すべての感覚は時空に依存しない

非二元の話をしていると、必ず時間も空間も存在しないということが出てきてしまいます。これは、想像を絶することですね。

それは無理もありません。私たちは、この空間というものをベースとしてこの世界があるというように思っているからです。

だから、時空がないと言われたらどんな想像もできなくなってしまうのです。世界そのものが成立しないからですね。

それなのに、じゃあ非二元では一体何を言っているのか?ということですが、それは時空に関わらないモノだけが残るのだと。

つまり時空が全くなくても、感じ、感覚だけはあるんだなということがわかります。言ってみれば、夢のようなものです。

夢も、実体は何もないのに感覚だけはリアルに感じることができるわけです。ただし、非二元では夢を見ている主体もいないんですけどね。

時空から独立しているということは、「感じ」とか「感覚」というのは、位置もないし、大きさもないし、境界もないということ。

例えば、「私がいる」という感覚に対しても同じことが言えて、この私には位置もないし大きさも境界もないのです。

だから、個人としての私が妄想だということが分かりますね。

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爆音の中での静寂

先日久しぶりに、MRIを受けました。4.5年前に生まれて初めて受けて以来、今回が2度目になるのですが。

自分の記憶がかなり曖昧なようで、もうかなり忘れてしまっていたのです。前回は、間違いなく造影剤を血管注入したはずが。

今回はそれもなくて大丈夫なようだったのが不思議です。検査係の人が予め40分くらいかかりますと教えてくれたので、それが助けになりました。

ヘッドフォンから聞こえる爆音に耐えながら、とは言え暑くも寒くもなくただそこに横たわっていればいいだけなので。

最初のうちはやや緊張気味だったのですが、そのうちには穏やかな気持ちの方が大きくなってきて助かりました。

右から聞こえる爆音のことも気にしないでいられるようになって、左から聞こえるうっすらとした音楽もどうでも良くなり。

そろそろ30分くらい経ったかなと思っているうちに、突然のように終わりましたという声が聞こえてきたのです。

予約もせずに初診当日にさっさと済ますことができて幸運でした。それにしても、もう少しだけあの爆音を小さくすることはできないものかと。

正式な所見はまだですが、医師の目視によれば特には問題がないとのこと。ならば早く病院から脱出して日常を取り戻したいと思うのでした。

医師にも色々な人がいる

先日、午前中早くからクルマで行ける距離にある病院に行ってきたのですが、病気というわけでもなく。

近くのクリニックのお医者さんから紹介状をもらって、手術をするとしたらそこがお勧めですよと。

院長が直々に執刀してくれるんだなと思って、期待して行ってきたのですが、それがなんとなく期待はずれ。

思っていたよりも、長く入院しなければならないということと、その医師の態度がどうにも気に入らない。

簡単に言えば、ちょっとした質問をしようとしても、気持ちよく答えてはくれないのです。これって、医師失格じゃない?

