一日一回リセットする

日々の生活のリズムというのは、一日活躍してそれなりの労働によって疲労した心身を、睡眠によって回復させるという繰り返しです。

もしも睡眠を取らなければ、数日で我々は病的な状態になってしまいます。ただ睡眠だけで、すべての疲労や負荷が100%回復できればいいのですが。

それができなければ、瞑想などを通してより深い回復の手続きが必要となるわけです。瞑想をすることで、身体のリラックスと同時に頭の中を空っぽにすることができます。

ここからが今日の本題なのですが、最近はあまり瞑想をすることもなくなった代わりに、非二元の感覚を利用するようになりました。

夜寝る前や夜一人で静かな時間を過ごしている時に、非二元に意識を向けるようにしていると、あっという間に頭をリセットできるのです。

瞑想と違うのは、瞑想は身体が先行してリラックスすることで、結果として頭も空っぽになるのですが、一方で非二元は身体は使わずに直接頭をからっぽにできるのです。

その時間だけは、無に帰るようにできるし、真実に触れることもできるのです。瞑想よりもよりお手軽に短時間でできるのがメリットかもしれません。

それに加えて、これしかないということの気づきによって、明日を心配したり不安に思うようなことが激減します。

何もないし誰もいないし、何も起きていない。ただこれだけがあることのシンプルさ、比べるもののないことの気楽さがやってくるということですね。

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「小さいおじさん」の正体!?

「小さいおじさん」って聴いたことありますか?一種の都市伝説的な話なのかどうかは分かりませんが。

私も以前小さなおじさんに会いたいなと思っていたことがあるのですが、これまで一度も遭遇したことはありません。

皆さんの中で小さいおじさんを見たことがあるという人がいたら、是非教えていただけたら嬉しいです。

人によっては、小さいおじさんというのは妖精なんだという人もいるようですが、それとは正反対のことをいう人もいます。

いわゆる餓鬼界に落ちた人の姿なんだと。餓鬼界というのは、あれが欲しいこれが欲しいという欲望に飲み込まれて生きていた人だそうで。

そういう人が餓鬼界にはまり込んでしまった姿の一つが小さなおじさんなんだと。なかなか面白い話ですよね。

人間の欲望というのは、本当に尽きることがなくて、何かを手に入れたと思えば、すぐに次のものが欲しくなる。

このループは果てることがありません。どこかで、もう気づけばいいようなものですが、それがなかなか難しいのですね。

そんなことを聞いてからは、別に小さなおじさんに会いたいとは思わなくなりました。この会いたいという願いも一種の欲望かも知れないですね。 

人の言葉よりも自分の内側の声を聴く

私たちは生まれてからずっと、周りの大人たち、親や先生や先輩などから様々なことを教えてもらってきましたね。

社会にでれば、社会という得体の知れない何かから、たくさんの事柄を教えられて、無数の事柄を培ってきたわけです。

そうしたものの中で、本当に自分の毎日を気持ちよく、豊かなものにしてくれることに役立ってきたものってどれほどあるんだろうか?

