父親の実家に、代々伝わる家系図があって、始まりは武田信玄の家臣だった人だと聞いたことがあります。
武田信玄は生誕1521年12月1日の人らしいので、今から500年前に生まれたのですね。(ちなみに私と誕生日が同じです、関係ないか…)
つまりその家系図には500年くらいの長きに渡って、代々の人物の名前が記されているのです。何だか貴重な情報のような気がしないでもありません。
けれども、実際には家系などというものには全く興味もなく、いわゆるご先祖様への供養みたいなことにも興味がないのです。
500年続いた家系であろうと、それが滅びたところで何とも感じないし、お墓を守る的な感覚も全くありません。
家とか家柄、家系といったものへの執着が皆無なのです。そういうものを大事にする人もたくさんいることは知っています。
それが悪いということではないのですが、もしもそこに特別感や執着といったものが付着するのであれば、それは醜悪なものになってしまいます。
家族といえども別に特別なものではないのです。家族と共に暮らせばいいと思いますが、それでも一人でいるように生きることです。
自分が何かに縛られるようなことがあったら、それこそ不自然で不自由な人生になってしまうからです。
あなたの周りに、あなたの自由や無邪気さを奪うようなことを働きかけてくる人がいても、一切気にせずに自分のままで生き切ることです。
少しの勇気が必要かもしれませんが、その恩恵は計り知れません。せっかくの人生をできる限り清々しいものにしたいものですね。
「一切気にせずに自分のままで生き切る」「少しの勇気」
具体的にどうすることでしょうか。
夫の威圧的言動、小言が苦痛です。
離婚も考えていますが、その過程の煩雑さを考えると、今すぐに踏み切ることができますせん。
自分が気にしないですむ方法があるのなら、教えていただきたいのですが、よろしくお願いします。
煩雑というのは、シンプルに言えば面倒臭いということだと思います。その面倒臭さのために、自分の大切な人生に犠牲を強いるというのは、どう考えても理屈に合いません。実は、面倒臭さのうちの多くは恐れだと思って間違いありません。その恐れに立ち向かう必要があるので、勇気が必要だと言ったのです。離婚の前に、まずはしっかりと自己表現することです。嫌なものは嫌だということも勇気がいることですね。
早々に返信いただき、ありがとうございます。
今はセッションのおかげで、以前に比べて自由になった分、嫌なことは嫌だと言えるようになりました。
我慢しないで言うようになったことで、言い合う機会が増えてしまい、ぐったりしますが。
面倒くさいのが恐れから来る感じは、正直ピンときません。
相手への恐れは今は感じてません。
私が面倒くさがり屋なので、お金のことを考えたり、詳細の手続きや仕事の拠点を変えることがおっくうで、無理かなとあきらめてしまいます。
自分の管理能力の無さや逃げ癖を直視できない恐れでしょうか。
でも、できないと決めず、根気よく一つ一つ手続きしていってみようという気持ちになりました。
どうもありがとうございました。
質問があってコメントしました。
怒りと向き合うワーク(ひたすら唸るとか)をここ何日か取り組んでいたところ、今までに感じたことのない頭痛とめまい、吐き気、ひどい耳鳴りがするようになったのです。これは反動なのでしょうか?
こういう時はあまり無理せずやり過ぎない方がいいのでしょうか?
それとももっと出し切ってしまった方が良いのでしょうか?歩くのもフラフラしているかんじです。
そのように取り込んでいることがとにかく素晴らしいです!そこまで頑張っても素直な感情が出ずに、体感として抵抗を受けているということだと察しますね。しばらく休んでもまたやるという気持ちがあるのでしたら、休憩を入れてもいいと思います。一方では、このチャンスを逃したくないというのであれば、感情が出てくるまで続けてもいいのかもしれません。そこはご自身の匙加減でお願いします。特にこれが正解というのはないと思いますので。でも頑張ってください!応援しています。
ありがとうございます。
こんなことは本当にはじめてのことなので、自分の体と相談しつつ頑張ってみます!