というよりも、人間としてどうなの?と思ってしまったのですね。あくまでも丁寧にこちらとしては最大限の敬意を持って接したのですが。

そういうわけで、聞きたいことをその場でしっかりと聞けるような雰囲気ではなかったのですね。

どれほど、腕がいいとしてもその前の段階で私なりのふるいにかかってしまうなあと。そんな残念な日でした。

お医者さんの中には、そうした社会性が欠如しているような人も一定数いるようで、一般の会社などでは、社会不適合者と認定されそうですね。

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6月1日(日)より料金体系を戻します

今日はご報告です。先日も一度お伝えさせていただきましたが、昨年の6月より導入しておりました、カンパ(寄付)制をちょうど一年を持って終了とさせていただきます。

今後は、普通の料金体系に戻ることになります。私のセッションにつきましては、基本的には120分9,000円に戻ります。

また、セッションの時間帯も以前と同じになります。13時、16時、19時のそれぞれが開始時間となります。

寄付制にしたことによる、功罪があることに気づきましたね。それだけでも、試してみたことは無駄ではなかったと思っています。

ただし、功罪のうちの功よりも罪の方が大きかったということがあり、結果としては一年で終わりを迎えるということになったのです。

功としては、それまでほとんどお会いすることのなかったような方々と、セッションをすることができたこと。

罪としては、依存を引き起こす要因となってしまったこと。その結果、セッションの有効性が低くなってしまうということ。

こうしたことは、ある程度は予想がついていたものの、思っていた以上の不必要なセッションを引き起こすことにも繋がったのかなと。

6月からは新たな気持ちでセッションに取り組んでまいりますので、これまで同様どうかよろしくお願いいたします。

起きることへの正直な反応と冷静さの二重性

これまで本当にたくさんのクライアントさんの人生を知って、疑似体験のようなものをさせてもらってきたと思うのです。

セッションをする時には、いつも自分がクライアントさんの子供の頃の日常を一緒に体験しているような気分になるのです。

そこでは、自分自身の過去にはとても経験してこなかったようなあらゆる経験が盛り込まれていて、本当に驚くことばかり。

そして過去に起きたことだとは分かっているものの、そこに入り込んでご本人と同じような気持ち、気分を味わうのです。

とは言っても、もちろん擬似的なものに過ぎないので限度はあるのですが、それでも一時的にはそこに入り込むことができます。

そして、どうやって生き抜いてきてくれたのかなと思って感嘆したり、あまりの辛さに身悶えてみたり。

そういう体験を繰り返してきたせいなのか、体験をしながらもそれを冷静に見つめる二重性を身につけたのかもしれないなと。

だからいつも感情に支配されることなく、癒しの観点から物事を見ることができるのです。それは本当にクライアントさんの人生のおかげなのですね。

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フッサールの現象学が気になっていたようで

学生の頃、フッサールという人の現象学入門という哲学書を読んでいたのですが、それが今の非二元と重なるところがあるかなあと。

そんなことをつらつら思い返していたら、おやっ、社会人になってからもその本を読んでいた記憶があるなと。

あれ、一体どちらの記憶が正しいんだろうか?自分の記憶の曖昧さにはびっくりするしかありません。

そう思って、しばらく記憶を辿っていたら、どちらの記憶も正しかったのではないかと気づくことができたのです。

その本は難解な内容で、読んでも気持ちよく理解することができなかったのですが、それでも気になっていたのですね。

それで、学生の時も、そして社会人になってからも、断続的に読んでいたということに思い当たったのです。

とはいうものの、内容的にはほとんど頭に入っておらず、もうこの歳で難しい書物と格闘するのはごめんだし。

というわけで、いつものAI君に聞いたところ、確かに非二元と通ずるところがあるなということがわかったのです。

AI君に言わせると、現象学は、「ものごとを、先入観なしに、その“現れ方“そのものとして見る哲学」ということらしいです。

ただし決定的な違いもあって、現象学は「意識」を出発点としているところであり、非二元は意識すら起こっている出来事に過ぎないというところですね。

こうしてみていくと、非二元ってこれ以上にシンプルなものはない感じがしてきます。

寄付の用紙に思うこと

何十年も前に卒業した高校から、一年に一回くらいだかわからないけど、「会報」のような感じで冊子が届くのです。

それだけならいいのですが、必ず寄付を募るための振込用の用紙も一緒に届くのです。それが何となく気持ちが良くない。

