できるだけ正直になるための実践

非二元の話をするときに、イメージを現実であると思い込んでしまっていることに気づくことがとても大切だということをお伝えしています。

私たちにとって一番身近なのは、やっぱり自分自身だと思うので、自分に対するあらゆるイメージを脇に置くという練習が効果的なのかなと。

そこで徹底的に自分にまつわる情報、データ、記憶などをすべて脇に置いて自分を見つめてみるということを実践してみるのです。

もしも目を閉じた方がいいなら目を閉じてやっていきます。まずやることは、今この瞬間に自分が出現したかのようにするのです。

ここにあるものだけを相手にするのです。自分にまつわるあらゆる属性を使わないようにするのです。

「自分の◯◯」をすべて却下していくと、後に残るものはどんなものでしょうか?自分は人間だという証拠はどこかにあるでしょうか?

自分は個人だという印は?自分は生きているという証は?自分の大きさは?形は?どこにいる?

これらの質問には一切答えられなくなるはずなのです。もしも答えられるとしたら、まだ情報を利用してしまっていることに気づくことです。

私たちは、本当のところ自分が何なのかを全く知らないということに気づくことになるのです。これがリアルなのですね。

こうした実践を地道に繰り返していくことで、自然と普段絶え間なく使い続けている古くからある自己イメージが、崩壊していくことになるのですね。

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リアルなものは説明できない

非二元に気づくためには、リアルなものとそうでないもの、つまりイメージとの違いに気づく必要があるということ。

ではなぜ私たちが単なるイメージを現実だと勘違いしてしまうのでしょうか?それは、他者との共有能力があるからなのです。

そもそもイメージする能力は、人間だけに備わった非常に優れたものなのです。他の動物には、昨日のことを思い出したり、未来を想像することはできないのです。

そしてそのイメージを他人に伝えるために言葉を発明したわけです。そうすることで、イメージを他者と共有することが可能となったのです。

自分一人でイメージしていることは、あくまでも想像していることとして取り扱うことにとどまるのですが。

他者と共有することができた時には、イメージは単なるイメージではなくなり、真実味が出てきてしまうのです。

そうして、より多くの人々との共有を通して、完全に現実と思い込むようになってしまったのですね。

つまり、私たちが日頃言葉で説明しているあらゆる事柄は、どれもこれもがイメージでしかないということ。

逆に言えば、リアルなモノは説明できないということになるのです。だから、賢者と言われる人々は真実を教えて欲しいと言われた時に、黙って坐れ!のような態度を取るのです。

真実は決して言葉で説明できないことを見抜いているからですね。非二元の話をする時も、コレしかないのような曖昧な表現を使うのも同じ理由です。

それがわかると、我々は虚構の中で生きていると気づきます。生きているというのも虚構でしかありませんけれど…。

期日前投票の風景

先日、期日前投票を済ませてきました。家から最寄りの駅と同じ距離くらいのところにある、とある区の施設なのですが。

歩いていくと10分弱かかってしまうので、この時期なるべく汗をかきたくないと思って日が沈んでから向かったのです。

建物の入口付近にちょっとした人の塊があって、なんだろうと思いつつもさっさと投票を済ませて帰ろうと。

中に入るとガラガラで、これはいいやと思っていたところ、ちょうど目の不自由な方が私の前にいらっしゃって。

付き添いの人と一緒に何やらやっていて、どうやって投票するのだろうと気にはなったのですが覗き見するわけにもいかず。

さりとて追い抜くこともできずに、結局はしばし待たされた感じになってしまいました。これはまあ仕方ないなと。

とはいえ、一体どんなやり方で投票するのかという興味だけが残ってしまいました。投票を終えて建物から出ようとすると、先ほどの人の集まりがまだあって。

ああ、いわゆる出口調査というものをやっているんだろうなと理解できたのですが、そこで引っかかりたくなかったので、そそくさと家路につきました。

今思い返してみると、生まれて初めての出口調査だったので、経験しておいても良かったのかなと。

自分でも不思議なのですが、外出中はいつもなるべく早く家に帰ろうとしている自分に気づくのです。幼い自分が外の世界を怖がっている?

そのことで、やや損をしていると感じることもあるのですが、仕方ないですね。そういうキャラになってしまっているので。

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三連休なか日の選挙ってどうなの?

