この世のすべては結果でしかない

この世界はすべてが結果で満ちています。何の結果かといえば、あらゆるものの源泉であるパワーが起こした現象としての結果です。

それなのに、私たちは常にこの世界の中に、その結果の基となる原因が必ず存在するのだと信じているのです。

残念ながら、私たちに唯一の原因たる源泉を知ることは不可能です。もっと正確に言えば、私たちの思考によって源泉を捉えることはできないということです。

けれども、思考は原因を見つけ出そうと探し回るのです。そして、勝手な解釈を作り出しては、原因を見出したと信じて、そこで自分は理解したとするのです。

思考による理解とは、所詮そういう独りよがりのものに過ぎません。その思考を一時的にであれ停止してしまえば、あらゆることが結果だという直接体験をすることができます。

そこには因果関係というものがありません。ただ、起きているとしか言いようがないのだということを直接知ることになります。

原因だと思えたことも、実は源泉のパワーによって引き起こされた事象であり、それも結果でしかないということ。

このことに気づくと、それまでいかに自分の思考による身勝手な解説をし続けてきたかということを、思い知らされることになります。

思考は単なる解説であって、いかなることを起こすパワーもありませんし、だからどんな結果に対する原因にもなりようがないということです。

自分が何を思考するかということすら、源泉によって引き起こされた結果なのですから、この宇宙のあらゆる現象と何の違いもありません。

そして、私たちが自分は個人としての意識だと信じているのは、実は思考に過ぎません。つまり、個人も単なる結果として起きている事象だということですね。

個人の意識を絶対的な意識に向ければ、それこそが真に唯一の結果ではないものだということに気づくはずです。そして、その純粋な意識こそが源泉であり、真の自己の姿なのでしょう。

幸せになりたいというしぶとい囚われから開放される

私たちは、どうしたら一度しかないこの人生をより幸せなものにできるのだろうか、ということをあらゆる角度から教えられて大人になります。

勿論、各人によって何が幸せなのかということについては、個人差があるでしょうけれど、いずれにしても個人が自らの幸せを目指すというところでは一致しています。

そして、その条件付けの通りに幸福を求めて、うまいことそれを手に入れられたと信じている人は、その瞬間確かに幸せなのでしょう。

あるいは、どれほど幸せを求めても、どうも不運ばかりが続いて、願ったような現実がやってこないとぼやいている不幸な人もいるでしょう。

けれども、そうした幸不幸というのは決して永続的でないことは明らかです。つまり、私たちが教え込まれたどんな形の幸せであれ、それは一時的なものに過ぎないのです。

更に言えば、幸せを求めて、不幸から逃れようとすればするほど、苦しみは大きくなるという事実は、誰からも教えてもらえなかったのです。

結局、自分が幸せかどうかということが最大の関心事になっている人生というのは、決して満たされることがないと知ることです。

幸不幸というものは、単に物語の中で起こる一過性の流れのことに過ぎないと気づくことです。そんなことに、人生を賭けてしまっていることを正直に認めることです。

自分が幸せかどうか、ではなく、自分は真の自由を知っているかどうかを探求することです。それだけが、幸不幸という物語から開放される唯一の道です。

なぜなら、自由への渇望は、自分を幸せにしようとするためのあらゆる欲望を粉砕する力を持っているからです。

それは、自由を手に入れるということではなく、真の自己こそが自由そのものだったということに気づく、奥深い人生を生きることになるのです。

根源的なパワー

この世の中はパワーで満ちています。それは、人工的な電力エネルギーや自然界の様々なエネルギーも含めて、あらゆるパワーがみなぎっています。

台風や雨風によってもたらされる甚大なパワーにしても、一粒の種が成長して立派な大木に育つためのパワーでも同じです。

私たちが生まれてから、成長して人生を生き抜いて死んでいくためにもパワーが必要であることは明白です。

このようにして、この現象界において、あらゆる現象を起こし続けている根源的なパワーがあるのです。

でもそのパワーがどこからやってきて、何の目的でこの世界で物事を起こし続けるのかということについては、誰も明確に答えることは不可能です。

科学者に言わせれば、地球上で物事が起きるパワーの源の大部分は太陽からやってくると説明するでしょうね。

けれども、ここで考えているのは、太陽の核融合によるパワーについてではなくて、その核融合を起こすパワーの源について考えているのです。

そうした根源的なパワーとは、唯一であってそれがすべての源であり、この宇宙はそれが起こしている結果に過ぎないということです。

大切なことはそうしたパワーがこの世界を作り、現象を起こし続けているのだということを忘れないことですね。私たちは、自分にはこれこれのパワーがあるという思い込みをしています。

