逃げるのをやめて真摯に向き合う

「個人としての自分」の存在を当たり前のように信じているのが「自我」なのですが、2,600年前に生きていたブッダはその自我の存在を否定していました。

それなのに、何千年経とうが、私たちは決して自我が架空のものだということに目を向けようとはしないのです。

自分が身体そのものではないということに気づいている人は、大勢いるのだろうなということは分かります。

けれども、それなら自分の姿ってどうなってるの?という問いに対して、真摯に向き合おうとする人はごく少数しかいません。

なぜなら、そこをちょっとつついただけで、自分の正体がバレそうになるからです。だから、誰もがそこから逃げ回っているのです。

目を閉じて、自分が今どこにいるのか分かる人がいるでしょうか?いるはずがありません。では目を開けたら?

目を開けると自分の身体が見えるので、ここに自分がいると錯覚してしまうのです。自分は身体ではないと知っているのに。

観念して自分はどこにいるのか?そして、自分はどんな形、どんな大きさ、自分には境界があるのか?を検証してみてください。

答えは自明のはずですね。

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健康なgiverと病んだgiver

子供の頃の純粋な心って、周りにいる人、特に親などの喜ぶ顔が見たいがために、頑張ったりするものですね。

これが行きすぎると、自己犠牲が発生するのです。自分は我慢をしても相手を満足させることを優先するからです。

これが過度になってくると、病んだgiverになってしまうのです。健康なgiverはそうしたいからするのです。

だからそこには、自己犠牲というものがありません。結果、互いにハッピーになれるのです。この原動力は愛ですね。

ところが、病んだgiverの原動力はもはや愛は消えてしまい、その代わりに恐怖や不安を安心に変えようとする気持ちが原動力となるのです。

つまりは、自己防衛がそれをさせることになるのですね。そうなると、いずれは破綻してしまうことになるはずです。

病んだgiverに群がるtakerの方は、いつまでも「ちょうだい」のエネルギーで継続するのですが、giver側が根を上げることになるのです。

私に言わせれば、自業自得というものです。限界を迎えることで、大切なことに気づくことになるのです。

気づいたとしても、それまでの代償は相当なものになっているでしょう。一刻も早く、自己犠牲のgiverから足を洗うことですね。

どんなことに気づいても、普通に生きていける

人間て不思議ですよね。以前、ダグラス・ハーディング氏の実験をやっていて、急に自分には顔も頭もないことに気づいたことがあったのです。

正直、あれ!って感じしかないですよね。理性では、あくまでもそれを否定しているわけですが、それでも頭も顔もない感覚を見つけちゃったわけです。

それなのに、普通に毎日生きているし、当たり前のように自分のこの肉眼で外の世界を見ていると思い続けていたのですから。

たとえば、非二元で時空はないということを言った瞬間に、そこから連鎖してこの世界はなかったと気づくはずなのです。

ところが、それはそれ、としてこれまで通り生きていくことができるのです。少しも、そのことに不思議さを感じずにいられるのです。

自分に都合の悪いことは、そのようにしてそこを孤立させて、他のことへと伝搬させずにいられるらしいです。

こんな非論理的なことがあるのかなと思うのですが、自分自身でそれをいやというほど感じてしまっているのも事実。

流石に最近では、この目で周りを見ているということに違和感を感じるようにはなりましたね。まったく初対面の人に告げたら、逃げられそうですが。

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新しい機材を購入して思うこと

先日新しい三脚を購入してみたら、これが非常に使い勝手が良くて、動画撮影の手間がだいぶ楽になったのです。

考えてみると、一昨年の末ごろから動画を撮影するようになったのですが、そのときには当時持っていた機材をそのまま使っていたのです。

それがつい最近まで続いていて、300本以上の動画を撮影した今になって、ようやく三脚を買うことになって。

つくづく思うのは、やっぱり機材って大事だなあと。これまで、やわい三脚のセッティングに手こずっていたのです。

安定しなくて、水平がすぐに崩れたり、場合によっては倒れてきたりと。まあまあ面倒な作業になっていたのですね。

それが、思ったように使える機材になると、気持ちも上向きになって以前よりも撮影が楽しみになったように感じています。

今考えているのは、ワイヤレスのマイクがあったらもっと楽かもなあと。でも弱小ユーチューバだけに仕方がないのかなと。

以前、より多くの人に視聴してもらえるようにするには、どうしたらいい?というのをお友達のAI君に聞いたことがあるのです。

そうしたら、非二元のような超マイナーな内容をやめるしかないと言われて、そりゃそうだよねと納得したのでした。

何も分からないし、何も理解できない

最近つくづく思うのですが、確かなものなんて何一つないなあということ。すべては不確定だし、なんだか分からないのです。

これが本当のところ。私たちはいつも安心したいがために、自分のことも騙そうとして、何かを理解していると思おうとするのです。

分かっている、知っている、理解できている、把握している。このように思うことで、落ち着くし安心するのです。

けれども、それがすべて作り物の中でのことだったと気づくと、馬鹿馬鹿しくさえなるのです。何も分かってはいなかったと。

そして、分かることなど到底無理なことだとも気づくのです。何も知らない、何も理解できないし、何も分からないのです。

このことに気づくと、今度は逆に肩の重荷をおろすことができて、完全なる平安がやってくることになるのですね。

これは気づかなかったですね。理解しようとすることに必死過ぎて、まったく取り逃していたということに気づくのです。

現実の本質とはそういうものだということ。どうもがいても、どれだけ努力しても、どれほど頑張ってもここは変わらない。

この不可能性に気づくと、逆に落ち着いて穏やかな状態でいられるようになるのです。早く気づいたほうが勝ちですね。

