無意識はリアルではない

何度もくどいようですが、非二元においてリアルなのは体験だけであって、それが現実だということです。

そしてその体験というのは、別の言葉で表現すれば「気づいている」ということなんだと。これ、新しい発見かもしれません。

何が起きているように見えていたとしても、実際には何も起きているわけではなく、それを体験として、気づいていることだけがリアルなんですね。

究極の言い方をしてしまうと、「気付き」だけがリアルなんだと。これ以外はもう本当に何にもないんです。

かつて、意識だけが実在するみたいなことを言っていたことがあったのですが、どうやらまたそこへ戻ってきた感じがしています。

ただ当時と違うのは、言っていることがもっと明確になったということです。本当に何もないということがはっきりした。

だとしたら、どんなことが起こっているように見えたとしても、ただそれに気づいてさえいればいいということ。

やっぱり、常に意識的であるということが重要であるということ。なぜなら、無意識はリアルではないからですね。

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体験は物理活動でも精神活動でもない

体験だけがある、体験がリアルな現実であり、現実とは体験のことだと言い続けてきました。これが分かりやすいのかどうかは定かではないですが。

ブッダは「行為はあるけど、行為者はいない」と言ったといわれているのですが、実際には行為もありません。あるのは、体験だけ。

「今この道を歩いている」のが現実で、「昨日もこの道を歩いていた」と思い出しているのがイメージだと捉えがちです。

けれども、実際にはどちらも同じようにイメージなのです。「今この道を歩いているという体験」が現実だし、「昨日もこの道を歩いていたと思い出している体験」も現実。

さらに言えば、物質的なものの実体がないのは明確なのですが、精神活動はどうなのかということがあります。

思考とか、感情とか、そういうものに私たち人間は支配されているように思われるのですが、本当のところはどうでしょう?

実は考えるということも、考えるという体験だけがリアルであって、思考そのものは幻想でしかないのです。

もちろん感情も同じこと。今私は猛烈に怒っているという場合、その激怒しているという体験だけが現実なのです。

怒りという感情は実体がないのです。ということで、すべての精神活動でさえ現実ではないということになりますね。

体験だけがリアル

非二元の気づきがやってくる以前は、スピリチュアルな情報を視聴するのが好きで、よく関連する動画を見たりしていました。

その中でも特別注視していたのがバシャールです。バシャールとは、どこぞの宇宙人たちが特定の人にチャネリングすることで、さまざまな貴重な情報を教えてくれたりするのです。

今はほとんど興味を持てなくなってしまったのですが、YouTubeのお気に入りの再生リストの中に残っている動画があったのです。

短い動画だったので、懐かしさでそれを見てみたら、何とリアルなものとはあなたの体験なんだと。それが現実なんだと明確に言っているのです。

「あなたの」というところだけちょっと気になるのですが、要するに体験が現実であり、現実とは体験なのだと。

体験する「舞台セット」上の小道具たちではないのだと。これって、私が非二元のお話をするようになって、よく使っていた表現だなと。

例えば、あなたが遊園地に行ってさまざまなアトラクションを楽しんでいるなら、その体験そのものだけがリアルであり、それが現実。

けれども、実際の遊園地やそこでの乗り物やアトラクションなどは非現実だということです。実体がないからですね。

人間というのは、同じ言葉を聞いたとしてもその時の自分の状態によって受け取り方が全く違ってしまうんだなということを改めて思い知りましたね。

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個人の意識なんて決してあり得ない

ずっと長い間、私たちの本質は純粋な意識だということをお伝えしてきましたし、それは間違いではないと今でも思っています。

ただ非二元の気づきがやってきてからは、意識という言葉を使うことにちょっとした違和感を感じるようになってしまいました。

というのも、意識という言葉が非常に手垢のついた言葉になってしまっているので、多くの人がその人なりの連想をしてしまうという事実があるからです。

だからなるべく誤解してほしくないという思いから、この言葉を使わないようになったのですが、やはり歴史上の文献を紐解くと、意識という言葉を沢山使っているわけで。

今の私の理解としては、意識というのは少なくとも個人の意識というのはあり得ないという感覚になっていますね。

個人というのはあくまでも自我のレベルでしかないのです。だから、私は純粋な意識だということがもう言えないのです。

代わりに、意識というのは体験であり、見かけであり、現れであり、気付きそのものだということ。

そして、それだけがリアルであってイメージである時間や空間とは関係しないということです。ここは言葉を使っての説明は、ちょっと厄介ですね。 

自分は身体ではないって本当?