そう考えてみると、正直言葉は悪いかも知れませんが、ほとんど何もないんじゃないのかなと思ってしまいます。

私の場合であれば、真に自分のためになることを教えてもらったなと思っているのは、会社をやめた後に今の仕事をするようになってからなのです。

多くの人たちとともにセッションを通して、実体験を題材にしつつ学ばせてもらったんだなと思うのです。

それと、oshoの言葉からも深い知恵の言葉を繰り返し学んできたなと。となると、人生の前半は一体なんだったのかなと。

幼稚園から始まる集団生活、ほとんどが気の進まないことをやらされたりして、とにかく好きなことをやらせて貰えることの少なさだけが印象に残っていて。

それはワガママだと言われたらそれまでなのですが、でも人はそうあっていいのだと今なら胸を張って言えますね。

私は運良く親からどんな強制もされなかったのですが、それでも社会人ともなればそれなりの抑圧もあり、自分の居場所はここじゃないと何度も感じたりしていました。

もうだいぶ人生の終盤に差し掛かってきたので、若い人や生きづらいと感じているたちに言いたいのは、もっともっと自由奔放に生きるべきだよと。

人の評価や噂を気にせず、誰かの顔色を伺うことをやめて、自分の内側の声に耳を傾けてあげて、できるかぎりそれに従っていくことですね。  

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見る角度なんてない

小学生の時に、大嫌いな写生の授業があって、みんながてんでんバラバラに学校のあちこちに散らばって、思い思いの絵を描き始めたのです。

自分は数人の仲間と一緒に、大きな枯れたような木をど真ん中に持ってくる位置で画角を決めて、見たままの風景を描いたのです。

後日、図工の先生が全員の絵を一枚一枚見ながら批評をするのですが、自分の絵に対してこの大木を中心に持ってきた意味が分からないと。

つまり、絵の上手い下手ではなくて、風景の切り取り方を否定してきたわけです。そんなこと言われたって、こっちゃあ素人なんだし。

こんな昔の事をしっかり覚えているということは、その否定のされ方に自分のセンスを完全ダメ出しされた感じがして悔しかったのでしょうね。

そして今思うに、私たちは色々な角度で目の前の景色を見ることができると思い込んでいるのですが、そうではないなと。

今この瞬間に見えているものがすべてなんだと。ところが、私たちは経験上、見る位置や角度を変えれば、見えるものの見え方は変わると信じています。

たとえば、テレビを観ている時には、テレビの画面つまり前面が見えているのですが、後ろに回ればテレビの背面が見えると信じています。

これが違うという事です。なぜならテレビという物体には実体がないので、それは想定しているだけだという事です。

この辺のことが分かってくると、より空間やモノの実体というのはないということが明確になってくるはずですね。 

そもそも、コレは何なんだ?

