誰もが教師

結婚して子供が生まれると、若い両親は大なり小なり子供にこうなって欲しいというような思いをもつようになります。

そして親によっては、明示的に躾けをする場合もあるでしょうし、逆にあまり明らかな躾けを意識しない親もいると思います。

私はどちらかと言うと後者に属する親に育てられたと思いますし、私自身が親になったときにも同じようにあまり躾けを意識したことはありませんでした。

そのように明らかな躾けをされない場合でも、子供は親から多大な影響を受けるものです。それは誰もが知っていることですね。

私なりの解釈では、親の潜在意識の中身がそのまま子供の潜在意識の中に入り込むのだろうと思うのです。だから明示的な躾けがなくても深く影響されるのです。

親自身も気づいていない心の深い部分が、知らず知らずのうちに子供の心の奥まで影響してしまうということです。

したがって、親がこれは伝えたくないと思っていたとしても、それは気が付くと子供の心に入り込むことになるということです。

こうしたことは、何も親子の間だけではなくて人と人が何らかの関係を持つときには必ず起きることだと言えるのです。

つまり、人は生きているだけで周りにいる自分以外の人達に心の中の信念や思いなどを伝えてしまっているということです。

明示的に伝える場合も勿論のこと、そうでなくても伝播していくのです。簡単に言うと、自分の心の内側にあるものは、外へと広がっていくということです。

それは残念ながら肯定的なことだろうが否定的なことだろうが違いはありません。したがって、苦しんでいる人はその苦しみを外側へ伝播させてしまうことになります。

愛に溢れた心は周囲の人の心に愛の気持ちを起こさせることになるということです。気づかぬうちに、人は誰もが教師になっているということです。

どうせ教えて伝えてしまうことになるのなら、なるべく誰もが幸せになるようなことが自分から発信されるようにしたいものですね。

無知である喜び

みなさんは大人と子供の違いって何だと思いますか?大人はいろいろな経験や知識が豊富で、子供よりは沢山のことを知っていると一般に思われています。

子供は生を受けてから間もないので、当然のことながら経験が足りません。だからこれから学校や人生で勉強して知識を増やしていくのですね。

しかし、本当の違いはそこではありません。子供は自分がまだ無知であるということに気づいています。だから、素直にいろいろな事に疑問を持つし、怖がりもします。

それに比べて、大人の我々は自分が同じように無知であることに気付いていないというところが最大の違いなのです。

なぜなら、子供から発せられた単純な質問に答えることができないからです。自分はどうして生まれてきたのか、なぜ宇宙があるのか、死んだらどうなるのかなど。

どれ一つとってももっとも基本的な質問に答えられないのです。大人が知っている知識というのは、この世界では重要視されることもありますが、本当に大切なことは知らないのです。

本当に大切なこととは、自分たちが幸せになるために知るべきことです。生きている理由が分かれば心穏やかになれるはずです。

死ぬということの本質が分かれば、恐れずに生きることができるかもしれません。結局何も知らないままに大人になっているため、いつまでたっても恐怖の中で暮らしているのです。

自分は子供のときと何も変わらずに、無知のままだということをまずしっかりと認めることです。無知であることは決して駄目なことでも悪いことでもありません。

無知であることを恥じるという習慣があるために、頑張って知識を増やそうとしてきただけです。でもその知識をどう使っても幸せには至らない、どうでもいい知識ばかり増やしてきたのです。

無知であるということを認めてしまうと、何の責任も感じることがなくなります。子供と同じように無邪気なままでいることができるのです。

ここに「委ねる」という大切な心があるのです。大人になると、自分の知識や能力で何とかしようと頑張ってしまい、それが重圧となって苦悩を呼び込んでしまいます。

純真な子供のように、「委ねる」ことを思い出すことです。無知であることを精一杯喜びましょう。そこにこそ、本当の心の平安があるのですから。

罪は許せない

私たちが罪悪感に悩まされてしまうのは、罪というものは拭い去ることができないような過ちであるという認識を持っているからです。

罪を犯してしまったとして、それに見合うだけの罰を与えられたとしても、それで罪が消えてなくなってしまうというように考えている人はいないはずです。

勿論、法律上では、罰によって罪を償うということで晴れて公式にはもう咎められない状態にはなるわけですが、誰しも犯した罪そのものがなくなるわけではないと知っています。

