結果ではなく原因を見る

映画やテレビを観るとき、それは制作された成果物を観て楽しんでいるわけです。生み出す人々の苦労を知らずに、良い映画だったとか、詰まらない映画だったとか言うのです。

クルマの運転を楽しむときも、製造された成果物としてのクルマを楽しんでいるのです。つまり、因果を考えたときには結果の方だけを体験しているのです。

けれども、映画が好き過ぎてそれがどのようにして作り出されるのかに興味が行ってしまう人もいますね。つまり、因果の原因の方を見たいと思うのです。

クルマが好き過ぎてクルマの会社に入る人もいるでしょうね。エンジンの設計をしたり、シャシーの開発をするかもしれません。

それも因果で言うと原因の方に意識が向くということです。私が思うに、結果の方を楽しむ人は一般的なレベルで興味がある場合です。

一方で原因の方を楽しめる人というのは、より強い興味を持った人の場合なのでしょう。そして後者の人の方が、対象とより深い関わりを持つはずです。

何かの専門家というのは、概ね結果よりも原因の方に携わっているのです。たとえば、セラピストという専門家はうつ症状が何かの結果だということを知っています。

つまりセラピストは人のマインドの仕組みに対して深い興味を持っているので、うつ症状の結果よりも原因に対して断然興味があるのです。

うつ症状の原因は「嫌だ!」という怒りのエネルギーを溜め過ぎてしまったことなのですが、多くの人はうつ状態という結果ばかりを見て困り果てるのです。

これは私の個人的な意見ですが、人間として生きている限りはマインドの専門家になった方が絶対的にお得です。

マインドが作り出す喜怒哀楽や病的な症状などの結果ばかりを見て、右往左往するのは賢くありません。

誰もがマインドのプロになって、興味を持って原因を見つめることができれば、世界のあり方が大きく変わってしまうかもしれません。

マインドという仕組み

コンピュータというのは、日本語では計算機と言います。つまり、原理は単純な計算を繰り返したり、組み合わせることで結果として複雑な機能を果たすのです。

所詮はインプット(入力)があって、コンピュータがそれを処理してアウトプット(出力)を出すのです。

だからコンピュータが独創的であった試しはありません。それは単に与えられたものを処理して結果を出すという仕組みなのです。

ちょっと嫌な感じがするかもしれませんが、私たちのマインドも同じようなものだということに気づく必要があるのです。

マインドは、何らかのインプットを与えられて、そのメカニズムがそれを処理して、結果をアウトプットとして出すのです。

マインドという意味のある実体があたかもあるように感じるのですが、実際は処理の仕組み、処理のプロセスなのです。

だから私がマインドの仕組みと言う時、意味としては重複しているのです。マインド自体が仕組みのことだからです。

そして仕組みが独創的であることはありません。ただの仕組みなのですから。それが個人としての私たちの本当の姿なのです。

したがって私たちが真に独創的な存在となるのは、マインド(自我)が落ちた時なのです。それまでは、各々の仕組みが作動しているに過ぎないのですね。

無邪気さはありますか?

時々クライアントさんに質問することがあるのですが、それはあなたの中に無邪気さを感じることができますか?というもの。

幼い子供が無邪気で無防備なことはよく知られていますが、実は無邪気さというのは大人でも勿論あるのです。

もしもあなたが無邪気でいる瞬間が少しもないまま毎日を過ごしているなら、それは生き方を間違えているということです。

無邪気さが持っている最大の特徴は、深刻さがないということです。だから深刻さがいつもあるのなら、当然無邪気さを使うことができなくなってしまうのです。

無邪気さのもう一つの特徴は、思考が緩んでいる状態であるということ。ゆったりとして瞬間瞬間を楽しんでいる状態なので、思考が活発にはなれないのです。

ということは当然のこととして、防衛も小さくなってしまうということです。自己防衛は常に思考をフル回転させていなければできないからです。

そして無邪気さの原動力は愛だということ。逆に深刻さ、自己防衛の原動力は不安や恐怖ですね。

自分の人生を見つめてみて、無邪気さが見つからないとしたら、それは黄色か赤信号の状態を示していると思った方がいいです。

そんな場合は、なるべく早く癒しを進めていく必要があるということですね。

あなたは環境で出来ている

あなたがあなたであることを決定づけているのは、何だと思いますか?ごく一般的には親から受け継いだ遺伝子、DNA こそが他人と区別するのに必要なものだと思われています。

けれどもそれは全く違うのです。もしも私が今回の人生で相対性理論を発見したあのアインシュタインと同じ DNA を持っていたとしたら、私も天才の仲間入りができたのでしょうか?