多くの人々が、自分は身体だという根深い思いを持って生きていると思うのですね。そんな中でも、身体ではないという感覚がある人もいるわけです。

私などは、かなり前から自分が身体であるはずはないと強く思ってきた歴史があると感じているのですね。

このような私と同じような感覚で生きている人も沢山いるのでしょうね。ところがです。どういうわけか、身体そのものではないと感じているのに、身体を主体的に見ていることは間違い無いのです。

たとえば、昨日自分は何をした?と記憶を遡ってみた時に、そこには必ず自分の身体が中心にあるのです。

たとえば、昨日は映画を見に行ったなあと思い出すとします。映画館まで出向くのは当然のこと身体なわけです。

けれども、自分は身体ではないと思うのであれば自分がしたことの中で映画館へ行ったというのが入り込むはずがないのです。

誰かとカラオケで沢山歌を歌って楽しい思いをしたという記憶でも、やっぱりそこには身体が中心的な役割を果たしています。

もしも自分は身体ではないとするなら、昨日のカラオケ店で自分は何をしたのでしょうか?身体を使って、カラオケ店に行って、身体を使って歌を数曲歌ったという説明になるのかなと。

あなたが身体ではないのなら、カラオケ店に行くことはできないし、カラオケで歌を歌うということもできません。

それとも、身体を使ってカラオケ店に移動して、身体を使って歌を歌ったのだということで辻褄を合わせているのでしょうか。

自分は身体ではなく、精神活動だという言い方もできるかもしれません。でもその精神活動って、身体の一部である脳によって起きているとしたら、やっぱり我々は身体だということになってしまいます。