つまり、罪というのは一生残るものだという認識なわけです。だからこそ罪悪感を恐れることになるのです。恐れるあまり、それを抑圧して自覚できないようにしてしまったりするのもそれが理由です。

私たちは一旦罪を犯してしまうと、その後は何をどうしようとその罪を背負って生きていかねばならないと信じているのです。

訂正できない間違いのことを罪と呼んでいるからです。訂正できないのですから、永久に残ってしまうわけです。これではたまったものではないです。

そして困ったことに、エゴは我々をそそのかして寛大な心を持ってすれば罪を許すこともできるはずだと思わせようとします。

そのために、決して消えることのない罪に対して、許そうと頑張ってしまうのです。そんなことは絶対できるはずもないのに。

そこに罪があると認識しておきながら、それを許せると思うのはエゴの策略なのです。そうやって、結局は許しようもない罪にがんじがらめにさせられてしまうのです。

一度、はっきりとさせておきましょう。「罪は許すことは出来ません。」何度も言うようですが、許せないものを罪と呼ぶのですから。

ではどうしたらいいのでしょうか。本当に一度犯した罪を死ぬまで背負っていかなければならないのでしょうか?その答えは奇跡のコースに書いてあります。

すべてを解決してくれるコースに興味を持っていただけると嬉しいです。

笑い飛ばす

自分の人生を考えたときに、一生のうちでピンチに立たされることが何度かあるのかなと思います。今までにもそういう時があったし、これからも何度かあるのかもしれません。

それでも必ず、後で思い出してみると大したことはなかったという気持ちにさせられるのです。その多くは笑って話せるようなことなのです。

癌の手術で入院していたときのことも、様々なエピソードがあってそれはすべて自分の中では笑いに変えてしまっています。

機会があれば、みなさんにも笑い話としてお話しできるようなことがいくつもあります。他にもあの時は辛かったと思い返しながらも、心の中ではその時の深刻さがうそのように感じます。

こうしたことを何度も繰り返してきたせいか、今ではピンチだなと思ったとしても、これも後で思い返したときには笑い話のネタにされてしまうんだろうなと薄々感じるようになりました。

そういう時には、未来の自分というのは本当にのん気なものだと思います。窮地に立たされている現在の自分の苦しさを忘れて、笑い話にしてしまうなんてと思います。

でもそう思える未来の自分がいるんだと実感できると、今この瞬間にかなり困った事態に陥ったと感じても救われるような気もしてきます。

どうせ未来の自分は今の自分がこれほど苦しんでいることも、真剣には取り合ってくれずにただ笑いのネタとして誰かに披露するんだろうなと思うのです。

のん気というのは本当にすばらしいことだと思います。いっそのこと、その未来の自分ののん気さを今この自分が享受できたらどんなにいいかなと考えたりします。

そしてそれはもしかすると、練習次第でできるようになるかもしれません。「笑って許して」という番組があったと思いますが、それと同じように今の自分を常に「笑い飛ばす」という生き方です。

それができる未来の自分を今に連れてくることができたら、簡単にそれができるのでしょうね。未来の自分に負けないように今の自分も今この瞬間を笑い飛ばして生きるようにしたいものです。

現実という夢

朝目覚めたあとに、何となくこんな夢をみたなと思い出すときがありますね。私の場合には、ストーリー性のないなんとも奇妙な夢が多いです。

記憶と記憶が予期せぬ事柄で繋がっているということを思い知らされるような夢を見ることもあります。とにかく、私の夢は印象に残ることは残るものの何を訴えたかったのか分からないほどに支離滅裂です。

