは続くのでしょうけれど、内面ではもう決してそこには戻れないような気がしています。

というのも、現実というものの本当の姿に気づき始めてしまったからです。それは本当に驚愕するようなものです。

もちろん一般常識と比べてしまえばということですけれど。真実を言ってしまえば、自分はこれまで生まれるという経験をしていないと。

もっと言えば、自分が自分の人生の主役として長きに渡り生きてきた過去などというものは存在しないということ。

今この瞬間にアクセスできるどんな記憶も、それは単なる思考に過ぎないということが分かれば、当たり前のことなのです。

今この瞬間、どこをどう探しても個人的なものは全く見つけることができないため、全てが非個人的であるとしか言いようがないのですね。

物語とともに、時間も空間も個別性も全部が消え失せてしまい、跡に残るのは純粋な非個人的な気づきだけなんだなと。

自分は身体ではないという明確な経験

先日脊椎麻酔での手術を経験したのですが、上半身は何ともないのでごく普通に術中でもお医者さんや看護師さんとお話ができるのですね。

聞いた話では、局部麻酔の方が全身麻酔に比べると麻酔が切れていく時間が長いため、痛みをあまり感じずに済むと。

ああそれは良かったと思ったのですが、術後の具合の悪さは色々あって、コレはどちらが良いというわけでもないのかなと。

私の場合、麻酔が切れていくまでの時間が平均的な場合に比べてかなり長かったようで、長時間の間ベッドの中で上半身だけの自分の感覚で過ごしたのです。

その時に思ったのですが、下半身(主に太ももの外側の辺り)を幾度となく手で触れてみたのですが、何かの物体に触れてる感じしかせず。

コレは自分の身体半分がなくなってしまったかのように感じた反面、それでも「自分」という感覚は1ミリも変化していないなと。

つまり、自分という感覚には少しも損傷がないということに気づいたのです。自分とは身体ではないということを如実に現しているということになりますね。

このような経験でも、自分は身体ではないということに気づかせてくれる絶好のチャンスになったということですね。 

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