崇高な自分

私たちは大抵現状の自分のままでいいとは思っていないものです。もっとこうならなければいけないとか、すぐこうなってしまうのはよくないなど、改善すべきところを沢山持っています。

そうした反省をベースに年齢とともに着々と自分をより高いところへと進化させるということが目標になっていたりします。

より親切な自分、よりしっかりとした自分、より自立した自分、より崇高な自分へと改革していきたいと思っているのです。

しかし、こうした思いが強ければ強いほど、実はそれと連動して自分への駄目出しも強いはずであることにはあまり気づいてはいません。

よく言えば向上心ともいえるものが、実は自分に対する罪悪感にその原動力があったということを、一度しっかりと受け止めることは悪いことではありません。

もしも、より崇高な自分を求めるとしたら、そこには崇高ではない自分への否定的な眼差しが隠されているということになります。

そして、その目標とする自分と現状の自分との落差に気づいて、またさらに自分を責めてしまうということを繰り返してしまうのです。

なぜ崇高な自分を求めようとするのかというと、本当はそうした崇高な自分が本来の自分の姿だということをどこかで知っているからかもしれません。

問題はその求め方にあったのです。ただ、本来の自分を思い出すということに専念するだけでよかったのに、自分の努力でその目標を勝ち取ろうとしてしまったために自分を否定することになったというわけです。

これこそがエゴの策略なのです。決して実現しないことを求めさせておいて、それができない自分を責めさせるというやり方なのです。

このからくりは分かってしまえばいたって単純なものですから、その作戦にこれ以上のらないようにしてあげることです。そのためには、よりよい自分という目標を取り下げるのです。

そして、自分の能力や努力によって勝ち取るかわりに、できるだけ素の自分というものを心の中に探してあげるのです。

そこにはきっと、本当に崇高な自分が見つけてもらえるのをただじっと待っているはずです。その出会いはきっと感動的だと思います。誰の心の中にもそれはいます。早く遭いたいものですね。

解釈しない

ある人と電話でお話しをしている時に、「神は光であり、自分はその光の中で見る。」という言葉(想念)を心の中で繰り返していたら、何かすごく変な感じになりました。

相手の言葉を聞いていながら、こんな発音を互いにすることでコミュニケーションをとっているつもりになっているだけだという感覚になったんです。

他の動物も同じように鳴き声などによってある種のコミュニケーションをとっていますが、それがやや緻密になったものが人の言葉だということですね。

でも残念ながらそうした言葉を使って相手と意思の疎通ができると思っているのはただの思い込みに過ぎないのです。

本当に分かるというのは分かち合うことが必要であり、それは一つになること以外にはあり得ないわけですから、互いに別々の個体だということを信じている限りは真のコミュニケーションはできないのです。

話しを元に戻して、電話の向こうで何かを一生懸命発音している人がいるという、一見とても冷ややかに聞こえてしまうかもしれませんが、そんな感じになったんですね。

意味をつかもうとすればそれもできるのですが、ただの音の集まりだと思えばそのようにも感じることができました。意味の分からない外国語を聞いているのと同じですね。

何か聞きたくない言葉、自分にとって都合の悪いような言葉を理解できないようにするのは、いわゆる防衛機制の一つとして心のメカニズムの中に明確にあるのですが、それとも違っていました。

相手の言葉から自分を守ろうとすることもなく、ただ淡々と聞いているうちに言葉がただの発音として受け取ることができた感覚です。

それは言葉の意味だけではなくて、相手の気持ちや感情なども一緒になって単なるエネルギーとして分かるだけになったのです。解釈しないというのはこうしたことなのかもしれませんね。

解釈しないでいられると、自分の心が波打つことがなくなります。なぜなら、解釈しないでいると何事にも反応する必要がなくなってしまうからです。これはある意味とても気持ちのいい体験でした。そこに幸せへのヒントがあると思います。

エゴ満載のレースゲーム

半年くらい前にドライブシュミレーター(ドライビングシートと、ハンドルとペダルがセットになったもの)を購入してから、ずっとレースゲームに嵌っています。

簡単に言えば、ゲームセンターに行かなくても自室でレースゲームに興じることができるようになってしまったんです。ちなみに、ゲームセンターはあまり好きではないので、行きません。沢山お金もかかるので。