目覚めたあとの自分の理性はその夢と比べるとしっかりしていて、理路整然とした考え方が出来ているという自覚があります。

身の回りに起きることも理屈に合っていることばかりですし、まったく夢の世界とは違って意味がはっきりとしていると考えることができます。

ところが、奇跡のコースではこの現実こそ幻想である、夢のようなものであると教えているのです。そうなると、この現実という夢から覚醒したら一体どれほどの知性の中にいるのか想像できないくらいです。

きっと、その世界では分からないということが一つもないという状態なのだろうと予想できます。私たちはこの現実の世界ではほとんど分からないことだらけです。

科学が発展して、昔よりは様々なことが解明されてきつつあることは疑いようのない事実ではありますが、もっと根本的なことは何一つ分かってはいません。

例えば、なぜこの宇宙はあるのかとか、自分とはなぜこの世界に生きているのかといったことは決して分かることではないと知っています。

こうした誰にとっても根源的な質問について、すべてが分かりきっている世界というのがここから覚醒した世界なのかなと思います。

コースではその状態を知識と呼んでいます。知識とはそれそのものがただ分かっている状態のことです。私たちのように知覚することで理解するのとは全く異なるものです。

何の疑問もない世界、分からないことは何一つない世界、それが本当の実在の世界だということです。そして、誰もが本当はその世界に今この瞬間も生きているということです。

そのことに気づきさえすれば、いつでも覚醒できるのです。 もっと深くみると、覚醒しているかどうかということ自体も、本人の自覚の問題だけなのかもしれませんね。

手間を惜しまない

大人になると、一度くらいバーに行ってお酒を飲むことがあるかもしれませんね。バーテンダーさんがシェーカーをカチャカチャ振ってカクテルなどを作ってくれます。

目の前で作りたてをグラスに注いでもらって飲むと、本当においしいなと感じるものです。それはあのバーテンダーさんの手間がかかっているからかもしれません。

それは自分でやっても経験することができます。冷やしたほうがおいしくなる飲み物を飲もうとするときには、グラスに氷とその飲み物を入れて100回まわすのです。

そうすると、本当においしく飲むことができます。試してみて下さい、本当ですから。それは、100回グルグルとまわすという手間がかかっているからです。

ちょっとした野菜炒めを作ろうとするときにも、肉を卵につけて片栗粉をまぶすというちょっとした手間をかけるだけで、とてもおいしい野菜炒めになります。

おいしい紅茶を飲もうと思ったら、ミルクや砂糖を混ぜるときにおいしくな~れと呪文を唱えながら少しばかりの手間をかけてあげるのです。そうすると、まろやかさが出てとてもおいしくなります。

手間というと、何となく面倒なことというイメージが付いて回りますが、実は気持ちをその作業をしているときに入れ込むということだと思うのです。

その気持ちや思いが、食べ物や飲み物を一味違ったものにしてくれるのでしょうね。手間というのは、時間と労力を必要とするのです。

それが逆に言うと、その人の相手を愛しいと思う気持ちに繋がるのではないかと思うのです。そうした与える気持ちが相手に届くのかもしれません。

そしてそれは必ず、自分にも帰ってきます。それは与えた分だけ嬉しい気持ちになって戻ってきてくれるのですから、病み付きになるかもしれません。

この年になるまで手間を省こうとする人生をずっと送ってきたと思いますが、それは結果として味気ない人生を作り出してしまったともいえます。

何事にも手間を惜しまずに、相手を思う気持ちをそこにやさしく映してあげることですね。それはきっと何とも言えない気持ちよさを受け取ることになるのですから。

ボランティア活動

小学生のころに、ボーイスカウトの下部組織であるカブスカウトというのに入っていたことがあります。紺色の帽子に紺色の上下の制服を着て、とても目立つ格好をさせられていました。

