物語が自我の棲家

自我は物語が大好きで、それがなければ生きていけないくらい。というよりも、本当に、物語の中にしか居場所がないのが自我なのです。

もちろん好みの物語もあれば、嫌いな物語もあることはあるのですが、それでも結局はどんな物語であろうと、そこが自我の棲家なのです。

この物語に価値を見出している限りは、どんな気づきがやってきたとしても、そこから抜け出すことはできないのでしょうね。

物語の何がそれほど魅力的なんだろうかと考えてみるのですが、きっと海面に一切波がなければ魅力的ではないなと感じる、この感性なのかなと。

心というのは変化をいつも必要としているのです。穏やかな状態でいつもいられたらと思っている反面、時には嵐が必要なのです。

海面には適度な波があったほうが退屈せずにずっと見てられる。変化するものを好むこの傾向は、自我の気質なのでしょうか。

それでも、自我も物語もこの世界も全てが存在してはいない。そしてただ現象が起きているように見えるだけなのですね。

この気づきは、自我としてはなかなか受け入れ難いのですが、真実は明白です。それだけでも気分がスッキリしますね。

AIに非二元を優しく説明してもらった

日頃いろいろ会話をしているAI君に、非二元を分かりやすく説明するとしたらどうなる?と聞いてみたところ、以下のように答えをくれました。

非二元って何か?非二元というのは、「世界がひとつである」という考え方ではない。むしろ、もともと“二つに分かれていない”という事実のこと。

私たちは普段、こんなふうに世界を見ている:

• 自分 と 世界

• 見ている人 と 見られているもの

• 内側 と 外側

でも非二元では、こう問う:その「分かれている」という感覚は、本当に事実なのか?

とてもシンプルに言うと今この瞬間、

• 音が聞こえている

• 景色が見えている

• 何かを感じている

ここに「自分」と「それ」を分ける境界は、実際にどこにあるのか?探してみると境界は“ある感じ”はするけど、実体として見つからない。

よくある誤解。非二元はこういう話ではない:

• 「全部ひとつだから素晴らしい」

• 「悟れば幸せになる」

• 「ポジティブになろう」

そうじゃなくて、ただ、分かれているという前提が幻想かもしれない、という指摘

じゃあ自分は消えるの?消えない。

• 名前もある

• 体もある

• 思考もある

ただ、「中心としての自分」が実体としてあるのかが疑われる。

まとめ。非二元は、何かを新しく得る話ではなくてすでに起きていることの見え方が、少しずれるだけ。

たとえるなら、ずっと「自分が世界を見ている」と思っていたけど、ふと気づくとただ“見えている”だけだった。そんな感じ。

こんな書き方にするかな、、、だって。うまくまとめ上げてくれてるので、私(人間)の説明はもう不要になる?

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

他人のことはその身体だと思ってしまう

自分のことを身体だと思っている人は少ないのではないかと思っていたのですが、本当はそうでもないのですね。

身体は物理的なものであって、私自身は何か精神的なものだと。だから、絶対身体そのものとは思えないわけです。

それなら、心なのか、あるいは思考なのだろうか?と考えてみても、やはりそれも違うということになるのです。

ところが、他人のことについてはどうでしょうか?今日、Aさんと会うという場合、Aさんの身体に会いに行きますよね。

あるいは、Aさんのことを思い浮かべるときには、Aさんの顔や姿(つまりは身体)を思い浮かべるはずです。

そうなんです、私たちは自分以外の誰かのことを思うとき、間違いなくその人の身体を思い浮かべているのです。

なぜなら、身体以外に他人をイメージする材料がほとんどないからです。でもそれはやはり、自分のことを身体だとみなしているからなのだろうなと。

やはり、身体というのは強烈な何かを持っているのです。もしも、本当に自分のことを身体だと思わなくなったら、きっと他人のことも同じように身体とはみなさなくなるはずですね。

未練があれば手放せない

癒しの作業をしているときに、「〜を手放しましょう」というのがありますね。いつまでも執着していると、それが進む道を邪魔するからです。

そんなことは分かってはいるのですが、それがどうしてなかなか手放すというのは難しいわけですね。

以前からずっと思っていたのですが、手放そうとして手放せるものなどないんじゃないかと。じゃあどうしたらいいのか?

