呆れて笑うしかないネタ

今日仕事を終えて、やや遅くに帰宅してみると部屋に何やら怪しげな発泡スチロールの箱が置いてあったのです。

なんらかのナマモノが冷凍状態で届いている感じで、思い当たるものが何もないので恐る恐る中を見たら、何としばらく前にオーダーしておいたステンレス製のゴミ箱だったのです。

自分の部屋のミニキッチンがステンレス製なので、それと同じようなゴミ箱を購入して、いつ来るのかなと期待して待っていたのです。

一体どこの国から輸送されてきたのやら。気を取り直して、ミニキッチンと洗面台の18cmの隙間に置いて見ようとしたら、なんと入らない。

えっ?実測してみたら20cmもある。購入履歴をみてみたら、やはり幅17cmと書いてある。これはひどい。

高さも測ってみたら、44.5cmのはずが、40cmしかない。つまり、タケは小さくなってやや小太りになったものが届いたわけです。

こんなものを堂々と配送してくるあたり、これは日本人には到底できない芸当だなと。商品のレビューページをみてみたら。

私と全く同じ目に遭った人がいて、返品を求めたらしいのですが、一円が戻って来たりと、驚きの内容が書いてありました。

つい最近の書き込みなので、私が購入する時には参考にできなかったのです。う〜ん、残念。さて、この不運はどのようにして吉に転じてくれるのか?

見ものだなあと、そんなことを思ってこのブログを書いているうちに、もうどうでも良くなってしまい、ブログのネタを一つくれたんだなと思って寝ることにします。

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「塞翁が馬」を直接経験させてもらった日

今日はとても不思議な1日でした。というのも、やったあ!よかった!と思うことが起きると、その次にはやばい!ということがやってくるのです。

ある人からのメールに、安堵したと思ったらそのすぐ後に同じ人からのメールの内容に気落ちさせられたり。

朝からこれは面倒なことになったかもな、と思ってどうしたものかと思案していたら、実際に先方に電話をしたら取り越し苦労だったと分かったり。

今日は長く待たされるだろうと覚悟していたら、その真逆が起きてすんなりと用を済まして帰ってくることができたり。

クレジットカードの更新の時期がやってきていて、サーバーの会社のサイトに入ってカード情報を更新しないと面倒なことになるなと。

そう思って気は重かったのですが、作業に入ったと同時にかつての自分が忘れないために更新の仕方をメモっていたことに気づいてみたり。

例の「塞翁が馬」を勉強させられたとしか言いようがないのです。その言葉の意味は、ネットによると次のようなものになります。

「不運に思えたことが幸運につながったり、その逆だったりするため、幸運か不運かは簡単には判断できない」

同じことがちょうど近くにいた友人の身にも起きたりして、今日は丸ごと「塞翁が馬」を教えてもらった大切な日でしたね。

子供の頃のコンフォートゾーンから抜ける

クライアントさんとのセッションを通して、私がやろうとしている心の癒しというのは、シンプルに表現するならどのようなことなのでしょうか?