その時に、一年に一回必ず赤い羽根運動と言って、共同募金の活動をするのです。今でもはっきり覚えているのは、池袋の東口の一番人通りの多いところで募金箱を抱えて道行く人達に訴えるのです。

「共同募金お願いしま~す!」大声で何回も繰り返し叫んでいると、子供のそうした姿が可愛らしいと思ってくれるのか、大人たちは結構な数の人達が募金箱にお金を入れてくれます。

その額に関わらず、赤い羽根を一つ取ってその人の服のどこかの部分にそれを付けてあげるのです。あの時はほとんど何も考えずにただそれを続けていました。

それが人生で最初のボランティア活動だったと思います。それがボランティア活動だという意識もほとんどなかったと思います。

あれから自分はボランティア活動にはまったく縁のない人生を送ってきました。心が冷たいと言われればその通りかもしれません。

自分ではあまり意識はしてなかったかもしれませんが、なぜそうした活動を一切しなかったのかと考えてみると、どうも善意の活動というのが自分にはそぐわない感じがあったのだと思います。

そして、もう少しよく見てみると、その善意というのが自分で胡散臭いと思ってしまう部分があるように思います。つまり、誰かのためと称して自分のためなのではないかということです。

自分が心配していたのは、「役に立ちたい症候群」であってはいやだという思いだったのです。そうした自分を欺く的なことにひどく敏感だったのでしょうね。

この年齢になってようやくそうした心の欺瞞に対して、それほど恐れなくなってきたのでやらないよりやったほうがいいかもしれないと単純に思うようになれました。

人助けという言葉は今だに少し抵抗を感じるのですが、そんなことは大したことではないし、自分も助けてもらっていいんだということが分かって、ようやく誰かの役に立ちたいと改めて思える今日この頃です。

救いを求める心

私たちは幸せになりたいという思いと、救われたいという思いとを混同しています。救われたいという願いが悪いということでは勿論ありません。

だれだって、辛い思いや苦しい境遇から救われたいと望むものです。たとえば苦痛を伴う病気を患っているなら、一日でも早く治ってくれたらと願わずにはいられませんね。

商売をしている人であれば、売り上げが思ったように伸びないでいたら生活が困窮してしまうことにもなりかねません。

社会の景気が少しでも回復して、商いが順調になるようにと願うのが当然です。農業に携わる方々でしたら、適度な気候や恵の雨が降ってくれるように願掛けするかもしれません。

このように、私たちはなるべく困らないように、できるだけ苦しまないですむように、物事が順調にいくようにといつも思っています。

そして窮地に立ったとしたら、そこから救われたいと思うわけです。それが自分のことであれ、大事な人のことであれ同じように願います。

しかし、本当に救われるためには心が満ち足りた状態にならなければなりません。困った事態が解決しただけでは、ほんの一瞬だけの満足で終わってしまいます。

いずれはまた、何かの問題が発生することになって、その状態から救われたいと願うことになって、それは永遠に続くことになるのです。

つまり身の回りに起きていることや、自分の身体に起きていることからどれだけ救われたとしても、それは一過性の救いであるに過ぎないということです。

真の救いこそが本当の幸せになることなのです。それは決して目に見えるようなものではないし、従って他人から理解してもらえるようなものでもないのです。

あくまでも自分の心の中で感じる幸福感でしかありません。理由もないのに、なぜか満ち足りていてすべてが揃っているという感覚です。

これは何かを解決して救われようとするのとは全く次元の異なることなのです。あなたはどんな救いを求めていると思いますか?

