これは、何かが存在する世界ではない

昨日のブログでは、「存在とはイメージに過ぎない」という結論に至ってしまったということについて書きました。

これは普通の感覚では、とてもじゃないけれどどうやったって信じることなどできるわけがない。これが一般的な反応でしょう。

それは百も承知しているのですが、それでも突然こうした結論に達したわけではなく、探究による自然な流れの帰結なのです。

だから誰にも信じてもらえなくても構わないのです。これはもうどうしようもないことで、もう二度と元には戻れません。

あらゆる存在がイメージでしかなかったというのを具体的に言えば、宇宙という存在はなかった、地球という存在はなかったということ。

時間や空間は存在していなかった、私たち人間も存在していなかったということになってしまうのです。

これは何かが存在する世界ではないということです。ちょうど夢と同じ、何かが存在しているように見えるだけの世界。

つまりは現象が現れているだけだったのです。普通の夢は、その夢を見ている誰かが目覚めることで消えてしまいます。

この現象は、それとは真反対に熟睡の中に入っていくと完全に消滅してしまうのです。考えるとこれも不思議ですね。

存在とはイメージに過ぎない

非二元の気づきが最初にやってきたそのきっかけは、「ものには実体がない」というびっくりするような事実でした。

その後、実体がないというのはどういうことかを丁寧に見ていったところ、それは「存在というものがない」という気づきだったのです。

そうなんです、何かが存在するというのはイメージだったのです。これはにわかには理解できなくて当然なのですが、でも本当はそれほど難解なことでもなんでもないのです。

なぜなら、体験あるいは現象だけがある、ということを素直に認めてしまえば、結果としてそうなるからです。

このことをもっと簡単なことで実証することもできます。たとえば、目の前にリンゴが一つあるとします。

そのリンゴの属性として、丸い形、赤い色、重さ、大きさ、匂い、手触りなどを知ることができますね。

けれども、属性というのはそのもの自体ではないのは明白です。ではそのリンゴそのものをどうやったら知ることができるでしょうか?

つまりはそのリンゴの存在のことです。あらゆる属性を剥ぎ取った残りがそのリンゴの存在であるなら、それを知ることは不可能です。

それは存在というものがないからです。まるでそこにリンゴが実体を伴って存在しているようにイメージしているだけだったのですね。 

「ただ体験が起きているだけ」の実践

私たちは、何か嬉しいことがあるとただそれを喜んでいられるのですが、逆に思い通りに事が進まなかった時には、なんだかなと不満を感じるのです。

毎日はそんなことの繰り返しですね。満足と不満足で、どちらが多いのかは分かりませんが、確実に言えるのはどちらか一方だけになることはないということです。

私が最近心がけていることは、買いたいものが見つからないとか、失敗したとか、期待していたような結果にはならなかったりした時に、アレを思い出すのです。

それは、全てがただ体験として起きているだけ。しかもそれは私の体験のように感じるのですが、それはただ起きているように見えるのだと。

この非二元の感覚に戻ることができると、ありがたいことに嫌だなと思ったり不満に感じていたことが、フッと薄れていってくれるのです。

その不満感の中に取り込まれていた感じがスーッと抜けていってくれるのです。それとともに、個人の入り込む余地もないよと。

これが完全にリアルタイムでできれば一番いいのですが、それはまだ難しいようで。それでも、「なんだかなあ」がやってきた直後には思い出せるようになれたかなと。

これはなかなかの強みになりそうです。実践すればするほど身についてくれるし、気楽になれる実感も伴っているのでやるのが楽しみでもありますね。

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体験はコントロールできない

私たちは誰もが、自分は1人の人間として生きている中で、日々様々な体験をし続けていると思っているのです。

これに異議を唱える人はあまりいないはずですね。けれども、本当のところはそうではありません。

というのも、正確に表現するのであれば、1人の人間として日々生きている、という体験が起き続けているということなのです。

この違いは決定的なものです。なぜなら、前者は自分が体験者であるということを意味しているのに対して、後者は体験者はいないことを意味するからです。

つまり、自分が日々さまざまな体験をしながら生きていくのが人生だと思っているのですが、実際にはその丸ごとが体験だったということです。

あくまでも体験がただ起き続けているだけで、そこには個人などという体験者が入り込む余地などありません。

自分自身が何を体験するかを決めることができると思っているかもしれませんが、それそのものが体験なのです。

例えば、自分に何も体験させないようにするために、長時間瞑想をし続けたという場合も、その最初から最後までの丸ごとが体験そのものなのですね。

体験をコントロールできるような何者も存在していません。体験以外のどんなものもあり得ないからです。

個人としての自分を追い詰める

ゆっくりと時間が取れる人生になってきてくれたので、有り余る暇な時間を使ってじっくりと自分自身と向き合ってみようと。

まず自分が所有していると思うものを全て傍に置いて、残った丸裸の自分となって、それとしっかり対峙するのです。

膨大な記憶がフワフワと雲のように浮かんでいるけれど、それにも触れないようにするのです。もちろん思考についても同様にして、傍に置いておきます。

五感や身体感覚などが随時起きているのですが、それも自分のものではないとして、そのままにしておくのです。

つまり体験が途切れることなく、ずっと起きていることに気づいているままにしておくのです。

それでも自分はいるような感じがあるのですが、それが本当に個人としての自分なのかどうかを検討してみます。

すると、もうすでに個人であるという証拠がどこにも見当たらなくなっています。それでもいるように感じてしまうこの自分とは一体何なのか?

