リアルな現実が分からない

自分の中で、非常に重要な気づきへと繋がるかもしれない、でもまだ釈然としない事柄があるのですが、それについて書いてみたいと思います。

視覚についていうと、私たちは毎日毎瞬それこそ様々な色や形を体験し続けているわけです。色の種類も形の種類も無限です。

たとえば、白色を体験し、それが消えた後に、次に青色を体験したとします。このとき、直接の体験に留めるとすると…。

まず、最初の色の体験が起きているときに、それが白色であるという認識は直接の体験としては起きていません。

さらに、次の青色の体験が起きているときも、それが青色であるという認識は直接の体験としては起きていないのです。

となると、一体どのようにして異なる色の体験が起きていると感じることができるのでしょうか?

そもそも色の違いと言ってしまっているので、それは両者を比較する必要が出てきてしまうので、そこには必ず思考(記憶)が必要となるのです。

ここから分かることは、直接の体験だけがリアルだと言うならば、そこには色に限らず、あらゆる種類の「違いという体験」がないということになってしまうのです。

そしてこのことを拡大していくと、色という体験と音という体験の違いも消えてしまうのです。リアルな現実っていうものが、全く分からなくなってしまいますね。

亀の歩みのような探究

最近といっても、もうかなりの期間に渡っているように感じるのですが、眠気が凄まじい状態になっています。

何も疲れるようなことは一切やってないので、おかしいなとは思っていたのですが、先日気づいたことがありました。

それは、ただ本当に眠いというのがやって来たことがあったのです。それは普段感じているあの眠気とは違って、普通に眠いという感覚だったのです。

それで、いつも感じているあの重苦しい眠気は、やっぱり異常なものなんだなと分かったのです。目を開けていられない感じがするのですね。

もしかしたら、非二元の探究が思ったようには進んでくれていないことが、原因なのではないかとも思うのです。

何か新たなほんのちょっとした気づきでもあれば、気分はいいし次はもっといけると思うのですが、停滞感が拭えない。

とはいえ、その異常な眠気の中をかい潜りながらも、亀の歩みのような探究は続けていけるのかなと。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

「あさっての方向」って?

これは比喩的な表現になるのでしょうけれど、「あさっての方向」という言い回しがありますね。実際に使うことは少ないのかもしれませんが。

たとえば、「話があさっての方向に行っている」→ 話題がずれてしまっている、という意味になるかなと。

あるいは、「努力があさっての方向だ」→ やっていることが目的に結びついていない、くらいの意味になるのです。

数年前から、明示的にこの言葉を自分の中で使うことがあったのですね。それは何かというと、「どこでもない場所に意識を向ける」という感じかな。

目を閉じるのではなく、それでも周囲のどれにも視線を向けることなく、想像を絶するどこかに意識(視線)を向けるというくらいのニュアンスなのです。

この自分にはとても理解することができないような、どこか(のレベル)に意識を向けるような感じです。

なぜこんなことをやるかというと、そこにこそ真の自己が在るという感じがしているからです。とても変な話ではあるのですが。

初めて言ってみました。「どんな方向でもない」ということを表現したかったのですね。似たようなことをやっている人がいたら、共感していただけるのかなと。

探求中なので、新しい動画の方を優先して下さい

つい先ほど、7ヶ月も前に挙げた動画に対するコメントが届いていて、ちょっとした質問のようになっていたので、それに答えていたのです。

それで、気付いたことなのですが、あらためて過去動画を見直してみると、まだ半年ちょっとくらいしか経ってないのに、自分の感覚がかなり変化してしまっているなと。

1日おきくらいの割合で動画を挙げ続けてきているので、動画の本数が多くなっていて、過去動画を随時見直すということをあまりしていないのです。

だから人に聞かれて答えるときに、あの頃はどんなことを話していたのかなと思って、ようやく見直して見たりするわけです。

すると、本当にあの頃の自分が甦るのですが、だいぶ違ってしまったことに気づいて、過去動画というものをこのままにしておいていいものかどうか。

もしかしたら、今と真反対のことを訴えていたりすることがあるかもしれないなと。ちょっと危惧することになりましたね。

一度言ったことを覆したりするな!と言われても、こればかりはどうしようもないのです。探求の途中なので、新たな気づきがあれば言うことが変わってしまうのです。

微妙に表現方法が違う程度なら別にいいのですが、非常に肝となる部分については、できれば新しい動画の方を優先して視聴していただけたらと思います。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

どんな境界もなかった

直接の経験に留まる検証・実験を繰り返して調べてみると、そこにはどんな境界も見つけることはできないと分かるのです。

境界がないということから、どんなことが明らかになるかという点についても調べてみると驚くべきことが分かるのです。

それは一つは、境界がないと「モノ」が存在できないと分かります。モノというのは、境界で囲まれた独自の存在だからです。

そしてモノがなければ、構造とか関係性といったものも消えてしまいます。例えば、「因果」というのは、AによってBが起きるということ。

AがBを「包含」するとか、AがBを「所有」する等々。こうした関係性が全てなくなります。あるいは、内側と外側というのも単なる概念だったと気づいてしまうわけです。

またもう一つの境界がないことによって明確になることは、有限というのは幻想だったということです。

無限しかないということ。境界があることによって、有限性というのが生まれるのであって、自然にはそれがない。

だからこそ、経験できない経験はないということが分かります。言い方を変えると、コレ以外の経験はないということです。

あるいは、視覚に特化してみると、見えるものは全て見えているということだし、見えてないものはないということですね。

極端な苦しみは非二元に目覚めるチャンスかも

クライアントさんとのセッションでこれまでのお話を聞くにつけ、思考が作り出した物語とは言え、人生があまりにもムゴイなと、過酷すぎるだろうと思ってしまうことがあります。