三連休の真ん中の日に、参議院選挙を行うのって、どう考えてもできるだけ投票率を下げたいと思っているとしか言いようがありませんね。

一体何を考えているのでしょうか?いやいやこれを決定した人は呑気な馬鹿タレではなく、逆に必死なのが窺い知れます。

要するに、自分たちの政党、あるいは自分らが投票率が低いほど有利に働くということを見越しているわけです。

頭がいいのか悪いのか分かりません。でも、これ国として終わってませんかね?多くの人が選挙に行けば行くほど、自分たちが不利になると見込んだわけです。

そんな人たちを国会議員にしておくのはどうなんでしょう?それもきっと与党に違いない。終わってますよねえ。

誰が政治家になった所でいわゆる影の力が暗躍している限り、この国がよくなることはないと言うことを聞きます。

確かにそういう面もあるのかもしれませんが、とりあえず今回の選挙は期日前投票でこのままではダメでしょという意思表示をしました。

結局は、国民一人ひとりの意識のレベルが大切なのだと思いますけどね。

自己イメージを手放す

私たちの人生がどのようなものであれ、それはすべてその人が抱えている自己イメージによるものなのだと理解することです。

かなり幼い頃から自己イメージというものを無自覚に作り上げてきてしまったのですが、不思議なことにその自己イメージが現実化してしまうのです。

ただし誰もが自らの自己イメージを明確に分かっているわけではないですね。自己イメージはマインドの奥深いところに隠されていることも多いからです。

もしもあなたが自分の人生に満足していなかったり、自分はこのままではダメだと思い込んでいるとしたら、何はともあれ自己イメージに気づくことが先決です。

自己イメージをそのままにして、どんな努力を繰り広げたとしても結局はその自己イメージ通りの人生に戻ってくるからです。

逆に言えば、何にもしなくても自己イメージさえ変えることができれば、あなたは望み通りの人生へと向かうことも可能なのです。

そうなんです。どんな努力も不要なのです。ただただ自己イメージを書き換えることができれば、それが現実となるのです。

けれども、一番いいのはどんな自己イメージも持たないで生きること。これに尽きますね。透明な自己イメージはこの世界の全てから解放されるからです。

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今ここにいるってホント?

