自我はなりすまし犯

端的に表現するならば、個人という私は思考によって出来ているのですが、本当の私は意識だということです。

もしもあなたが瞑想を苦手とするなら、それは思考によってでっち上げられた偽物の私が、本当の私に自分を明け渡すのを嫌がっているということです。

嘘をついている人はどこかソワソワしがちですが、本当のことを言っている人はドシっとして落ち着いていますね。

あれと似たようなことがあるかもしれません。偽物は嘘がバレるのが怖いのです。思考の私、つまり自我がバレるのを怖がっているとしたら、自分が偽物だということにどこかで気付いているということになります。

だから瞑想を嫌うのです。何にも従事することなく、ただ静かに座していることが難しいのは、自分が本当はいないということがバレるからです。

自分が思考(空想)の産物だとしたら、あなたならどうしますか?私は、恐怖を感じるとともにどこか救われる思いもあるのです。

ダメな自分、罪深い自分、いつか死ぬことになる自分が実在しないとなったら、それはホッとするしかありません。

自我の死は肉体の死とは関係ありませんが、大抵は肉体の死とともに自我を形作っていた思考エネルギーが分解してしまうでしょう。

そしてまたすぐに自我が抱え込んでいた惨めさのエネルギーが、次は惨めにはなるまいとして新たな子宮の中へと入っていくのですね。