答えはノーです。相対性理論の発見などできなかったに違いありません。アインシュタインが私が生まれ育った我が家で幼少期を過ごしたとしても、結果は同じで、相対性理論を発見することはできなかったはずなのです。

つまり現在のあなたをあなたにしているのは、DNA というよりもあなたがこれまでに経験した環境によるということ。

アインシュタインが子供の頃、たった半年であれ全く別の環境で育ったなら、彼は違う人物になっていたはずです。

要するに、わたしたちは環境の影響を色濃く受けているのです。もっと正確に言えば、環境が私たちを作ってきたのです。

自分という個人が環境の影響下にあるというよりも、環境の寄せ集めによって自分が出来上がっていると言ったほうが正しいのです。

自分が環境により出来ているというのは、きっと承服し難いでしょうけれど、マインドの仕組みを理解すればするほど、このことが明らかになります。

あなたは環境から分離した独自の存在などではないのです。環境と一つであり、環境と繋がった存在なのです。

皮膚の外側が環境で、皮膚の内側が DNA で決まるなどというのは間違った思い込みだったのですね。

だから独立したあなたという個人なんていないんです。

知識は実践を必要とする

知識というのはただの情報であって、社会の中では多少役に立つことはあっても本質的なものではありません。

つまり本当の意味では役に立たないのです。知識がどれほど増えたところであなたの生き方が変化するということはないということです。

知識を役立てようとしたら、繰り返し実践することが必要なのです。実践することを通して理解へと変わるのです。それが自分のものとなるわけです。

そして深い理解こそが気づきというもの。私たちが真に変化するのは、深い理解によるのです。

たとえば、ネガティブな感情を感じることでその感情のエネルギーは消費されて小さくなっていくのですが、それをクライアントさんにお伝えしてもそれはただの知識に過ぎません。

何度も繰り返し実践することでしか、それを自分のものにすることはできないのです。たとえうまくできなくても、めげずに実践すること以外にありません。

瞑想についても同じことが言えますね。どれほど瞑想に関する知識を増やしたところで、これっぽっちも役には立ちません。

失敗を恐れずにただただ実践する以外には、理解に至る方法はないということです。だから誰でも例外無く始めは初心者だったということ。

分からないなりに試行錯誤を繰り返して、少しずつ気づいていくのです。それが楽しいと感じるのか、面倒と感じるのかがカギとなるかもしれません。

見られる対象としての自分

自覚が正しければ、私自身 HSP の端くれとして生きてきたように思うのです。端くれの使い方が間違っていますが、気にしないでね。

HSP とは、Highly Sensitive Person のことでつまりは超繊細な人、超過敏タイプのことを言うのですが、クライアントさんの多くがこのタイプです。

HSP の何が辛いかって勿論色々あり過ぎるのですが、それでもメインとなるのは人の気持ちや行動、結果として身近にいる人の存在が物凄く気になるのです。

だからいちいち周囲の人たちのことに反応してしまう面倒を感じて生きているのです。それをやめようにも、やめることができない苦しみ。

それがひどくなってくると、たとえ一人きりでいたとしても誰かのことを気にすることが止まらなくなって、安らぐことができなくなるのです。

幸いにも私の場合は、周囲に人がいない状態であれば突如として瞑想に近い状態になれるので、自分を見失うということはありませんでした。

だから私にとっては寂しさもある反面、一人でいる時間と空間が物凄く大切で、それをなくしてしまうくらいなら、人生に興味を失うでしょうね。

HSP の人の苦しみは、例えば透明人間になって他人から見られることがなくなれば、あっという間に消えてしまうはずです。

街を歩いていて、自分の姿が他人から見えないことを想像してみれば分かります。身体のどこにも緊張がなくなるのを感じるはずです。

ところで透明人間になることは不可能っぽいですが、どんな状況下であれ他人から見られることがなくなる方法が一つだけあるのです。

そうなったらどれほど敏感なあなたでも、悠々とした毎日を過ごすことができるのです。夢のようじゃないでしょうか?

それは個人という自分などいないと見抜くこと。つまりは覚醒することです。自我が消えれば見られる対象としての自分はいなくなるのです。

そうなったら誰と視線が合ってもびくともしないでいられるのです。同時に人生物語もなくなってしまいますが、不安や恐怖も消えてしまうでしょう。

私の身に覚醒状態が続くようになったら、真っ先にこのブログでみなさんにご報告しますが、期待せずに待っていてくださいね。

不安から逃げるな!

