期待が不満を生む

私たちが自分に対して、あるいは他人に対して不満を感じる時には、必ずある期待値と比較しているのです。

その期待値に達していないと判断すると、そこに不満の感覚が発生するわけです。100点取れると思っていたのに80点であれば、不満になるのです。

他人に対する不満の場合には、その期待値というのは自分を比較の対象にしている場合が多いかもしれません。

たとえば、自分は迷惑だと思うので夜遅くには電話をしたりしないという場合、誰かから夜遅く電話がかかってきたら、嫌な感じがするのです。

けれども、自分も結構平気で夜遅く友人知人に電話をしている場合には、夜遅く誰かから電話がかかってきても不平を言わないものです。

私の場合ですが、狭い道を歩いている時には、後ろからくるクルマを優先させたいので、率先して避けるのです。

だからこそ、自分がクルマを運転している場合には、狭い道で歩行者にクルマの存在を気にして欲しいと思ってしまうのです。

その期待値に対して、我が道のように歩いている人がいると、イラッとしてしまうわけですね。

無自覚のレベルであっても、そこになんらかの期待値があれば、そこには必ず不満がやってくることになるということです。

もしも色々なことに不満を感じることが多いなと自覚があるなら、こうした期待値についてじっくり見つめてみることをお勧めします。

期待がなければ、決してそこに不満が起きることはないのですから。

生は奇跡の連続

マインドというのは、あらゆるところに問題を見出しては、それを解決するということをずっと繰り返しているのです。

それがあるからこそ、人類は文明を進化させてくることができたし、日々進化することこそ価値があると思っているのです。

ところが生は実のところ無目的なのです。あるがままの生は、何か解決されるべきものではないのです。

それはただ楽しまれるもの、ただその瞬間瞬間を生きられるものなのです。そこにはどんな意味も価値もありません。

解決指向のマインド(自我)にとって、あるがままの生をただ楽しむことには魅力を感じないのです。

このミスマッチにまずはしっかり気づくことです。解決指向のままでは、生の素晴らしさを知らずに死んでいくことになってしまいます。

マインドが走らせている人生というのは、どこかに向かって突き進んでいるように感じますが、本当はどこにも向かってはいないということ。

無目的になった時に、初めてこの瞬間が宝物のように見えるようになるのだと思います。まさに生は奇跡の連続で出来ているのですね。

内側外側という幻想

私たちは心のことを自分の内面という言い方をしますね。つまり自分の精神的な領域は内側にあると感じているのです。

内側というのは、自分の身体を基準にしてその内側ということです。その反対に外側というのは、身体の外側に広がっているこの世界のことです。

ちょうど身体を境にして内側と外側に分かれているわけです。ここまではいたって当たり前のことです。

そこで、自分自身を意味する自分の内側を満足させるためには、どうしたらいいのかを考えてみるのです。

はじめから内側が満足している状態であれば、そこには何の問題もないのですが、誰の内側も満足などしていません。

そのため、私たちはその不足感をなんとかするために、外側の世界のものを内側に取り込むことで、満たそうとするのです。

ところが外側から何かを入手できたとしても、それは内側にまで入ってくることはありません。内側は元のままなのです。

外側のどんなものを所有できたとしても、それは内側には届かないと知ることです。考えてみれば当然のことですね。

外側と内側は別世界なのですから。であるなら、内側を満たすためには内側だけでなんとかしなければならないということです。

内側にある不足感、欠乏感は思考(幻想)に過ぎないと気づくしかないのです。しかもその幻想は内側と外側とに分離しているという思考(幻想)が元になっています。

その分離が幻想だと見抜くことによって、ようやくしつこい欠乏感からも解放されることになるのでしょうね。

それ以外には、内側に対するどんな救いもないのだと理解することですね。これを見抜くためには、やはり瞑想が一番いいのかもしれません。

繊細なところに出る

社会の中で立派に仕事をこなし、人生に立ち行かなくなった経験のない人もいます。

もちろんその反対に、人生がうまく行ってないと感じて、自らセラピーの門を叩く人もいます。

前者は癒しが必要ではなく、後者はそれを必要としていると捉えがちなのは分かりますが、実はそうとばかりは言えないのです。

親が前者で子供が後者のような場合、親は自分たちは問題ないので、子供だけセラピーを受けさせようと考えるのです。

けれども本当にセラピーが必要なのは、その自覚がない親の方だと言えるのです。

家族の中に内在している問題がある場合、それは家族の中で一番繊細で脆いところに顕在化すると言う傾向があります。

つまり、親の内面に問題があったとしても、親本人の人生には表出せずに子供の人生にその皺寄せが出てしまうことがあるということ。

こうしたことは稀なことではないのです。ただし、親の側にそのような自覚がないので、実際のところ伝わりにくいのです。