個々の活動を支えるパワーであっても、それは個々人のオリジナルなパワーのように見えるかもしれませんが、実はそれもすべて根源的なパワーによって起こされているということです。

そして、本質的にはそのパワーの源こそが真理であり、それこそが私たちの本当の本当の姿であるということです。

「いじめ」のニュースを観て思うこと

この数日、ネットのニュース番組で「いじめ」の問題が取り上げられているのを観て、思い出すのは、クライアントさんの多くが、同じようないじめの経験をされているという事実です。

大抵が、小学校や中学校でのいじめですが、場合によっては幼稚園や高校、そして大人になってからのいじめの事実もあるのですね。

いじめを受けた側からすれば、それは本当に理不尽きわまりない体験であるわけで、ましてやまだ未熟な子供がそれを経験するのですから、その苦悩は計り知れないと言えます。

幼少期に、理不尽な想いを繰り返し経験してきた子供は、集団生活の中でいじめに遭うようになったり、反対にいじめる側になる可能性が高いのです。

いじめられる側になるのは、勿論理不尽な体験がパターン化されて、人生において繰り返されるという側面が強いのです。

一方、いじめる側になるのは、ある意味で仕返しの色合いが強いのです。理不尽な体験によって溜め込んだ怒りを開放するために、自分より弱い存在を探していじめ返すわけです。

だからこそ、いじめが起きるパターンは、一対一ではなくて、集団が一人の子供に対していじめるという構図が出来上がるのです。

集団になることで、自分が相手よりも強い立場になったと錯覚するのです。そして、本当は情けない自分を補強しながら、か弱い一人の相手をいじめるのです。

つまり、広い意味ではいじめる側に回ることで、自己防衛していることになるのです。本人は、そんなことに気づくはずはないでしょうけれど。

いじめられる子供も、いじめをする子供も、どちらも心の奥に被害者としての惨めな自分を抱えているのです。

子供のころに、いじめの問題で子供本人がセラピーにやってくるということはないでしょうから、そのときを周りの大人の助けを借りつつ何とか乗り切って欲しいと思います。

ニュースを観ていて思うことは、いじめが原因で自殺してしまうくらいに辛いのなら、まずはそんな学校へ行かなくてもいいということを、子供に分からせてあげることが大切なのではないかと感じますね。

「愛」とは自発的で一人称である

私たちは、誰もが個人的な好みというものに支配されていますね。食べ物の好き嫌いであるとか、他人に対する好き嫌いもそうです。

どんな対象物であっても、そして自分自身の身体や心の在り様にしても、同様にして好き嫌いというものを持っています。

そして、好きなものには興味をもって接するはずですし、関心も高くなります。その逆も言えるのかもしれません。

興味を抱いた対象、とても関心をもっているものや人に対しては、好きという傾向があるという事実があります。

たとえば、好きだなあと感じる異性のことについては、いろいろと関心を持って知りたくなるでしょうし、また興味を持って見ているうちに、その人のことが好きになるということもあるはずです。

けれども、この好きとか嫌いというレベルにおいての「好き」という感情と、純粋な「愛」とは全く異なるものなのです。

その違いの一つは、「好き」は関係性の中で起きる感情ですが、「愛」はそこに何の関係性も必要とはしないということです。

また「愛」は、自発的なものであって、それ自体で完結してしまっています。主体と対象を必要としないということです。愛は一人称なのです。

そしてもう一つの違いですが、「好き」には本人が気づいていようがいまいが、何らかの理由があるのですが、「愛」には何の理由も必要ありません。

以前、あるセミナーに参加していたときに、エゴを押しのけて自分の中にあった「愛」が表面化したと思われることが起きたことがあったのです。

そのとき、自分とは何の係わり合いもない、初めてお会いした多くの周りにいらした人たちへの愛を感じたのです。彼らとは、何の関係性もなかったし、愛を感じる何の理由もありませんでした。

あくまでも自発的に、愛がやってきたという感覚でした。付け加えると、愛の一つの形である「感謝」も同じようにして、やってくるものですね。

私の教訓は、本当に大切なことは何の理由もなく訪れるものだし、それは自発的で一人称のものだということです。

「自分」とは他人によって作られたもの

私たちは、赤ちゃんとして産まれてからずっと、周りにいる両親やその他の大人たちから常に働きかけられながら成長していきます。

来る日も来る日も、言葉をかけられ、抱っこされて、オムツを変えてもらったりしながら、毎日を過ごしていきます。

要するに、そうやって見られたり、聞かれたり、触れられたりして、認識されることを繰り返していくうちに、その認識の対象としての「自分」がいるという思考を作り上げるのです。