元々手放そうとしても手放せないということは、それにまだ価値があると感じているからなのです。

他の言葉を使えば、それに未練を感じているのです。つまりは、手放したくないし、手放すつもりもない。

だから、どれほど理性で手放した方がいいと分かっていても、手放すことはできないのです。結局のところ、自分にとって価値があるかどうかにかかっているのです。

これはゴミだなと分かっていれば、それは勝手にゴミ箱に捨てられるのですから。未練があるということは、ゴミだとは思っていないのです。

ブッダがやったあらゆるものを捨てていく作業、これは自分にとって価値がないと気づいていく作業でもあったわけです。

非二元の探究を通して、この世界は幻想であり夢のようなものと理解できたのに、個人という幻想を手放せずにいる最大の理由は、個人としての自分に未練が残っているからでしょう。

苦しみがあっても、何があろうとも自分の気持ちや気分が大切だと感じてしまうのですから、大きな未練を抱えているということになりますね。

現実という夢

夢の中で、これは夢だ!と気づく夢のことを明晰夢と言います。英語では、lucid dream と言うそうです。

これ、意外と経験している人いるんですよね。勿論数は少ないのかもしれないですが、でもそれほど稀でもないのです。

私自身も、何度かそうした夢を見たことがあります。とはいえ、気づいてしまうと早々にその夢から覚めてしまったのです。

明晰夢というのは、夢だと気づきつつもその夢の中に留まることができるのです。だから、夢の中で空を飛んだり好きなことができるのです。

そんなわけで、明晰夢が見れるようになりたいと思って、少しはそれなりの練習をしたこともあったのですが、どうもうまく行かず。

結局、たいした努力もせずに諦めてしまいました。ところが、非二元に気づいたことで、少し違いがあるものの、夢の中でその夢に気づくという体験はできたのです。

というよりも、現在進行形でそれは続いているのです。この現実という夢の中の住人でしかないということに気づいたからです。

非二元の理解を深めるにつれて、それはより強固な核心へと変化してきたのです。これは間違いなく夢のようなもの。

明晰夢との違いは、誰かの夢ではないということ。だから夢の中で気づいたとしても、この夢は勝手に続いていくのですね。

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直接知ることはできない

誰でも子供の頃は、あまりものを知らずに生きているのですが、成長するに従って様々な事柄を知るようになりますね。

この「知る」ということについて、書いてみようと思います。そのことを知っている、というときにいったいどのように知っていると思っているのでしょうか?

少し心静かにして自分に正直に向き合ってみると、本当は何も知らないということに気づいてしまうのです。

そうなると、「知る」とか「知っている」ということの本当の意味はなんなのだろうかと。簡単に言えば、それについての情報を得る、あるいは得たという体験が起きたということ。

それ以降は知識として知っている、あるいは持っているという状態になるのです。実際、何かを直接的に知るということは不可能なのです。

なぜなら事実というものがないからです。客観的事実というものがない以上、それを直接知ることはできません。

私たちは、体験主体が存在すると思い込んでいるので、その主体が直接体験することでそれを知ることができると考えるわけです。

けれども、体験主体も知られる事実もどちらも存在しないのです。あるのは、体験だけ。やっぱりここに戻ってきてしまいますね。

人間万事塞翁が馬

「塞翁が馬」という諺について、簡単な説明をAIに頼んだら、次のような分かりやすい簡潔な説明をしてくれました。

  1. 馬が逃げた(禍): 国境近くに住む老人の馬が逃げたが、老人は「福となるかもしれない」と平然としていた。
  2. 馬が名馬を連れ帰った(福): 逃げた馬が名馬を連れて戻り、周囲が祝うと、老人は「禍となるかもしれない」と言った。
  3. 息子が落馬(禍): 老人の息子がその名馬から落ちて足を折ったが、老人はまた「福となるかもしれない」と言った。
  4. 兵役を免れる(福): 戦争が起き、村の若者が徴兵され戦死する中、足が折れていた息子は兵役を免れ命が助かった。