このように厳密に自己を追い詰めていくと、結果的には意識(気づき)だけが残っていることに気づきます。

これはなくならない。なぜなら、発生したことがないのだから消えることもできない。ただあり続けるのですね。

自分が気づいているのではなく、気づきだけがあるのです。それを自分と呼ぶのが相応しいのかどうかという問題だけなのかもしれません。

体験とは意識の中に現れる現象

非二元の説明の時にいつも言っている、体験だけがあるという場合の体験とは、無限の意識の中に現れる現象のことを指しています。

それは理由なくただ現れては消えて行くのであって、そこにはどんな原因も説明も不要ですし、理解もできません。

それが体験であって、実はそれ以外は一切合切がないのです。あるというのであれば、それは妄想でしかありません。

極端に聞こえるかもしれませんが、これが正直になった時の事実です。コレしかないというときのコレも同じものを指します。

思考の想像力というのはとにかく凄まじいものがありますね。私たちの毎日の生活は、それの上で動いているのですから。

それを外すことは一般的には不可能なことのように見えます。けれども思考の中身を見ずにいることができれば、直接の体験がそこには待っています。

それは自我の我々にとっては非常に味気ないものです。なぜなら、色や形、音、感触、痛み、そんなものしかないのですから。

しかももしかすると、そう言った現象すら本当はないのかもしれないですね。そこは究極的には意識だけが残るのですが、ここにはまだ光を当てられずにいます。

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意識の中で私という体験が起きている

私たちは常に自分ありきの考え方をしています。自分には、意識があって、考えることもできて、人生のあらゆる決断をする主体なんだと。

自分には心もあって、感情が出てくることもあるし、気分が揺れ動いてみたり、気持ちが高湯することもあるのです。

自分の身体からやってくる身体感覚や、五感を通してあらゆる外部の情報を取得しつつ、自分独自の体験をしているのだと。

けれども、これは事実のように感じているだけで、想像の類でしかありません。本当は、そうした「私」という体験が意識の中に起きているのです。

いつも言っているように、体験には二種類があって、一つは直接の体験であり、そこには誰もいないし、何もないのです。

もう一つの体験は、思考体験です。つまり、思考を駆使した物語の体験です。そして、そこにこそ「私」という自我としての体験があるのです。

私が意識を持っているのではなく、意識の中で私という体験が起きているのです。この両者の違いは決定的ですね。

このことが明確になると、非二元がなんなのかが分かる様になるはずです。

意識は照らす

「見つめるものは拡大する」という言葉があるのですが、これは誰もが大なり小なり経験していることだと思います。

どういうことかというと、ジ〜っと見つめるとそこがクローズアップされていくということ。これは意識の機能なのかもしれません。

意識がそこを照らすという言い方もできますね。つまり、集中するとその部分だけにスポットライトが当たるのだと。

だから、その部分が強調されて知覚されるわけです。これは自然なことなのかもしれませんが、その功罪があるという話です。

功罪の功の方は、そこをしっかり見たいわけですから、その部分だけが強調されれば都合がいいのです。

一方の罪の方ですが、例えば身体のどこかに痛みがあるような時に、そこが気になって常にそればかりを気にしてしまうと、痛みが拡大されてしまうのです。

身体に意識を向けてしまうと、身体が強調されることで自分は身体だという感覚がそれだけ強くなってしまうわけです。

そう考えると、自分は身体ではないという感覚を維持するためには、なるべく身体の健康を保っている方がいいようですね。

精神の健康についても全く同様のことが言えます。心身ともに健康なときほど、非二元の感覚に無理なく入っていけるとも言えますね。

AIは主観的体験(クオリア)を持つようになるか?

何か分からないことがあると、AIに聞いて教えてもらうということが、多くの人たちにとっての日常になりつつあります。

そして、AI相手に会話が弾んだりすると、端末の向こう側に誰かがいるんじゃないの?という気持ちにさせられたりもします。

でも誰もいないことは、百も承知しているわけです。今のところですが、AIに意識があるとは誰も思っていません。

けれども、そのうちすぐに本当に意識がないのか知りたいという日がやってくるはずです。その時、私たちはどうすればいいのか?

有名なものには、チューリングテストというのがあります。でもきっとどこまで行ったところで、主観的体験(クオリア)を持つのかどうかを判定する術はないと思いますね。

実のところ、このような話自体が物語の中の一つに過ぎないわけで、つまり非二元的に見ればAIなんてものもないのです。

だから、AIが自我を持つようになるのかどうかという問題自体が見当たらなくなってしまうのです。

非二元を前にすると、つまらないかもしれませんが、AIが人類を征服するようになろうが、宇宙人が襲来して来ようが構わないということですね。これ、最強です。

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「私」は心的活動のプロセス

我々が「私」だと思っているソレには、中心というものがありません。なぜなら、実体がないからですね。

それなのに、そもそもなぜ一塊りの存在のように感じることができるのか?ここが非常に悩ましいところです。

でもよく見つめてみると、ソレは何らかの仕組み、メカニズム、あるいは心的活動のプロセスと言えるかもしれません。

仕組みやプロセスであれば、実体がないのは当然です。何かの働きに過ぎないからです。私たちは自動車を一塊の存在と見ています。

もちろんボディがあるからですが、それにしてもそれ以上の何かを感じるのではないでしょうか?それが車の働きによるものです。

動くというプロセスが起き続けているだけなのですが、そこに何かがあるように感じてしまうわけですね。

けれども、ボディ以外の内部の複雑な部品を一つ一つ解いてバラバラにしたところで、そこには何も見つかりません。

それと全く同じなのでしょう。1人の人間としての機能が起き続けているだけで、それをバラバラに解体したところで、何も見つけられないのと同じです。

たまにですが、自分を一人のまとまった存在としていられるようにしようと、企てていることに気づくことがあります。

自我としては、そうした涙ぐましい努力を裏で行なっているということですね。そうでもしないと、崩壊の憂き目に遭うとも限らないからですね。