勿論、「自分」を作っていくその過程において、最も役立つものといえば、一つの身体です。その身体こそがみんなから認識される「自分」なのだと思い込むのです。

「自分」という身体には、名前も与えられていて、より一層他の誰かとは明確に区別することができるわけです。

そうして、気がつけば立派な一人の人物としての「自分」が出来上がるということになるのです。つまり、人からの認識こそが「自分」を作る原点だったということです。

私たちは、普段このことを忘れてしまっているかもしれませんが、自分以外の誰かから知覚されることがなければ、「自分」は出来ずじまいなのです。

もっと端的に表現するなら、この自分とは他人からの認識の積み重ねに他ならないのです。人からの知覚の総和であるということです。

確固とした自分が絶対的な存在として生きていると、そう思い込んでいるかもしれませんが、実際には「自分」という人物はみんなの知覚が作り上げたものだということです。

それほど、曖昧なものです。そういうことを意識しつつ、この「自分」を深く見つめていると、確かにそこにはナニモノもいないということに気づかされます。

結局、私たちはお互いがお互いを作り続けているのですね。自分独りだったなら、決してこの「自分」が出来上がることはなかったのです。

このことが分かると、本当の自分がこうして作り上げられた「自分」ではないということにも気づくはずです。

「恥ずかしさ」から逃げない

私たち人間というのは、恥の感覚、恥ずかしいという感性を持っている唯一の動物かもしれません。実際、他の動物に「恥」があるのかどうかさえ分かりません。

きっと、「恥ずかしい」とは、「私」という想念なくしては在り得ない感性なのでしょう。だからこそ、人間に特有のものだと言えるのです。

「恥」とは、動物として持っている自己防衛からくる純粋な反応とは異なります。私たちは、死なないと分かっていても、恥をかくことを場合によっては命がけで避けようとするのです。

これは、生命の危険からやってくる恐怖とは明らかに異なる、別の種類の恐怖です。言わば、精神がでっちあげたニセモノの恐怖であると言うことができます。

子供が3歳前後になると、急に恥ずかしがるという行動をするようになる場合があります。それは、それまでなかった「私」という想念をでっちあげたことが原因なのです。

「私」がここにいるとなれば、それはもう自分の力で自分を守らねばならないと信じるようになるのですから、その恐怖は尋常ではないはずです。

そのバリエーションの一つが「恥」なわけです。もしも、幼いころに「恥ずかしい」に負けないでいることができたなら、自己犠牲はずっと小さなものだったと断言できます。

この恥ずかしさは、とても大きな個体差があるものです。ある人が死ぬほど恥ずかしいと感じることでも、別の人はどうってことないと感じることもよくあります。

性差も関係してくるかもしれませんし、生まれ育った文化も大きく影響しているはずです。つまり、「恥」の感覚はすべての人間に対して一律ではないということをよくよく理解することです。