高速サーキットや大自然の中などを思う存分ドライブしていると、とても爽快ないい気分になることができます。爽やかな風を切って走っているように感じることすらあります。

でも、ただ走っているだけではやはり飽きてしまうんですね。そこに競い合うという要素がなければ、退屈になってしまうということです。

人は競い合うことが本当に好きなんですね。相手は一緒にレースに出場している選手だったり、単独走行の場合には自分が出した最速タイムだったり。

とにかく何かと競争して勝ち負けを競うこと、これがなければ面白みは半減してしまうということです。これってどれだけエゴの領域に属することになるのか。

また競争で勝つだけでも面白みに欠けてしまうのです。つまり、ぎりぎり頑張って勝つことが出来たときにこそ、最大の達成感を得ることになるのです。

他のクルマよりも自分の方が圧倒的に速かったりすると、これもまた退屈になってしまいますし、逆にどうやっても勝てないようなレースも全くやる気が失せてしまうのです。

それを考えると自分とは本当に面倒くさいものだなと思います。ちょうど自分にとって自己満足ができる条件が揃わなければ、喜べないわけですから。

頑張って勝負に勝つ、訓練して腕を鍛えて結果を残す、自由自在にクルマを操る、サーキットのコーナーを予想してドライブする、こうしたことのすべてがエゴの真骨頂だと感じます。

与えるという発想が全く欠落してしまう状態とも言えるかもしれません。こうした心の状態にまだ魅力を感じてるということが分かっただけでもよかったのかもしれません。

エゴへの投資にまだまだ未練タラタラというところなんですね。ちなみに、ゲームの中で300km/h 前後のスピードで走りながらコースのワークを唱えるのもおつなものです。

人生の目標

あなたにとって、本当に大切なこと、価値あるモノとは何でしょうか?たった一つを簡単に思い浮かべることができて、それをすでに手に入れられているのでしたら幸運ですね。

答えはとてもシンプルなはずです。なぜなら、真実というのはシンプルなんです。自分の人生を複雑に感じてしまっているのでしたら、複雑にしているのは他でもないあなた自身なんです。

誰にとっても唯一価値のあるモノ、それは幸せです。真の幸福とは、永続的な心の平安、ずっと変わらずに満ち足りた心でいられることです。

これ以外のものを幸せと勘違いしてしまうと、人生は複雑になってしまいます。そればかりではなく、病気や怪我、苦悩、失うことや死ぬことも含めて、すべての苦しみは真の幸福以外のものを求めてしまう結果なのです。

あなたがこれまでの人生で求めてきたものは、真の幸福だったでしょうか?それとも一過性の安心だったでしょうか?

もしも、目標とするものが違っていたなら今すぐにも軌道修正する必要があります。そしてそれは幸運にも、いついかなる時にでも修正することができます。

人生の目標が真の幸せであるとしっかり認識できたら、今度はそれを実現するための手段を考える必要があります。

目標を現実のものにするためには、きっと様々な手段があるのでしょう。そのどれを使っても勿論構いません。しかし一番使うのに自由度の高いものがいいはずですね。

それは今までの生活スタイルを特別変えることなく使える手段です。そして、お金も時間もかからないようなものが最適なはずです。

そんなうまい話しがあるのかと疑われてしまうかもしれませんが、それが実はあるのです。それが「奇跡のコース」の学習&実践です。

コースは日常のごく普通の生活の中で心の筋トレを繰り返していくことによって、心の真の平安を得る方法を教えてくれています。

きっとやってみる価値があると思いますよ。昨年末に日本語版の本も出版されましたので、是非お勧めしたいと思います。

老犬

夕方スーパーに買い物に行ったりすることがあるのですが、そうすると愛犬を連れて散歩をさせている人達を沢山見かけます。

ついつい人間よりも犬たちの方に目が行ってしまうのですが、今日は出会い頭に飼い主のいない犬とぶつかりそうになってびっくりしました。

犬はおおはしゃぎで私の方にやってきたのでちょっと怖かったのですが、そのすぐ後に飼い主さんがやってきてしきりに謝ってくれてました。きっと首輪をはずしてしまったんでしょうね。

それで思い出したのですが、ずっと以前に近所のお宅の犬がやはり首輪をはずして大喜びで飛び回っている現場に出くわしたことがありました。

飼い主さんが捕まえようとするのですが、犬はこの自由を奪われてなるものかとすばやく逃げ回るのでなかなかつかまりません。

たまたま私がその犬を追い詰めて捕まえてあげたことがありました。その後何年くらい経ったか忘れましたが、その犬がよぼよぼの状態になって散歩している姿を見るようになりました。

実はそれまで老いた犬をまじまじと見たことがなかったので、その歩き方があまりに遅くて、一歩足を前に出すのに相当時間がかかっているのを知ってショックを感じたのです。

その飼い主さんが言うには、こんなになっても散歩をしたがるんですよって。ああ、その飼い主さんはその愛犬の気持ちを感じとってあげられるんだなと。

しかし、その歩みの遅さには本当にびっくりさせられたのですが、その犬の速度にじっと付き添って散歩をさせてあげる甲斐甲斐しさを見て、なんだか心温まる思いがしたのを覚えています。

自分だったら、とてもじゃないけれどイライラしてしまって、放り出してしまうんじゃないかと思ったものでした。あくまでも相手のペースに合わせてのんびりと散歩をさせてあげられるのは愛があるからなんでしょうね。