一度じっくりと自分が何を望んでいるのか、見つめてあげることが大切だと思います。

あるがままを認識する

ごく普通に知っている漢字をじぃ~と眺めていたり、何度も書いたりしているうちに、あれこんな漢字あったかなという不思議な感覚になることがありますね。

しばらくすると、また元の状態に戻っていつも通りその漢字を読めるようになります。きっと誰もがそんな経験をしたことがあるのではないかと思います。

例えば、奇跡の「奇」という漢字をずっと眺めて、上が「大」で下が「可」なんだなあと思っているうちに段々変な感覚になってきます。その二つの字からできていたなんて思ってもみなかったというような…。

よほど、漢字の成り立ちに興味があったりして詳しい人以外は、奇跡の「奇」の字はそんな二つの漢字の構成からできてるんだとは思ってもみないはずです。

これは私たちの認識の方法に原因があるように思います。漢字に限らず、対象物を認識するときに、より直接的に観察することになった時、いつもの認識ができなくなるのだと思います。

親しい家族や友人なのに、ふとあれこの人誰?というような感覚になったことはないでしょうか?相手をじっと見つめていたりすると、そんなことが起きます。

勿論漢字の時ほど明確ではありませんが、注意深く自分の感覚を見ているとそうなるときがあります。ちょっと怖いかもしれません。

私たちは自分では気づかぬうちに、ある特定の方法で外の世界のものを認識しているのだと思います。その方法から少しでもずれてしまうと、もうそれが何だったか分からなくなるということです。

ということは、自分は日頃一体どれだけ勝手な見方をしているのだろうかという疑問が沸いてきます。本当にそのものをあるがままに見ているのだろうかと。

実はあるがままに見るということは、至難の技なのです。それは、厳密に言えばかなり不可能なことだと思って間違いありません。

それは、認識というのは必ず独自の判断や解釈の上に成り立っているからです。それはもう全く無自覚のうちにしてしまうために、自分では気づくことができません。

奇跡のコースのワークブックで訓練することは、まさにこの身勝手な解釈や判断をしていることに気づいて、それを少しずつ手放していくということなのです。

それがすべてをあるがままに認識するということに繋がるのです。それができると、裁くという無意識のクセを取り除いていくことができるのです。

それは結果として、自分の心を愛で満たすことになるのです。真の幸福とはそうした心の状態によってのみ実現するとコースでは教えてくれています。

費用の決め方

以前テレビ番組で、ある企業において、各社員の給料の額を全員で決めるというのを特集していたことがありました。詳しいことは覚えていないのですが、確かに社長の給料も全員が関わって決まるようなシステムでした。

それぞれの人が自分はこれだけの実績を上げたので、このくらいの給料をもらいたいという希望を提出し、それについて全員でその妥当性を討議するというものだったと思います。

ですので頂点に位置する社長といえども、自分で自由に自分の給料を決められないわけです。ある意味とても民主主義的な方法と言えるかもしれませんね。

それはとても斬新な給料の決め方だなと思った記憶があります。私がセッションの費用や講座の受講料などを決める際には、私自身の独断で決めています。

先日開催したヒーリングセミナーの参加費用も、大した理由もなしにこのくらいという具合に決めさせていただきました。

正直、一体何を基準に決めたら本当にその額に妥当性を感じることができるのか、自分では全く分からないのです。したがって、言葉は悪いですが「えいや」で決めてしまいます。

もっといい決め方というものがないのかなと時々思ったりもするのですが、今まで実現したことは一度もありません。

いっそのこと、セッションの費用はそのセッションにいらっしゃるクライアントさん自身に決めてもらうのがいいのかなと思ったりもします。

講座も同じように、私が決めるのではなくて、それぞれの受講者のみなさんが独自に決めていただけるというシステムにできたらいいのかもしれません。

その場合、費用は個人個人で異なることになってしまいますが、いただいた額を私のほうで公表することはないようにするというルールが必要ですね。

そうすると、学生さんや金欠病の方は当人が無理なく支払える額になるでしょうし、ふところに余裕のある方はそれなりの額を払っていただけることになると思います。

また経済的な状況だけではなくて、セッションや講座などのその時の満足度というものも、支払っていただく額に反映されることにもなるかもしれないですね。

そんな理想的な費用の決め方ができたらいいなと思っています。近いうちに実現するかもしれません。それが吉と出るか凶と出るのかは聖霊に委ねることにしたいと思います。