そうなると子供が親と一緒に暮らしている間は、セラピーを進めることが簡単なことではないのです。

子供の方もセラピーに興味があるわけではないので、その状態で癒していくことは難しいことになるのです。

子供が成長してある程度の年齢になって、自発的にセラピーを受けようという気持ちになるのを待つということになるのかも知れないですね。

正しさを押し付けない

お子さんの不登校の問題で悩んでいらっしゃる親御さんは、思っているよりもとても多いのが実情ではないでしょうか?

何を隠そう私自身は、その道の先駆者なのです。幼稚園を最初の半年間、登園拒否した実績の持ち主なので。

あまり誇れたものではないのですが、それが実は単なる問題行動だったと知ることになったのは、この仕事をするようになってからなのです。

不登校の原因は、自覚できるものと、無自覚のものとに分けられます。自覚できるものとしては、友達との関係がうまくいってないとか、学業の自信喪失等々。

ただ自覚できる原因というのは、実はほとんど大したものではないのです。それはほんの飾りのようなもの。

本当の原因は、全く自覚できていないところにあるのです。それは、自分のことを問題視して欲しいがためにとる行動、つまり問題行動にあるのです。

幼い頃のおねしょや、アトピーや喘息などのアレルギーを利用した病気などと同じ。不登校というのは、親に対する不満を訴える気持ちがその原動力なのです。

どんな不満かというと、自分の気持ちを分かって欲しい、受け止めてほしいという切実な思いなのです。

親が自分たちの正しさを子供に押し付け過ぎれば、子供の側は当然のこと自分は分かってはもらえないのだという強い不満と反発を感じるのです。

子供が問題行動を起こせば起こすほど、親はそれを正しさで裁こうとしてしまうため、悪循環に陥ってしまいます。

全国のお父さんとお母さんに、声を大にしてお伝えしたいこと。それは自分の正しさは自分のためにだけ使うこと。

決して大切な子供に自分の正しさを押し付けないでほしいということ。ホント、お願いします! 

無防備さを思い出す

生まれたばかりの赤ちゃんというのは、生物としての人間ではあるものの、まだほとんどは他の動物と同じ本能の管理下で生きています。

それはそれは無邪気なままの赤ちゃんは、まだ「私」がいないので、どんな心理的防衛もすることはありません。

この状態をオリジナルと私は呼んでいます。要するに、無私の状態、つまりは愛の状態にあるということです。

それが早い子だと2歳くらいから、少しずつ防衛することを覚えていくのです。突然無邪気さが消えてしまうということはないにせよ、愛の塊のような生き方はできなくなっていくのです。

あるがままではいけないという感覚が芽生えて、それまでの超快適な毎日が遠ざかっていくとても悲しい出来事がやってくるのです。

私たちは大人になって立派な社会人として生きていくことを求められているので、遅かれ早かれ無邪気さは隠されていくのです。

この「自分のままではいけない」という洗礼が大きければそれだけ、自我の防衛も大きなものとなってしまいます。

心の癒しというのは、オリジナルの頃のあの無防備さを思い出し、無私という愛の状態をなるべく生活の中に織り込むようにしていくことなのです。

なんでこんなシンプルなことがそれほど簡単にはできないのかというと、無防備な自分では生きていけないという強烈な思い込みが残っているからです。

無防備さは死を意味するからです。これは、実際オーバーに聞こえるかもしれませんが、本気でそう思っているのです。

そのことを見抜いて、できる限りその恐怖を受容してあげることができれば、少しずつ隠されていた無防備さを使って生きることができるようになるのですね。

他人のことを考えない

グルジェフが、弟子たちにいつも言っていたこと。それは、「人のことを考えるな。さもなければ、あなたはけっして成長しない」と。

これはセッションでも時々話題になることなのですが、私たちが日頃どれだけ他人のことを考えているのか、気づいたらびっくりするほどなのです。

そしてなぜ、他人のことを考えるな、とわざわざ言われなければならないのかというと、その思考のほとんどが防衛に費やされているからなのです。

防衛している時間というのは、自分の本質に気づくことがない時間になってしまうということですね。

元々自我というのは、他人との関係性の中でのみ活躍できるように作られているのです。それは他人との関わりによって作り出されたものだからです。

自我は決して独りではいられません。そのくせ、本性は孤独そのものでできています。

もしも、立て続けに他人から「相当に具合が悪そうだから医者に行った方がいい」と言われたら、誰でもきっと本当に具合が悪くなってしまうでしょうね。

そのくらい他人の言動に依存しているのが自我なのです。だからこうした事実を知って、できるだけ他人のことを考えるのをやめること。

そして意識を自分の内側に向けているように練習することですね。グルジェフの弟子ではなくても、とても大切なことだと思います。

マインドの理解が最優先

マインドというのは、これが自分だと思っている内面的なものの総称です。ということは、自分のことや他人のことを理解したいなら、マインドを理解する必要があるということです。