何歳の頃から始まったことなのか、まったく定かではないのですが、記憶の限りではかなり遠い過去だと思うのですが。

ふとした瞬間に、本当になんの脈絡もなく両手を広げて、「そもそも、コレってなんなんだ!」とやるのです。

誰かに訴えているという気持ちがあるような、ないような。記憶では、誰もいないところで一人こっそりとやっていたかも。

生きていると、色々わからないことや変なことがあったりするものですが、そんなことよりもという気持ちで、そもそもって言っていたような。

非二元の話をするときの、「ただコレだけがある」というときのコレと似た感じがするのは確かですね。

けれども、一方でこの自分ありきで言っていたと思うので、そこは中途半端だったんだろうなと思うのです。

つまり、自分という存在はあるままに、周囲だけを見てこれは一体何?とやっていたということですね。

それでも、いったい全体コレは何なんだ?という疑問というか、訳がわからないという気持ちは今に通じるものがありましたね。

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昨日も今日も明日もない

このブログを書いている今この瞬間、ここにどんな体験があるのかをちょっとお話ししてみようと思います。

リアルなのは、ただ静かな部屋のソファに腰掛けてipadに向かってキーを打っているという体験が起きています。

これだけが本物であって、それ以外のことはすべて妄想です。この妄想にはどんなことがあるかというと…。

頭の中で、帰宅途中の車中で聴いていた曲が流れているという体験。この曲が流れているというのはリアル。

けれども、帰りのクルマのなかで聴いていた曲というのが妄想ですね。もちろん、その妄想をしているというのはリアル。

普段まったく買わない安価な白ワインを飲みながら、これはコスパが最高と思って喜んでいるのですが…。

喜んでいるのはリアル。けれども、ワインにまつわることは妄想です。その妄想をしているという体験はリアルですが。

こんなことをやりながら、気分がいいなあと感じているのはリアル。そしてコレしかないんだという感覚もリアル。

この瞬間、宇宙は消えてすべてはコレだけだという感覚がやってくるのですね。昨日も今日も明日もありません。  

自我は変化がお好き

オフの日に半日くらい寝てばかりいて、その後にビールを飲むのと、出かけて暑い思いをして汗をかいて、帰宅して飲むビールとでは味が全く違いますね。

ビールを美味しく飲むために、帰宅するまで極力水分を摂らないようにするというのもやってたことがあったと思います。

間違いなく健康にはよくないですけど。子供の頃、まだ家にエアコンがなくて夏の暑い日には窓を開けて網戸にしておくわけです。

その状態で、畳で横になっているときに、フワッとした何とも心地の良いそよ風が入ってくることがあって、あれはホントに気持ちいいもんですね。

そう言ったちょっとした気持ちよさというのは、きっと変化があるから感じられるものなんだろうなと。

帰宅して玄関を開けた時に、家の中がヒヤッとしてくれるととても気持ちがいいのです。これも変化を喜んでいるのです。

ところが、部屋に入ってずっと一定の温度で涼しい状態であると、確かにありがたいとは思うものの、ああ気持ちいい!とはなりません。

自我はいつも変化を求めているというのが分かりますね。安定志向のはずなのに、じゃあずっと安定していたらいいのかというと、そうでもないということ。

だから自我が強くいる限りは、ブッダの言う中道という理想的な生き方はできないということになりますね。

もしもあなたの人生がジェットコースターのような感じがするのであれば、それはあなたの自我がそれを求めているということです。

もしも穏やかな毎日を望んでいるのでしたら、自我の影響を小さくしてあげる必要があるということですね。

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非二元を考察するヒント

最近は非二元のことを多く発信しているのですが、二元と非二元をもっと平易な言葉でシンプルに対比できないかと考えてみました。

それで思いついたのですが、一般的な我々の世界観である二元性の世界というのは、モノがあるからそれを認識できると考えるのです。

つまり、モノありきで考えるのです。そんなの当たり前だろ!と思うかもしれないですが、それがそうでもないのです。

非二元では、何よりもまずは認識が先であると考えるのです。人から聞いた知識を使わずに注意深くみると、こちらの方が道理に適っていることに気づきます。

まずは認識が起きるのですが、ここはどんな先入観も使わずにいられるのです。だから、認識はリアルなのですね。

そのあとは、認識する主体と認識される客体があると想像するわけです。そしてそれを想像していることを忘れてしまうのです。

そして、あくまでも主体と客体がまずあって、その後に認識が起こるという具合にすり替えて考えるようになってしまったのです。

一度このように自分を騙してしまえば、これは気付かぬうちに強力な信念となって、疑うことがなくなるのです。

だから、認識だけがあるという非二元のことを言われれば、瞬間的に拒絶反応が起こってしまうというわけです。

どうでしょう?これが、非二元を考察するためのヒントになったらいいなと思います。

まるで紙芝居の一枚の絵のよう

昔「紙芝居」というのがあったというのをご存知でしょうか?実は、私自身かなり子供の頃ですが、家の近くに紙芝居のおじさんがたまに来てくれてたのを覚えています。

近所の友達と一緒に、おじさんの巧みな声色を使った語り口を聴いていたのですね。おじさんの肉声を聴くのが楽しいというのか。

紙芝居というのは、一枚一枚がただの静止画な訳ですから、今のアニメと比べたらどれだけ原始的かということですね。

それでも、かなりのリアリティを感じながらもその物語の中に入り込むことができていたのだろうなと。

あの紙芝居の一枚の絵を大きくして、自分の周りにグルッと見えるようにはめ込んだのが、今私が見ている部屋の様子だと。

そんな風に見えるんですよね。というのも、部屋の中の景色で動いているものが何もないので、本当に2次元の絵だなと。

自分の周りにという表現をしたのですが、実はその絵だけがあるように見えているだけで、それを見ている自分はいない。

それに3次元の空間もここには見当たらないんですよね。その絵の中に自分の身体と思しきものも含まれているのがミソですね。

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運転中の態度の変化

ほとんど毎日のように、クルマを運転しているのですが、いつもいつも交通ルールがメチャクチャなクルマや自転車などに翻弄される日々なのです。

なぜゆえにあんなふうな運転の仕方ができるんだろうか?とか、あれで死なないで無事でいられることが不思議だなとか。

酷さの順番で言うと、自転車、歩行者、クルマの順かなと。なぜイラッとしてしまうのかを分析すると、ある期待値があるからだと気付きます。

自分の期待値、つまりは想定される相手の動きというものがあって、それとのギャップを感じてしまうと、怒りと驚きと落胆とが入り混じるのです。

なので、できる限りは期待をせずにいられるようにしようと思うのですが、やはりそこはある程度のルールが必要なので、期待値ゼロは無理だなと。

そんなことを考えながら、ああでもないこうでもないをやっているうちに、ここ最近になって少しばかり自分の反応に変化が。

それはもしかすると、連日のように非二元の話をしていることの影響があるのかもしれないなと思うのです。

具体的には、所詮は誰もいないし実際には何も起きているわけではないと。もちろん、イラッとしてしまう自分さえいないのだし。

起きているように見えることがあるだけで、そんな紙芝居に一喜一憂するほどのこともないと気づいたのかもしれません。

この先の変化がどうなるのかも注目です。ただし間違っても、自分に何かを強いることだけはしないでおこうと思いますね。