「そもそもコレって何なの?」というのをごく稀にやってしまうということを、少し前にこのブログで書きました。

それと関連するものなのかどうかは分からないのですが、もう一つ似たような変なことを経験してきていることを思い出したのです。

というより、これはつい最近も自分に起きた出来事なのですが。内容は非常にシンプルで、ただ説明するとどうなるのか…。

あるとき突然なんの前触れもなく、「今ここにいるのって本当なの?」というのがやってくるのです。

とても不思議なことなのですが、急に本当はどこにいるんだろう?というあやふやな感覚に襲われるということです。

ただその感覚がやってきている時間は、きっととても短くてあっという間に消えていってしまうのです。

だから、またすぐに何事もなかったかのように生活を継続していけるのですが、あれが一定時間続くようなものだとしたら、ちょっと怖いかも。

例えば、歩いているときにアレがやってきたとしても、一瞬たじろいで周囲を見回すようなことが起きたとして、歩きをストップするまではいかないということです。

でもそのあと自分なりにその感覚を反芻するのです。その時に初めて言葉にして、自分でその感覚をもう一度味わうのです。

これ、もしかしたら今まで一度も誰にも伝えたことがなかったかもしれません。言ったところで、伝わらないし意味もないことですし。

もしも似たような経験をしているという人がいたら、コメントに書いていただくと嬉しいですね。

満足していたら非二元なんて興味ない

非二元に興味を持つのはいいのですが、その目的とは何でしょうか?ただ知りたいという純粋な好奇心だけてあればいいのです。

非二元を極めると、今の自分の問題がさらりと解決してしまって、これまで憧れていた自分を確立できるのだと。

筆舌に尽くしがたい完璧な心の状態になって、死ぬまで良い状態が続けばいいな、みたいな期待をしているかもしれません。

だとすると、非二元を極めることなど到底できなくなりますね。というのも、そこには自我の欲望が強く反映されていると感じるからです。

もちろんそれが悪いということではないのですが、完璧な自分になるために非二元に気づきたいという思い。

それは自我ど真ん中であって、自我の邪魔が入って自分はいないということを思考で理解するレベルに留まってしまうかも。

とは言え、今この瞬間が満ち足りているならわざわざ非二元に興味を持つこともないのではないかと思うのです。

というわけで、何であれ今が満足できないということが何かを探求する動機になっているのは当然なのですね。

理想的には、そうした動機があるにせよ、それを脇に置いてできる限り純粋な好奇心によって探求することが大切なのかなと思うのです。

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何事も信じてはいけない

「信じる者こそ救われる」と言った言葉があるように、疑い深い人よりも信じやすい人の方が一見良い人のような印象がありますね。

けれども幼い頃ならともかく、自分自身で物事を捉えるようになっていく時に、誰かの言葉をそのまま信じてしまうなら、そこには成長を見込むことができないのです。

信じてしまえば、そこでストップしてしまうからです。自ら検証しようとしなくなるのです。それは、信じないという態度と全く同じなのです。

信じても信じなくても、探究をしなくなるのです。それだけでなく、信じるということは自分にとって都合のいい場合に限るのです。

そして一度信じてしまうと、人間はそれを大切なものだと思うようになるし、それが正しいことだとも思うようになるのです。

つまり、信じたことに執着することになるわけです。すると、それを否定された時に、正しくないと言われた感じになってしまい、自分を否定されたと勘違いするかもしれません。

信じることには、どんな意味もないし、どんな力にもならないのです。そればかりか、強く信じ込めばそれは信念となって、生涯自分を縛ることになるのです。

なぜなら、信念を信念と見抜く代わりに、それが真実だと感じるようになってしまうからです。それはでっちあげられた世界を信じて生きるようなものです。

これが私たちが暮らしているこの二元の世界なのです。非二元の探求を通して、そうしたウソを鋭く見抜くことができるようになるのですね。

非二元の探求が二元の世界での生き方を変える

非二元の話をすると、あまりにも非常識過ぎる内容なのでほとんどの人々からは、そっぽを向かれてしまうでしょうね。

それはそれで当たり前のことですが、でも非二元に興味や好奇心を持つ人もいるわけで、そういう人にとってはちょうどいい探求のターゲットなわけです。

ところが最近は、それだけではないかもしれないなと思うようになりました。というのも、非二元そのものではなくて、非二元に気づこうとする時の方法が大事なのです。

二元の世界が本物ではないというのは、イメージを使って我々が生活してしまっているからなのです。リアルなものは、この世界にはほとんどありません。

その全ては作り物、でっち上げられたものばかりに囲まれて、私たちは生きているのですが、そのことに気づいていないのです。

そのことを見抜くことができれば、自然と非二元が本当の現実というものの本質なんだと気づくことになるのです。

だから、非二元がこうだああだということに興味がなくても、イメージをイメージとして見抜くことができると、この二元の世界でも生き方が大きく変わってしまうはずなのです。

それはきっと、過去や未来に捉われずに、今この瞬間に在るというシンプルな生き方になっていくはずなのですね。 

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ダグラス・ハーディングと非二元

今から14年前にハーディングさんの本と出会って、初めてその実験をしてみた時に、びっくりする体験をしたのですね。

このことはもう何度となくこのブログでもお伝えしているのですが、自分の顔と頭が消えてしまうという体験だったわけです。

自分の身体というのは、こうなっているという一つの明確な自己イメージを誰もが強く持ってしまっているので、実はそれがその実験の邪魔をするのです。

その自己イメージを瞬間でもいいので脇に置くことができさえすれば、誰もが無努力で頭が消える体験ができるのです。

最初の1秒で誰もが真実を見てしまうということが可能なのだと。どんな修練も修行も全くいらないのです。

ただし、人は強い信念と習慣の中で生きているので、それと反することは何度も繰り返してじっくりと熟成していく必要はあるのです。

日頃お伝えしている非二元と最も違うところは、被験者の体感ベースだということ。それ以外にはああだこうだということを主張しないのです。

そこがスマートですよね。モノの実体がないとか、時空もないとか、誰もいないと言ったことは一切言わないのです。

そういうことは人から聞いて理解するようなことではないよと。実験を通して、自分で気づけるはずだからと。

ハーディングさんが非二元のカテゴリーに含まれるかどうかなんて、ホントどうでもいいことだと気づきます。

私自身は、最近まずハーディングさんの実験から入って、明らかに自分は人間としてはいないと分かって、更にコレだけがあるということに気づく流れかもしれません。