それは、幼い頃に作ってしまったコンフォートゾーンから抜け出すことなのです。コンフォートというのは、居心地がいいという意味です。

それなのに、なぜそこから抜け出さなければならないのかというと、誰しも大人になっていく段階で自分のことをより知るようになるからです。

右も左も分からない子供の時というのは、例えば親の奴隷として生きている場合すらあるのです。

それでも、その子にしてみたら奴隷状態の中で何とかして自分の居場所を見つけようと頑張るのですが、そこが自分の居場所だと感じるわけです。

なぜなら、その子が生きているコンフォートゾーンの外側を知ることができないからです。コンフォートゾーンの内側がホームなら、外側はアウェーなのです。

大人になるにつれて次第に視野が広くなってゆき、奴隷生活などまっぴらごめんだと理解するようになるのです。

けれども、大人の自分が子供の頃のコンフォートゾーンから抜け出そうと頑張ってみても、そう簡単に親の引力圏から抜け出せなくなってしまっているのです。

一時的に外の世界の空気を吸って、ああ気持ちいい、自分は自由になったと感じたとしても、心理的ホメオスタシスが働いて、あっという間の元の木阿弥。

慣れ親しんだホームとしてのコンフォートゾーンへと強制的に戻されてしまうのです。だから、癒しの途中で何度ももう駄目なんじゃないかと思うわけです。

でもいずれは、見えない力が働いて新たなコンフォートゾーンへと旅立っていくことになるのだと思いますね。

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心に大きな傷を与えるのはトラウマだけではない

トラウマとは、個人で対処できないほどの圧倒されるような体験によってもたらされる心の傷のこと、とあります。

確かに、このような大きな心の傷と向き合うのは、とても勇気のいることなので、長いこと目を逸らして生きてしまうことにもなり得ます。

けれども、見方によってはトラウマになるくらいの体験というのは、本人にとって分かりやすいという点はあるのです。

逆に、本人は全く気付かぬうちにとても大きな心の傷を負ってしまう場合もあるのです。その多くは、幼い頃の日常的な親との関係性です。

子供のうちは家庭内の経験が常識化されてしまうので、どのような親子関係であれ当たり前になってしまいがちです。

例えば、子供にとって安心させてもらえないような家庭環境であると、大人になって不安が強く残ってしまうのです。

あるいは、親との心の交流が十分に与えられてなければ、困った時に助けてもらえないという信念が出来上がるのです。

こうしたことは、記憶に残るような大きなイベントがないため、大人になって過去を遡ってみても問題を見つけにくいのです。

その反面、その影響は非常に大きなものとなる可能性が大なのです。このような場合、セラピストとクライアントさんとの間に、認識の差が出てしまうことにもなります。

心にダメージを与えてしまうのは、トラウマのような一過性の体験だけでなく、日常的な毎日の経験の中にもいくらでもあるということを知る必要があるということですね。

自分が誰かを伝えることはできない

次の osho のいたってシンプルで完璧な言葉を味わってみてください。

『最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ。』

自分のことは自分が一番よく分かってる、とうそぶいている人がたまにいますが、そういうタイプの人には上のoshoの言葉は響かないでしょうね。

私たちは、自分のことを他の誰かに向かって自己紹介する時、大抵は生まれはどこで、家族は、仕事は、趣味は、好きなものは…みたいな感じで説明します。

けれども、こうした内容というのはあなた自身のことではないですよね。つまり、自分の外側の情報ばかりを並べ立てるのです。

こういう情報を属性と呼ぶのです。属性をどれほどあげていったところで、それはあなた自身のことを一つも言ってないのです。

つまり、私たちは誰も自分自身のことを説明することができないのです。なぜなら、自分が誰なのかを知らないからです。

私たちが把握している自分というのは、記憶の中にある経験などの蓄積としての自分であり、それは単なるデータです。

仮にあなたが覚醒してしまったとしたら、それはそれであなたはきっと自己紹介など到底できないはずなのです。

なぜなら、紹介する対象としての自己、自分が不在になってしまうからです。つまり、一般人であれ覚醒した存在であれ、どちらにしても自分が誰かを伝えることは不可能だということになりますね。 

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一番近くにあるもの

駐車場に停めてあるクルマのところに戻る時、それが何時になろうが文句一つ言わずにじっと待っていてくれてるその姿に1秒くらいありがとうと感じるのです。

そして好きなように操らせてくれて、どこへでも私を連れて行ってくれるのですから、本当にいい奴なのです。

同じように、何時に帰宅したとしてもいつも変わらずに優しい雰囲気で私を迎え入れてくれる生まれたての家もいい奴。

新鮮な空気と快適な温度でもてなしてくれて、静かで穏やかな気持ちにさせてくれるその胎内で夜を満喫するのです。

人間はもとより、そういったモノであっても愛情を感じることができますね。その嬉しさの中で思考が止まります。

思考が停止すると、普段あまり気づくことができずにいたものが、より明確にその存在を表してくれるのです。

身体よりも近く、マインドよりももっと近くにあって、それがなかったことなどただの一度もなかったもの。

自分の一番近くにあって、どうやっても形容することのできないそれこそが、高次元まで繋がっている自己の本質なのでしょうね。

右脳優位の人々が増える!?

人から聞いた話しなので真偽のほどは定かではないのですが、100人に1人くらいの割合で右脳優位で生きている人がいるのだとか。

私の正直な印象としては、そんなに沢山いるのかな?という感じなのですが、それでも間違いなく一定数はいるんだなと。

さらに言えば、その割合は増えてきているのだとか。今後益々右脳優位で生きる人が増え続けていくのだとか。

それが正しいとするなら、きっと左脳優位の生き方が限界を迎えたということなのではないかなと思うのです。

自然の法則によって、極端な生き方が改善されてゆっくりと左脳と右脳の正常なバランスに戻っていくのではないかと。

それにしても今のところは、ごく少数の人たちなわけですが、きっと彼らは彼らなりに生きづらさを感じているのではないかと想像しています。

なぜなら、左脳が作った現在の社会のあり方に右脳優位の人々が順応できるとは思えないからです。

なんとなく想像できるのですが、彼らの特徴をいくつか挙げてみると、

-テレビを見ない(人々の雑談についていけない)