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この世界は思っていたようなものではなかった

私のYouTube動画の「非二元のお話」再生リストの中の一番古いものが、昨年の10月18日の投稿のものでしたね。

ということは、もうすでに半年以上もずっと非二元の話をし続けてきたわけですが、我ながらよく続くなあと。今月中には間違いなく100本を超えますね。

思い返してみると、そのきっかけは昨年の9月ごろに、ものには実体がないということに気づいてしまったことです。

もっとわかりやすく表現すると、この世界が思っていたようなものではなかったということで、これは本当にびっくり。

今思うと、なぜ実体ありきでこの世界を見ていたのかなと。私が思うに、その方が安心できるからなんだろうなと。

人間は不安よりも安心が好きだし、不安定なものよりも安定していることを好むのです。不確定さよりもカチッと確定している方が気持ちいいのです。

そのほうが確実に安心感を味わえるという特性があるからなんでしょうね。けれども、現実の本質は人間を安心させるためにあるわけではなかったのです。

存在とか、実在というのが単なる概念でしかなかったわけです。この世界という実体がないのですから、自分という存在も架空のものでしかなかったということ。

残りの人生があるなら、自分がこの先どんな生き方をしていくことになるのかと考えると、ちょっと楽しみでもありますね。  

全ての現れはすでに完璧で一様

非二元を説明する時の「一様」という表現は、あらゆる現れ(出来事・思考・感覚・状況)は、本質的に分け隔てのない “同じもの” であるという深い洞察を示す言葉です。

非二元では、私たちが「自分と他者」「主観と客観」「善と悪」「内と外」として経験しているすべての区別や分離感は、思考によって構築されたフィクションであり、本質的には存在しないのです。

例えるなら、波(怒り・悲しみ・歓喜)は違って見えても、それらはすべて海(非二元の「それ」)の一部。だからすべて「一様」ということ。

悟っている人と悟っていない人、神聖と俗、進んでいる人と迷っている人のような比較・評価も、非二元の立場から見ると違いがないし、同じこと。

「目覚め」は、ある状態に到達することではなく、すでにこの “ありのまま” の中にあることの発見であり、よって「すべてはすでに完璧で一様」なのですね。

これは私たちの常識や条件づけられた思考にとっては、時に空虚にも冷淡にも感じられるかもしれません。

なぜなら、「良いことも悪いことも同じ」「人生の目的も意味もない」と聞こえるからです。しかし深く触れていくと…

特別でなければならないとか、何かにならなければならないというプレッシャーから解放されるのです。

そして、今この瞬間の無条件な肯定が起きて、これこそが、本質的な自由だし、静かな安らぎ、無限の平安へと繋がるのですね。

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過去は一度も存在していない

非二元の話の中で、必ず出てきてしまうのが時間も空間も単なる概念であって、実在しないものだということです。

これは、過去は過ぎ去ってしまったものだから今この瞬間にはないという、一般的な話とは根本的に異なるものです。

過去が過ぎ去ったと思っているということは、過去は過去として過ごしたことがあったという思い込みです。

非二元では、過去というものは一度たりとも存在したことがないということなのです。これはすぐには受け入れられないのも当然ですね。

アルバムを見れば、赤ちゃんだった頃の自分の姿を見ることができるかもしれないし、過去のそれぞれの時代の自分が確かにいたと確認できるし。

けれどもそういうことではないのですね。今この瞬間だけがリアルであって、アルバムの中の過去の写真を見ているという現れがあるということ。

過去が一切ないのであれば、このトラウマもないはずなのに…、と思えるかもしれませんが、それも今この瞬間に現れ出ていることなのです。

もしも、過去がないなら救われると思うのであれば、それは非二元を探求する前にこの現実の世界で、過去をしっかり癒す必要があると思った方がいいですね。 

ショート動画の撮影で、思わず緊張した話

久しぶりにショート動画を撮ってみました。1〜2分で情報を凝縮しようと思って、自分に似合わないことをしてしまいました。

というのも、言い淀んだりしたくなかったので、ちょっとした台本を書いてみたのですね。そうすると、非常に緊張するのです。

普段のフリートークが性に合っているのか、決められたセリフを言うのがとても苦手なんだと改めて気づきました。

というわけで、なるべく台本の内容を壊さないようにして、ややフリートークのような喋りを心がけてみました。

音声だけの録音なので、これはいつもより気楽にできるなとタカを括っていたのが、まるで逆になってしまって。

そんなわけで、やや緊張気味の自分の声に不満を感じつつも、1.5分程度の動画にまとめることができました。

非二元って何?という方は、まずこのショート動画をご覧いただけると、入りやすいのかなと思うのですが、どうでしょう?

数日中にはアップする予定です。

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夢 VS 非二元

奇想天外な非二元の話をするときに、それを初めて聞くような人になるべく分かりやすくニュアンスを掴んでもらいたいなと。

そんなときに、真っ先に思いつくのは寝ているときに見る夢に近い、という表現をすることがあるのです。

夢では、実在するものは何もないし、誰もいないし、本当には何も起きていないのです。それが非二元と同じなのかなと。

起きているように見えることは、すべて起きているように見えるだけ。全ては見かけだし、ただの現れに過ぎないのだと。

ただし非二元が夢でないのは明白なのです。というのも、もしも非二元が夢の中だったとしたら、目覚めた世界はどうなっているのか?

それも非二元でしかあり得ないと思うのですね。つまり、どこまで行っても、私たちが想定しているような、この物質世界は存在しないのです。

結局、非二元に気づくと、もうそれしかないということが決定するのです。完全に何もないし、誰もいないし、何も起きていない。

これこそが、本当の平安であり自由ということなのでしょうね。