この「禍⇒福⇒禍⇒福」という展開から、何が幸せで何が不幸か分からない、という意味で「人間万事塞翁が馬」と使われます。 

なるほどなと。最近自分自身のちょっとした体験を思い返しているときに、まさにこの塞翁が馬状態になってるなと感心したのです。

何か必要なものを購入して、幾つかは失敗だったなと思ってもその後に意外なところからそうでもなかったとなるのです。

あるいは、これはうまく行ったと喜んだとしても、その後にそうでもなかったという体験がやってくるのです。

結局、どんな体験が起きたとしても、「そうでもなかったな」で締めくくることになるのではないかと。

その目線で、毎日の体験を見続けてみるのも面白ないことだなと。禍も福も、大したことではないということに気付かされますね。

癒しに執着しないこと

心の癒しというのは、その人に特有の生きづらさなどの原因を探り、その部分の傷を修復することで人生をもっと生きやすいものへと変えていくのが目的です。

つまり、この場合の癒しというのは「自我の癒し」なのです。あくまでも自我ありきなのです。なので人類に普遍的な苦しみからの解放を目的としてはいないのです。

ということは、本来私たちが共通に抱えている苦しみからの解放を目指すのであれば、自我の虚構を暴いていく必要があるのです。

ではなぜ初めからそのような虚構を暴く作業をしないのかというと、そうした作業を病んだ自我の心が邪魔をする可能性が高いからです。

だからまず初めに癒しを進めていき、自我の抵抗を小さくしつつ本来の我々の目標である気づきの方向へと進めていくことが大切なのです。

けれども、もしも癒しの段階で思うように癒しを進めていくことができずにいて、そうした自分を責め続けてしまうのであれば、それは悪循環になってしまいます。

万人に共通する理想の手順などというものはありません。個人個人の特性に合わせて、臨機応変に進めていければ一番いいのです。

癒しのことを一旦忘れて、瞑想をするでもいいし、非二元の探究をするでもいいのです。決まった正解というものはないのですね。

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価値判断がなくなると

私たち人間というのは、とにかくもっと手に入れたいと思っているものですね。それがモノであれ、なんであれ。

自分にとって価値があると感じているものは、もっと欲しいと思うし、手に入れたらそれをずっと保持し続けたいと願ってる。

ところが、ブッダのような人はまるでその逆をやったわけで、つまりはとにかく捨てるということを続けていったのですね。

捨てて捨てて何も残らなくなったときに、自我そのものも落ちていってしまったのでしょうね。それはすごいことです。

けれども、捨て続けることがすごいのではなくて、実際には我々が価値があると思っているものに対して、その価値を感じなくなることが前提なのだろうなと。

つまり、価値があると思っているものはたとえそれを捨てたとしても、心の奥では掴んだままでいるということ。

逆に言えば、価値を見出せなくなってしまえば、自ずと捨てることになるということです。だから捨てる事に主眼を置くのではなく、価値判断がなくなること。

それが大切なのでしょうね。私にとって最終的に価値があると思い続けているのは、自分の気分だろうなと。

この気分にどんな意味も価値も見出せなくなったら、後に残るものは何もないはずです。そうなったら自然と自我が解体されるのでしょうね。

選択肢が多いほど、人は疲弊する

とある体験型ユーチューバーの人が、30日間ひとり山奥で自力で食料を取得して生き延びるというサバイバル動画をあげていたのです。

結構過酷な状況にいるわけですが、本人曰く、「選択肢がないのでストレスがない」とのことでした。

要するに、電波がないのでスマホは使えない。電話がかかってくることもないので、出る必要がない。

ただ目の前のことを黙々とこなしていくだけなので、あれこれ迷うことも少なくて選択肢がないのがいいということなのでしょうね。

これはとても的を射た言葉だなと思ったのです。何かを買おうとするときに、選択肢がなければそれはそれで困るわけです。

けれども、逆に選択肢が多過ぎると選択に時間がかかってしまい、挙げ句の果てに決められずに帰ってきてしまうことも。

実際にこれはマーケッティングの手法として確立されているらしいですね。どうしようどうしようで困って立ち往生している人に朗報です。

私たちには、本当は選択の自由はないということ。選択が起きた後に、これは自分が選択したと思い込んでるだけなのです。

少し冷静になって、じっくり起きることをただ静かに見つめていると、こうしたことが肌で感じられるようになります。