それは相手が動物であろうと人であろうと同じことですね。シンプルなことですが、自分の心に余裕があればの話ですが、人は相手の身になっていたわる気持ちを使うことが出来るんですね。

やっぱり自分の心の状態がよくないと何事も始まらないということかもしれません。ですから、自分に沢山楽しい思いをさせてあげることは大切なことだと思いますね。

忘れずにいる方法

あることから意識がそれないようにして、ずっと自覚できるようにしておこうと思っても、少しすると忘れてしまうことは誰でもよく知っていることですね。

例えば家に戻ったら、真っ先にあの人にメールを打たなければと思っていたはずなのに、気がついたら帰宅してからもう一時間も経つというのにメールするのを忘れていたなど。

こういうケースは困りものですが、この忘れてしまうということは場合によってはとても役にも立っているのです。例えば、いつまでもいやなことが頭にこびりついて離れなかったら辛いでしょう。

また夜寝るときに私たちは寝るということを忘れてしまわない限りは寝ることが出来ません。寝るんだ寝るんだと思っていると、いつまでたっても寝入ることができないわけです。

この自然に忘れていくという人間の能力は、このように困るケースと役立つケースと両方あるということですね。

少しこんがらがるかもしれませんが、逆に言うと意識的に忘れようとしても忘れることはできないということも経験上知っています。

例えば今この瞬間静かにじっと目をつぶっていながら、今自分がそうして目をつぶっているということを意識的に忘れることはできませんね。

何かの思いなり考えなり、記憶なりが心の中にいつのまにやらやってきた時に、その瞬間自分が目をつぶって静かにしているということから意識が離れていくのです。

これを意識的に利用することは可能です。つまり、あることから意識を逸らすために、何か別のことを考えるようにするわけです。そうすると、いずれはそのことを忘れていくことになります。

ですがくどいようですが、そのことを忘れようと意識してそのことを忘れることはできません。なぜなら、そのことに意識が向いているからです。

このことは逆利用することが可能です。つまり、忘れては困るようなことを忘れないようにするために、そのことを意識的に忘れようと頑張るのです。

そうすると、大抵は忘れずにそのことに意識を向け続けることができます。今日一日、それを利用して奇跡のコースのワークの言葉(想念)をずっと忘れずにいようと思います。

分かろうとする心

裁くという言葉は日常ではあまり使わないと思いますが、口語で言うと批判するとか、価値判断するとか、悪口を言うなどということになるかもしれません。

この裁くということの反対は何だと思いますか?それは分かろうとするということです。私たちの心は本来知らないものを分かろうとする性質を持っています。

ですから、分かろうとして物事を見ているときには心はいい状態であるということができるのです。何かにとても好奇心を抱いて見つめるときの子供の邪心のない表情などは見とれてしまうぐらいに可愛いものですね。

ある意味分かろうとする心は愛だともいえるのです。とても気になる異性がいると、その人のことを知りたくなるものですよね。

興味を持つということは、それを知りたい、あるいは分かりたいという欲求だと言い換えてもいいかもしれません。だからそれは愛と親戚関係にあるはずです。

逆に興味のないものには、人は無関心でいられるわけですが、それは知りたいという思いが生じていない状態なわけです。

分かろうとしているときの心は、それを受け入れようとします。従って、それは裁いたり、批判したりする心とは正反対だということが分かるはずです。

分かろうとする心が愛に近いとすれば、裁く心とは愛の反対、つまり恐れと親戚関係にあると言ってもいいですね。

私たちは何かを批判したくなるときには、このようにして対象のことを分かろうとはしていないのだということに気づく必要があります。それは拒絶であって、その大元には恐怖があるのです。

従って、何かを批判しようとするときには、愛から一番遠ざかった心の状態になっているということをよく覚えておくことです。

そして、もしも自分は愛を選びたいとするのなら、対象を知りたいという思いで見ることです。その時には心は正常な状態になっているはずだからです。

誰かのことを否定したくなったら、その人のことを分かろうとはしていないのだと自覚することです。分かろうとすれば、必ず肯定的な思いというものが芽生えるのです。試してみて下さい。

知覚の本質

知覚するということは一般的には身体の感覚器官を使った五感によるものとされています。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚とあります。

私たちはいつもこの五感からの情報を頼りにして生活しているわけです。しかし、実は知覚とはこれだけではありません。

自分自身を知覚することもできるからです。自分とはこういう存在だという自覚は自分を知覚した結果であるわけですね。

この場合は、自己イメージというものを結果として作り出すわけですが、それはやはり知覚することによって作り出すものであるのです。

私たちの誰もが抱く根本的な疑問である、自分とは一体何者なのかという問いに対して、明確な答えを出せる人はきっと一人もいないのでしょうけれど、それにも関わらず自分を知覚しているのです。