「恥」は、思考が作り出した恐怖の一つの形態であるということにも気づき、できるだけそれから逃げずにいることが最も大切なことなのです。

今までに、自分が体験した様々な「恥」から逃げずに、正面から向き合って、それと共に居ることでそれを開放することができるのです。

自分固有の「恥」から解放されると、それは恐怖からの開放を意味します。そうなったら、人生を丸ごと楽しめるようになるはずです。

「恥ずかしさ」から決して逃げない、という決意をしましょう。そして、それを実践することです。恥ずかしさを友として過ごす覚悟をすることです。

どんな変化でも喜んで迎えること

以前、毎日のようにスポーツクラブで水泳をしていたことがあったのですが、実を言えば決まった距離を泳いだ後に入るサウナが楽しみでした。

100℃のサウナには短時間入っているだけで、全身に玉のような汗が吹き出てきます。じっと我慢したあとは、水風呂に飛び込むわけですが、それが最大の快感なのです。

しばらく水に浸かって、充分に身体が冷えたら、またサウナに入るのですが、その冷たさから熱さへの変化がまたたまらなく気持ちがいいのです。

私たちの身体にとっては、猛烈な暑さも凍えるような冷たさも不快でしかないはずなのに、その両極をチェンジする瞬間に快感がやってきます。

このことは、人生のあらゆる場面において、大抵の人は経験していることです。私たちはいつも、変化を求めてやまないのです。

ハワイのように常夏もいいかもしれませんが、四季の変化を感じるほうが深い味わいがあると知っているのは日本人ばかりではないはずです。

生まれながらに大金持ちであるよりも、貧乏から大金を儲けることができた時のほうが何十倍も喜びを得ることができるはずです。

どれほどのものを手に入れられたとしても、その状態が長く続くと更なるものを手に入れたくなってしまうのも、変化を求めるからです。

けれども、変化の少ない安定した人生を望んでいる人もいるはずですね。それは、手にしたものを失うのをただ恐れているだけです。

もしも、そうした恐怖が小さくなれば、必ず人は変化のほうに魅力を感じるはずなのです。それが私たち人間の性なのだと思うのです。

変化を求めること自体には、何の問題もありません。ところが、都合の悪い状態から都合のいい状態への変化ばかりを望んでしまうところに、苦しみの根っこがあるのです。

私たちが求めようが求めずにいようが、変化は必ずやってきます。どちらの方向の変化であろうと、その変化を素直に喜ぶことができたら、人生はまったく違ったものに見えてくるのではないでしょうか。

覚悟はできているだろうか?

覚醒するということは、確かにこの自分にとっては何のメリットもあったものではありません。なぜなら、覚醒するとは自分の意識から自分自身を追い出すことだからです。

賢者とか覚者と言われる人たちにしても、彼ら自身が覚醒したわけではなく、彼らは彼ら自身を追い出すことに成功したということです。

したがって、この世界に覚醒「した人」は一人もいないということになりますね。人は誰も覚醒できないのです。覚醒するためには、本人が一番邪魔だからです。

最近こうしたことが、身に沁みて分かるようになってきました。これは、原理的には不可能なことだということです。

例えて言えば、自分が人間の形をした絵だとして、その絵を消しゴムで消していくことを想像してみればいいのです。

右手に持った消しゴムで、自分の足や胴体、頭などを次々と消していったとしても、最後にはその消しゴムをつまんでいる右手そのものを消すことができないわけです。

そこだけは、絶対に自分で消すことは不可能ですね。だから、その最後の部分だけは、神がそっとその消しゴムを取り上げて、残った右手の部分さえも消してくれるということです。

奇跡のコースには、そう書いてあります。最後の最後には、神が天国へと引き上げて下さると。自分の力では無理だからですね。

さて、そこまで分かったところで、自分は本当に覚醒などしたいのでしょうか?本当の自己からこの自分を追い出すことが、それほど魅力的なことなのだろうか?

真の自己がそれ自体に目覚めるためには、この私は不要なのです。邪魔するべきではありません。本当の自分のために、ニセモノの自分は席を譲ろうではありませんか。

覚悟を決めることです。潔く、長い間奪っていた席をホンモノの主に返却するときが近づいてきたのかもしれません。

生きるとは一瞬の出来事

外を歩いていて、興味をそそられるというのか、目に留まるのは幼い子供と犬などの動物です。その両者がいつも印象に残るのです。

彼らの特徴は、社会生活を営んでいないということですね。その可愛らしい瞳を覗くと、彼らには自分を守ろうとする意志がないように感じます。

動物に無邪気という言葉を使うのは、変かもしれませんが、いずれにしても犬も幼子も自分が誰かということに気づいていません。

私たちは、彼らに対して、まだ気づいていないのだというように見てしまいます。けれども、本当はそうではありません。

まだ気づいていないのではなく、余計な妄想を抱いていないということです。動物は死ぬまでそんな妄想を抱くことはありませんが、人間だけが3歳くらいまでに「私」を作るようになります。

一旦「私」がいるという妄想ができてしまうと、少しずつその「私」を自分の力で守らねばならないと信じるようになっていくのです。

その結果、「私」の次にもう一つ妄想をでっちあげることになります。それが「社会」です。「私」を守るためには、その「社会」に順応する必要があると思い込むのです。

そうしないと、「私」を守ることができないのですが、それはこの「私」にとって過酷な人生の始まりを意味します。

なぜなら、社会へ適応するためには素の自分を犠牲にしなければならないからです。人生の初めに「私」を作ってからまだ間がない頃は、そのことでひどく辛い思いをするので、多くの若者は絶望を感じます。

そこからなんとか、自分なりの解決法を見出して生きていける人は、死ぬまで「私」と共にいる人生に疑問すら感じないかもしれません。

けれども、どうにもこうにも何かが変だと感じ続ける人は、「私」が本当はナニモノなのだろうということを無視できずに生きることになるのです。

そしてその中のある人たちは、思考では到達することのできない真理を知ろうと頑張ることになります。

「私」として生きるのも、「私」を疑問視して生きるのも、そして「私」はいないと気づいて生きるのも、どれもきっと一瞬の出来事であることに違いはないのでしょうね。