私たちは誰もが幸せになりたいと願っているはずであって、不幸になりたい人なんていないはずですね。

ところが実際はどうなんでしょうか?充分に幸せだと実感している人がどれだけいるか、怪しい気がします。

幸せを願って幸せになれないとき、それを環境や他人のせい、あるいは運のせいにしていないでしょうか?そうだとしたらそれは間違いです。

もしもあなたが幸せになれていないと思うなら、それは幸せを願う代わりに他のことを求めているからなのです。

それが安心、安全なのです。幸福というのは心が満たされて初めて実現するものですが、安心、安全で満たされるということはないのです。

このことはず〜っとセッションやこのブログでも言い続けて来たことです。この理屈を理解しなければ、今のままで人生は変わることがありません。

なぜ安心を求めるのかと言えば、それは不安があるからです。不安のままでいたくないと願って、ほんの少しの安心であれそれを全力で求めるのです。

その結果得られた安心は一過性のものに過ぎず、一晩寝たら明日また不安から人生が開始されるのです。

だからこれは永久ループになってしまうわけです。安心安全を求める生き方を私は自己防衛と呼んでいます。

防衛が繰り返されると、一瞬の安心の対価として自己犠牲がやってくるのです。安心は一時であるのに、自己犠牲は負のエネルギーを溜めてしまうことになるのです。

だから安心を求める人生からなるべく早く脱却しなければならないのです。そのためには、不安がやってきたときにそれに対してどんな対処もせずに、ただ不安を感じ尽くすのです。

不安と戦わず、不安から逃げず、ただ不安の中にいてそれを感じることができれば、不安を恐れなくなって防衛は小さくなるのです。

そうなったら残るエネルギーで自分を幸せに向かわせることが可能となるのです。結果は明らかですね。

自我がなくなれば自由になる

30歳になろうとする頃、初めての転職をしたのですが、そのタイミングでタバコをやめようと決意したのです。

その時の不安感を今でも覚えています。吸いたいと思ったときに、吸えなくなるのだと思うと、なんだか物凄く心許なく感じたのです。

頼みの綱がなくなってしまうような、その喪失感をこれからずっと味わっていかなければならないのかという恐れです。

ところが、いざやめてみるとそんな不安は全部吹き飛びました。当たり前ですね、あの不安感は依存心からくるものだったので、その依存がなくなると同時に不安も消えるわけです。

もう自分はタバコを必要としないという清々しさ、自由を手にした感じがしたのです。それまであまり体験したことのない感覚でした。

つまり、依存心とか執着心というのは自由を奪われた状態を作っていたのです。だから依存や執着から解放されると、一緒に自由がついてくるのです。

子供の頃に親がいなくなったら生きていけないと感じていたのですが、これも非常に不自由でしたね。

誰かに愛されたい、あるいは大事にして欲しいと願う気持ちが強ければ、それも不自由な人生になってしまうでしょう。

依存や執着を使って自分には◯◯が必要だと感じさせているのは自我なのです。だから自我が小さくなれば、必要とするものが少なくなっていくのです。

あなたの自我が小さくなって、依存と執着がなくなればなくなるほど、あなたは自由のフレーバーを感じることができるようになるでしょうね。

宿題は嫌いですか?

多くのクライアントさんとセッションを行なって来て思うのは、癒しが順調に進む場合というのは、一つのパターンがあるのですね。

それは、セッションの内容がどうかということよりも、そのクライアントさんが自分自身と向き合う時間を作ることができるかどうかということです。

セッション内でできることはとても限られているので、多くの場合次のセッションまでの時間に一人でやってもらいたいことを宿題のようなものとしてお伝えします。

それをどれだけ実践して次のセッションを迎えることができるのか、それがとても大切なのです。

何でもいいから早く治して欲しいという他力本願的な気持ちが強ければ、宿題もできないし癒しに興味がないので、セッションの内容も入っていかないのです。

ご家族や友人知人、あるいは職場の上司などからセッションを受けるように言われてオフィスに来られても、自分と向き合う準備が出来ていないことが多いのです。

初めてのセッションでうまくいきそうな印象であっても、停滞してしまうこともあるし、その逆に難しいなと思っても案外順調に進むこともあるのです。

鍵となるのは、ご本人の意識が内側に向くかどうか、宿題を実践することを忘れないか、それが一つの大事な基準となるように思いますね。

私の座右の銘は…

みなさんには、「座右の銘」というのがあるでしょうか?私は正直特別にこれと言ったものを思いつかないのです。

とはいうものの、何か一つくらいあってもいいかなと思って考えつくのは、唯一小学生の卒業の時に寄せ書きとして書いたもの。

それが、「明日は明日の風が吹く」です。当時はただ何となく気楽な感じがして自分に合ってるなと思ってこの言葉を選んだのを覚えています。

この歳になってもそれを結局思いつくということは、やはり自分にはその言葉が一番適しているということなのかもしれません。

明日は明日の風が吹く…というのは、まだやって来ていない未来のことを、ああでもないこうでもないと考えたところで仕方がない。

所詮は起きることが起きるのです。予期するのは自由だけれど、それよりは今身の回りで起きていることに意識を向けるほうが大切だということ。

そして明日のことは明日の自分に任せればいいのです。今の自分は今を楽しみ、明日の自分が明日を生きるのですから。

今を楽しむことができれば、それが自然と明日へと継続するのです。明日に対してできることはそれだけだと理解することですね。

結論として、明日は明日の風が吹くとは、今この瞬間に最大限の意識を向けろ!というメッセージだと思うのです。