本質への帰還の旅

私は高校を卒業するまでの間、ずっと親元で生活を一緒にしていました。家族とはたまには会わない時があるものの、ほとんどは毎日顔を会わす生活でした。

それが大学に入ってすぐに、アパートでの一人暮らしが始まったのです。学校が少し家から遠かったためと、一人暮らしに憧れていたからです。

家族から離れて日々が過ぎて行く時に、何となく家族はどうしてるかな?大丈夫かな?という少し気遣うような感覚がやってきたことがあったのです。

生まれて初めて味わう感覚だったので、少しびっくりしたのを覚えていますが、自分も少しは大人になったのかなと思ったものです。

けれどもそれは大人になった証などではなく、離れたことによって初めて気付く感覚なのだと今なら分かるのです。

「失くして初めて分かる◯◯のありがたさ」のような言葉がある通り、ずっと身近にあるものは、それが当たり前になってしまうということです。

で、ここからが今日の本題になるのですが、私は時々なぜ自我のような面倒臭くて辛く苦しいものと自己同一化してしまったのだろうと考えることがありました。

それは、一旦自我となって自己の本質から離れる(離れたと思い込む)ことで、本質を深く知るためなのではないかということです。

私たちの本質である全体性には、欠けるものがありません。それは全てだからです。そこには孤独も不足も不安も何もないのです。

けれども、そのことを深く知るためには一度本質と対極になったふりをすることが必要なのです。

全体性という自然から離れて、個別性という不自然な体験をすることで、全体性への渇望を通して、帰還しようとする衝動がいずれはやってくるのです。

自我の人生とは不自然なことばかりで成り立っているのです。そして行き着くところまで行った後、今度は自然が恋しくなるのです。

その先には覚醒という本質を思い出す瞬間が必ずやってくることになるのでしょうね。だから、それまでは大いに自我の不自然人生を楽しめばいいのです。