-残業しない(出世とかを考えていない)

-嫌なことはキッパリ断る(自分を大切にする)

-空気を読まない(そういうことに興味がない)

-人にどう思われるかを気にしない(人と自分を比べない)

左脳をフル回転させて、一生懸命社会に迎合してきた人にとっては、ワガママで扱いにくい人として敬遠されてしまうかもしれません。

けれども、彼らが起爆剤となって社会の奴隷のような生き方をしてきた人に、別の生き方があるのだということを示すことにもなるのかもしれませんね。

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中心が据わる

自分の肉体とは別にエネルギー体のようなものがあるとすると、私の場合その二つが綺麗に重なっていない感じがするのです。

なんでそんなことを思うのかというと、それはその二つが綺麗に重なった時がやってくることがあるからです。

それを体感してしまった時から、普段は結構両者の間にズレが生じているのかもしれないと考えるようになったのです。

実は、瞑想をしていて普段とは違う感覚になってきたなと感じる時に、それはやってくるのです。ピタッと重なるというのか。

他の言葉で表現するなら、中心が据わると言ったようなことかもしれません。身体の軸が中心に来てそれがまっすぐ垂直になる感じです。

だからとても気持ちもいいし、何か無駄がなくなったような感覚とでもいうのか。肉体と自分が一心同体にやっとなったような。

そうなると、浮ついたような感覚が消えてどっしりとした感じにもなるのです。日頃からこの状態でいられたらいいのになあと。

本当のところはどうなのかは分からないのですが、肉体以外の身体もあるというのはこうしたことからも見えてきますね。

書類の整理整頓と向き合う

今日はいつまで経っても苦手意識がなくならない、書類の整理をしてみました。家を建て直すにあたって、まず仮住まいのアパートへの引越しの時に一度。

そして、アパートから新居への引越しでもう一度。引越しのたびに書類の整理をしたつもりだったのですが、昨日まで段ボールの中でした。

今日思い立って、台風に背中を押してもらう気持ちで大嫌いな書類と向き合うこと数時間。今一通り終わってホッとしてこのブログを書いています。

と言っても、本当にきちっと誰がみても完璧に整理整頓ができたとは思っていないのですが、自分としてはこんなものだろうと。

とにかく、どういう分類方法が一番いいのかを考え出すと手が止まるのです。まだA4の形をしている書類はいいのです。

国や役所などからくるものは、封筒などの小ぶりな物ばかりで、これをどのように整理すればいいのかが分からない。

さらに、母親関係のもの、家関係のもの、契約書関係などの様々な分け方があって、それを考えているとまたすぐに空中を見つめることに。

書類の整理中に気が付いたことなのですが、時々は整理整頓をするようにすれば、どんな書類があるのかをある程度把握しておくことができるなと。

それだけでも、少し気分がいいように感じますね。せっかく綺麗に片付いたので、これからはやってきた新しい書類をポイッポイッと棚に積んでいくのをやめることにしようと。

そう気持ちを新たにしたのでした。いつまで続くかが見ものですけどね。

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全ては関係性で成り立っている

「A君とB君が朝落ち合って、互いに楽しくおしゃべりしながら学校へ行く」というのをイメージしてみてください。

この時、主役は勿論A君とB君の2人です。その2人が「落ち合って」、「おしゃべりして」、「学校へ行く」ということをするのです。

これらの行動は、2人の関係性の中で一緒に行われることです。このように分析すると、まず初めに2人の主役の存在があると考えられますね。

その2人がいるからこそ、その2人の間に関係性というものが生まれると。私たちはそのように捉えてしまうのです。

けれども、ブッダが伝えたかったことは関係性というものがあって、その両端にA君とB君がいるように見えるのだと。

これが「縁起」というあらゆる物事の根っこにあるものです。すべての事象は、縁起という関係性によって成り立っているのだと。

つまり、関係性なしに個別の存在などないよということになるのです。これは、自我からするととてつもない失礼なことですよね。

自我は、自分はどんな環境においても存在できると信じているのですから。でもそんな単独で存在できる「モノ」などなかったのです。

ああ哀れな自我さん。残念ですが、やっぱり個別の「私」というものは存在しなかったということですね。