そして知覚の領域はまだあります。それは何かの意味を解釈するということです。もしも、そのことを本当に分かっているという状態であれば解釈は必要なくなります。

ということは、意味を解釈するということも知覚するということに入れることができます。実際、身体の五感を通して知覚した情報は、必ず何らかの解釈がなされます。

つまり元々知覚というのは解釈とは切っても切れない関係にあるということです。こうしたことのすべて、五感、自己イメージ、そして解釈の全部が知覚ということだと思えばいいのです。

ところで、この知覚に頼らなくなったらどうなると思いますか?それこそ生きてはいけないと誰もが想像するはずですね。

それは、五感からの情報に反応しなくなることだし、自己イメージを手放すことだし、解釈を全くしなくなることでもあるからです。

でもその状態とは、確実に愛に満たされた心になるように思えてなりません。それこそが、不確実な知覚から完全なる神の知識へ戻ることなのだと思うのです。

生まれながらに罪深い??

人は生まれながらにして罪深いという教えがありますね。この考え方をアホ臭いと言って一笑に付して放っておくのは簡単ですが、なぜそんなことを言うのかを考えてみるのは意味があるかもしれません。

実はこの表現を少し訂正するだけでなかなか的を得た言葉にすることができます。それは、「人は生まれながらに罪深いと思い込んでいる」とすればいいのです。

つまり、客観的な事実であるという事と、単なる思い込みであるという事との違いだと思えばいいわけです。でもなんでそんな思い込みをしているのかを見てみる必要があります。

思い込みというのは事実ではないにしても、それを頑なに信じているわけですから本人にしたらそれは真実となってしまうのです。

ただその思い込みをはっきりと自覚してはいないために、「生まれながらに罪深い」と言われると反発したくなるということです。

コースによると、「神との分離」という妄想をしたときに、神を裏切っている自分というものに罪の意識を持つようになったとのこと。勿論その罪の意識も妄想の中でのことですが。

そうした罪深さが心の深いところに隠されているということです。この妄想による罪悪感は誰の心にもある人類に普遍的なものだからこそ、「人は生まれながらに罪深い」という表現ができたのでしょう。

これを取り去ることはできません。なぜなら、それは妄想だからです。思い込みですから、実体があるわけではないので、取り去れないのです。

思い込み、妄想の産物だということに気づくこと以外に、それから逃れる術はありません。気づくためにはその闇の部分に光を当ててあげることです。馬鹿馬鹿しいと放って置くだけでは、心の奥の罪悪感を手放すことはできません。

まじまじと見つめることをしたら、妄想などあとかたもなく消えてしまうでしょうね。それをさせないようにするために、「生まれながらに罪深い」という決め付けた言い方をするのです。

それこそがエゴの策略です。エゴはその闇の部分を暴かれて、そこが空っぽだったと知られることを最も怖れているのです。

なぜなら、ばれたらエゴは消滅してしまい「神との分離」という妄想が終ることになるのですから。そして、それこそが神と一体である真の自己を思い出す唯一の方法だとも言えるのです。

愛するためにやってきた

今、地球上にいる69億人の誰もがたった一つのことを目指してやってきたと思ったら、とても嬉しい気持ちになれますね。

一人ひとりの人生がたとえどんなものであろうと、みんなが一様に「愛するためにやってきた」ということに気づけたらいいのにと思います。

それ以外には何も目的などないはずなのに、どうしたわけかそれとは違う目的を沢山作って大人になっていきます。

愛することを忘れてしまうと、そのままでは心が辛くてしかたなくなってしまうので、何か目標を作ってそれを目指すことで何とか辛さから逃れようとしているかのようですね。

本当は何も特別な目標など必要ないはずです。なぜなら、愛するためにやってきただけですから。そのことさえ思い出したなら、一体他に何を頑張らねばならないことがあるのでしょうか。

私たちは、嫌いというより愛していると言うほうが難しいような感覚さえ持っているかもしれません。これって、やっぱり正気じゃないなと思います。

生まれた後、どういうわけか、そしていつの日からか好きな人だけではなくて嫌いな人がいるようになってしまいます。

愛することを忘れてしまうと、攻撃的な思いが生まれてしまい、それに慣れてしまうと更に愛することから遠ざかってしまうのです。

私たちは誰もが愛したいという欲求を強く持っているはずです。ただ忘れているだけで。自分自身もいつも愛するというよりも、ただ生活するということに意識が向けられていると気づいています。

寿命が尽きるまで人生をまっとうすることが目的ではなく、愛することが目的だとはっきりさせようと思います。きっと、全体の過半数である35億人の人がそのことを意識したら、世界は全く変わると思います。

毎朝、目が覚めたときに「愛するためにやってきた」ということを思い出して、なるべく愛を与えられるように実践していこうと思います。