マインドがどのような経緯によって作られてきたのか、それがどのような仕組みによって活動しているのか等々。

ひとたびマインドの内部事情が分かってしまえば、自分や他人のどのような言動であれ、ある程度の納得をすることができるようになります。

なぜなら、マインドは地球上の誰のものであれ、そのメカニズムは同じだからです。一度クルマのメカニズムを理解してしまえば、乗用者であろうとバスであろうと、トラックであろうと理解できるのと同じです。

だからこそ、どんなマインドを持ったクライアントさんがいらしても、セラピストはセッションができるのです。

マインドの理解が、毎日の生活にもとても大きな影響を与えるのですが、特に癒しを進めていく上では欠かせないものなのです。

そのため、私のセッションではできるだけクライアントさんにマインドを深く理解していただけるように心がけています。

マインドを知らずに、一つひとつの問題に場当たり的に解決を試みるのは、本当に愚かしいことだと感じています。

マインドを深く知るための秘訣は、シンプルですがマインドに興味を持ってもらうのが一番いいのですね。

所有という幻想

私たちのこの社会は、所有という仕組みなしには成り立ちません。ところが所有という事実は本当のところ、どこにもないのです。

このクルマは私の所有物だ!、そう声高に言ったとしてもそれを証明するものがなければ、その声明はほとんど役に立ちません。

なぜなら所有というのはあくまでも概念であって、事実ではないからです。だからこそ、みんなの合意を必要とする証明書のようなものが必須となるのです。

つまり所有という概念をみんなで共有することで、お互いにそれを認め合うことで、この社会が出来ているのです。

人類の歴史上途絶えることがない領土争いなんていうのは、所有を認め合わないがために起きているのです。

概念というのは思考であって、それはイマジネーション(幻想)に過ぎないのですから、相当に危なっかしいものだと言えますね。

まだ現物として実際に目に見えるもの、触れられるものに対する所有権は分かりやすいです。この家とか、このクルマとか言えるので。

一方で、実体のないネット上にデジタル化されて存在しているものの場合は、その所有権を証明するのは難しくなるのです。いくらでも完全コピーができるので。

人類は賢いので、それを可能にするブロックチェーンといった技術を開発して、仮想通貨などの仕組みを作ったのですね。

このようにして、所有というのは自我が作った社会の土台のようなものですが、ひとたび自我を見つめる側に立ってみると、所有からも離れたところに立てるはず。

そうして自分を丸裸にしてみると、なんだかとても清々しい感じがしてきます。誰が何を持っているとしても、どうでもいいことに見えてくるからですね。

自己流の落とし穴

人生になんらかの問題が起きていて、自分自身を癒す必要があると気づいたとしても、具体的にはどうすればいいのかを私たちは学校で教えてもらっていません。

ある人はセラピストのところに行こうとするし、またある人は無数に出版されているその道の本を読むかもしれません。

今では様々な有用な本が手に入る時代なので、自分に合った本を探し出してそこに書かれていることをしっかり実践すればいいのです。

これでうまく癒しを進めていくことができれば、とてもお手軽でいいのですが、そこには落とし穴も隠されています。

というのも、癒しを進めていく上で大切なことの一つは、見たくない記憶や感じたくない感情とも向き合わなければならないということです。

そのため、ともすると自覚しないうちにそこを通り過ぎようとしてしまうことが多々あるということです。

特に感情を感情として、思考を混ぜることなく感じる必要があるのですが、そこをいろいろな理屈をつけて避けてしまうのです。

そうなると、自分としてはもう癒しは一段落ついたと思ったとしても、実はまだしっかりと感情のエネルギーが残されたままになっているということが起きます。

他者目線で自分のことを客観視できる場合はいいのですが、そうでなければ中途半端な癒しの結果で癒しを終わらせてしまうかもしれません。

自分なりに癒しを進めてこれたはずなのに、なぜかあまり人生が変わらないと感じているなら、上記のようなことを疑った方がいいかもしれませんね。