長年に渡ってずっと寄付をし続けているような人もいるのかもしれませんが、私の場合はなんだか母校という感じが薄いのです。

だから寄付を募られても、何?って感じがしてしまうのです。会報も誰が死んだとか、そんな情報は必要としていないし。

これまで同窓会なるものに、二度ほど出席したことがありましたが、もう出ることはないだろうなと思うのです。

同窓会で突然、みんなで校歌を歌うということになっても、まったく記憶になくてどうにもこうにも歌えない。

それをしっかりと歌える人たちがいるということに、改めて驚きを隠せなかったのです。そして多くの人は当時の教師と中良さそうに話をしている。

私は、どの教師ともほとんど面識がないような気がして、話をする気もしないのですね。これじゃあ確かに出席してもつまらないはず。

そんなわけで、卒業した学校ではあるのですが、なんの思い入れも残っていないというのが実情なんですね。

非二元的に言えば、過去は一度たりともあった試しがない、ということになるのでしょね。

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散歩中のアクシデント

一年を通して、今が一番いい気候かもしれませんね。暑過ぎず寒くもなく半袖か長袖のどちらでも大丈夫な日々。

滅多に外に出ないのですが、久しぶりに用事を済ませがてら散歩をすることにしたのです。ちょうど雲が張り出してきていて、日差しを気にする必要もなくいい気分。

ところが、しばらく歩いていると上から何やらポタッと落ちてきて、何かと思ったら小鳥のフンのようなものが、頭に当たってその余波が上着の前と後ろに。

ついでに、メガネのフレームを汚して、右目のすぐ下の部分にも飛沫が付着してしまい、どうしたものかと。

いつも手ぶらでいるため、ハンカチもタオルも何も持っていなかったので、使い捨てのマスクを一つ犠牲にすることに。

ちゃんと拭き取ることもできないままに、用事を済ませてから一目散に事務所に戻って来ることになってしまいました。

シャワーがないので、蛇口の水で頭を洗ってふだん使ったことのない簡易的なドライヤーで乾かして、事なきを得たのでした。

それにしても運が悪い。たまにしか散歩などしない身なのに。そして頭に的中する確率なんて、非常に低いはずなんですけどね。

とぼやいたところで、非二元で言えば起きているように見えて、起きているように見えるだけということになりますね。

「きっと◯◯に違いない」は知らないことと気づくこと

日常の生活の中で、私たちは今ここにいない人たちのことをあれこれ考えて、気にしてしまうということがありますね。

あの時、ああ言われたのはきっとこういう意図があったに違いないとか、友人二人が立ち話をしていたけど、きっと私の悪口を言っていたに違いない等々。

そんなことを考え出したら、きりがなくずっとぐるぐる考えて悶々としてしまうことになるかもしれません。

こうしたことは大小の差はあれど、誰にでも経験があるはずです。この嫌な状況から脱出するにはどうしたらいいでしょうか?

それは、明確に分かっていることと、こうに違いないと思っていることを全く異なることとして分類することです。

「きっと◯◯に違いない」と思っていることを洗い出して、それは事実ではないということにしっかりと気づくこと。

本当に分かっていることを、きっと◯◯に違いないと表現することはできないと気づけばいいのです。

「きっと◯◯に違いない」ことは、分からないこと、知らないことだと理解すること。そのことに気づかずにいるうちに、知っていることにすり替えてしまうのです。

似たような状況で困る事態がやってきたら、このことを思い出してみることです。そして、知らないことを知っていることとして扱ってしまっていることに気づくことです。

これができれば、早晩そこから離れていくことができるはずですね。

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どこにも物語はない

人生は物語のようなものだということは、ずっと言い続けてきたことです。それは本物のようでいて、実際にはそうではないのだと。

けれども、自我にとってはその物語の中でしか生きることができないのです。つまり、自我も物語の一部だと思えばいいのかもしれません。

非二元的に表現するなら、どんなことが起こったとしても、起こったことについての物語は、起こったことそのものではないということ。

どんな物語よりも前に、どんな概念よりも前に今ただ起こることが起こっているだけ。それが、非二元と二元の世界との違いです。

そしてもっと言えば、起こっているように見えることは、すべて起こっているように見えるだけなんですね。

実際には何も起こっていないということです。ということは、何も起こっていないことをネタにして、そこに概念をフル動員する。

そこに時系列の感覚を持ってきて、それで因果律を導入することで立派な物語が創造されるということです。

このように見れば、普段私たちがどれほど作り物の世界で生きているのかがわかるというものですね。