私は身体ではなく、純粋な気づきそのものだという表明をしっかりできるようにするためには、もう少しこの辺りのことを突き詰めておく必要がありそうですね。

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人を三種類に分類すると…

osho は、人を三種類に分類できるというのです。一つ目は、見られる対象になってしまう人たち。つまりは演技者のこと。

二つ目は、傍観者になる人たち。そして、三番目は、観察者になる人たち。演技者になる時、その人は一個の物となってしまうのだと。

彼らの努力はすべて、人々を印象付けることにあり、どうすれば良く見えるか、どうすれば美しく見えるか、どうすれば最も良く見えるか、つまりは最善を装う努力だけをする。

対象物になる人は、偽善者となる。彼らは自分の顔を仮面で覆う。外見は善良に見せかけていても内側は…。

二番目の傍観者になる人たちは、膨大な群衆になる。何時間もテレビの前に座る。生きるということが、外側を見ることに費やされてしまう。

この眺め続ける人々は世界中に溢れていて、一つ目の演技者たちはこの傍観者たちを利用することになるのだと。

この傍観者とは、その目が他者に向いているのに対して、三番目の観察者とは、その目が自分自身に向いている者のことなのだと。

この違いは革命的であり、まさに根本的なことなのだと。視界から全ての対象が去り、あなたが、あなただけがいる。

気づきだけが残り、油断のなさだけが残る。この時、あなたは観察者であると。結局はこの観察者でいる時にのみ、自己の本質に気づくことができるのだと

私なりに補足すると、この純粋な気づきだけが現れとなって初めて、全ての実体が消えていくのだろうなと。

久しぶりにoshoを味わう

久しぶりに、osho の本を読んでいるのですが、やはり彼は天才なのですね。覚醒していてしかも天才って、日本で言えば道元禅師ですかね。

彼の講話を文字で追っているうちに、これを生で聞きたかったなと思わざるを得なくなるのです。英語がダメなので所詮むりなんですけど。

昨日のブログでも触れましたが、アシュターヴァクラ・ギーターの最初の方の章で、解脱するのに修行や時間の経過は不要だと言っているのです。

そのことについて、osho がこんな例え話をしてくれています。ある皇帝の息子が父親の逆鱗に触れて勘当させられてしまうのです。

彼は、皇帝の息子だったため、自分では何もすることができず、結果として乞食になってしまうのです。

そしてその生活が20年も続いたある時、歳を重ねた皇帝が自分が死ぬ前に跡取りである息子を呼び寄せよ、と命令を出すのです。

一方の息子は、もう20年にも渡って乞食生活をしてきたので、能動的にも自動的にも自分が皇帝の息子であることをすっかり忘れていたのです。

ところが、皇帝の使いのものがやってきて彼を見つけた時、彼は一瞬にして自分の本当の立場を思い出したというのです。

その様は、見ている誰にでもすぐ伝わったのです。私たちもそれと同じように、自分の本当の姿は即時的に気づくことになると。

目的を持って探求するということが見当違いなんだと言っているのです。ただ思い出すだけだと。嬉しいことです。

ただし、非二元によって私の本質ではなく、すべての本質が無だと気づいた今の私は、以前の私とはちょっと反応が異なるのです。

そこもまた面白いですね。

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解脱は「今ここ」で可能!?

先日もちょっと触れたのですが、アシュターヴァクラ・ギーターという文献を読み出したのですが、やはり非二元的な内容なんですね。

詩のような体裁なので、内容的にたくさんの情報が詰め込まれているというわけではないのですが、人によっては沁みるかもしれません。

それでちょっとびっくりしたことがあったのですが、この種のインドの古典的な文献ではとても稀有なことが書いてあるのです。

それは、解脱するのに修行や時間の経過は不要だと言い切っているのです。ええぇぇ!?なんで今まで知らなかったのだろうと。

osho の本はかつて何十冊も読んできた経緯があるのですが、このアシュターヴァクラ・ギーターについて解説している彼の本は読んでなかったのですね。

そのことについてもちょっとびっくり。もちろん彼の本を全部読んだつもりもなかったのですが、この本は抜けていた。

この本も入手してじっくりと読んでみたいと思っています。とにかく、どんな修行も不要と言い切っているインドの文献があるとは。

瞑想を続けた先にやってくるのではなかったのですね。ただ見抜くということだけで、真実を見ることはできると考えていいのかもしれないですね。

基本に立ち返る

この仕事を始めてからずっと言い続けていることがあります。それは、子供にとって理想的な親とはどんな親だと思いますか?ということ。

答えは至ってシンプル。それは、心に余裕のある親です。これほど単純な答えだとは思っていないのが普通かもしれませんね。

けれども、本当にこれだけなんです。これは、逆を考えてみれば明白になります。つまり、心に余裕、ゆとりがない親はどういう親か?を想像して見るのです。

すると、心が忙しく動き過ぎていて、ゆっくりと子供の気持ちに寄り添ってあげることなど到底できるはずがないのです。

あるいは、子供にとっては自分が親の関心事の1番であって欲しいと願っているのですが、それが叶えられなくなってしまうのです。

逆に、お父さんやお母さんがいつも自分以外の何か他の問題に気持ちが向かってしまっていて、こっちを見てくれないと感じるのです。

こうなると、親がどれほど愛情を持って子供に接したとしても、それは伝わらずに終わってしまうことになるのです。

結論として、親が心に余裕を取り戻すことが一番大事なことであり、そのためには人生と戦わないということ。

人生に抵抗しない、正しさを優先しない、自己犠牲を避ける、自分本位に生きる、こうした基本に立ち返ること。

そうして少しずつ自分のペース、自分の自由を取り戻すことで心に余裕ができて、しっかりと子供と向き合うことができるようになるのですね。

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非二元関連の書物を紐解く

自分以外の人で非二元について話をしている人が一定数いるということは知っているのですが、その方達が自分と全く同じことを言っているのかどうかは不明です。

それについて、お一人おひとり検証をしてみようかなとも思ったのですが、それだったら歴史上の名のある人や書物をまず調べてみる方に興味が向いたのです。

少し具体的に検証してみてもいいのかなと。それで、ちょっと気になったインドのある書物を読み始めたのです。

それは、アシュターヴァクラ・ギーターというものですが、名前だけはどこかで聞いたことがあったのですが。

読むのは初めてです。日本の万葉集のように、誰が書いたのか分からないし、書かれた正確な時代も不明らしいのです。

そして、中身はというと詩のような形で綴られているものなので、誰が読んでも難しいと感じることはないはずです。

とはいえ、非二元的な内容にはなっていると思うのですが、使われている言葉とかが微妙に異なるなと。

この先、有名なアドヴァイタ・ヴェーダーンタなども少し調べてみてもいいかなと思っています。