どうやったらそんな凄惨な物語の中で、子供時代を生き抜いて来れたのか想像ができないと感じてしまうからです。

それでも、どうにかやりくりしてこれまで必死になって生き延びて来たことに驚嘆と畏敬の念さえ感じずにはいられません。

自分を守ろうとする自己防衛が限度を超えてしまうと、生き延びることができたとしても、今度は自己犠牲が激しくなって自らを苦しめてしまうのです。

そうして、大人になってもその生き方を変えることが至難の業になってしまうのですね。それは幼い頃の過酷な状態を心の中にずっと持ち続けているからです。

つまりは、大人になった本人が、現実を幼いときと同じ目線でしか見ることができないのです。だから、どうしても悲惨さが繰り返されるのです。

こうした壮絶な人生を生きてこられた人が癒しを通して、新たな生き方を身につけることができたなら、きっとそこに留まるだけでなく、場合によっては一気に本当の現実に目覚めるかもしれません。

つまり、非二元に目覚めてしまうということもあり得るなあと思うのですね。

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イメージできなくても体感はできる

昨日のブログで、非二元というのは想像を絶するのだと、つまりまったくイメージすることができない、ということを書きました。

とはいうものの、眠る前とか少しの間かもしれませんが、自然とそこに想いを馳せてしまったりするのです。

その時ふと感じたことなのですが、イメージできなくても、不思議なことに体感はできるかもしれないと思うことがあったのです。

経験だけがあって、それは誰のものでもないんだと。それを繰り返していたら、ちょっと分かったことがあって。

それは以前にも書いたことがあったと思うのですが、非二元というのは一様だという感覚です。どんな構造も持っていないのです。

だから、この経験は自分のものだとすると、そこだけが一様ではなくなってしまうということが分かったのです。

それでは美しくないし、その方があり得ないだろうということが腑に落ちたのです。しかもそれが分かった時に、僅かながら体感に変化があったのです。

朝目が覚めたら元に戻っていましたが、イメージを作ろうとしないで理詰めでやって行った方がいいのかもしれないなと気づいたのです。

イメージするときに、必ず空間が前提となってしまうようで、これがすごく邪魔をしてしまうということも分かりましたね。

イメージできないことに怯まない

非二元の探求を進めていて気づくことなのですが、非二元をイメージすることができないということです。

自分も他の人も誰もいないってどういうことだろうとか、目に見えるものや触れることができるあらゆるものが現れでしかないと。

それは私たちが絶えず感じているこの感覚だったり、自分の感情や思考なども含めて全てが現れに過ぎないのだと。

こうしたことを自分の想像力をフル活動させたとしても、どうにもこうにもイメージすることができないのです。

要するに想像を絶するとはこのことなんだなと。最も、時間も空間も単なる概念でしかないということなので、当然と言えば当然なのですけど。

そうなると、もう世界というものが消え失せてしまうのですね。どんな世界?という言葉すらトンチンカンになってしまぅのです。

自分がイメージすることができないものを、どのようにして体感していくことができるようになるのか?

これまた想像を絶する感じがしてしまいますが、そんなことを考えても怯むだけなので、イメージせずにいるしかないのですね。

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視点も見る方向もない

これまで何度も直接の経験に留まる検証実験を繰り返した結果、経験主体という経験が起きることはなかった。つまり、経験をするものはいないということ。

経験は誰のものでもないということです。となると、例えば視覚においては、誰かが見るという経験は起きていないのです。

誰かが見るのではなく、視覚という経験がただ起きているということなのです。これがとても分かりづらいのです。

なぜなら、私たちは長いこと経験とその経験者というのを分け難い「対」として捉えてきたからなんですね。

けれども、厳密な検証をすればするほど、それがただの想像に過ぎなかったことが分かってしまうのです。

視覚について、「見る」ということは起きようがないことが判明してしまったわけです。そうなると、視点もないし、見る方向というものもないわけです。

つまり、どこから見ているということが言えなくなるし、どちらの方向を見ているかも意味をなさなくなってしまうのです。

私たちはいつも前方ばかり見えていて、後方は見えないと思っているのですが、それが幻想だったわけです。

方向という経験が決して起きないので、 前も後ろも、右も左も、上も下もないということになってしまうのです。

こうしたことにしっかり気づいていくことで、「こちらから向こうを見ている」というこれまでの感覚に変化が起きてくるかもしれませんね。 

非二元へと向かっている尺度

非二元の探究をしている人にとっては、すごく重要なことだと思うのですが、とにかく気づくだけではなくて、その証としての体感も欲しいのですね。

例えば、空間とは概念だったと気づいたところで、やっぱり空間という実体はないね、という体感ベースの気づきも伴って欲しいわけです。

自分なりに、二元から非二元へと変遷していく中で、その進度がどの程度なのかの指標になるものがあったら良いなと思ったのです。

それで、思いつくままに以下のようなものを考えてみました。興味がある人は是非参考にしてみてくださいね。

・自分が身体の中にいるという感覚がどのくらい減ったか?

・自分が人間だという感覚がどのくらい減ったか?

・ここから向こうを見ているという感覚がどのくらい減ったか?

・自分が動いている感覚がどのくらい減ったか?

・自分は無限の気づきだという感覚がどのくらい増えたか?

・自分は経験そのものだという感覚がどのくらい増えたか?

こうした体感ベースのものって、一度やって来たとしても放っておくと元の二元の感覚に戻ってしまうこともあるので、絶えず「気づきの視点に立つ」を実践することが大切なのですね。

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