どこにでも派閥は存在する

「派閥」っていう言葉がありますね。主に、政治家などに使われることが多いのかなと思うのですが。

実は、政治家に限らず職場であれなんらかの組織であれ、子供であれば同じクラスの中にでもそうした派閥が発生するのです。

もちろん派閥とは言わないし、可愛い言い方をすれば仲良しグループなんていう呼び方をすることもあるかもしれません。

けれども、いずれにしても派閥のようなものです。宗教で言えば、◯◯宗だったりと、それこそ無数の宗派に分類されるのです。

こうした人類の特徴というのは、きっと防衛からくるものなんだろうなと。自分の考えと近い人たちと群れることで、個人でいるよりも安全な感じがするのだろうなと。

そして、自分を守るためには所属するグループを守る必要があって、他のグループ、他宗派、他派閥を攻撃することになったりするのです。

そんな中で、どこにも属さずに一匹狼的な生き方をする人もいますね。セッションにいらしてくださるクライアントさんには、そんな人が比較的多いのかもしれません。

私自身もどちらかというと、どこかに属するのが苦手なタイプで、独りで内側に入っていく方が好みのようです。

派閥が悪いとは思いませんが、ほどほどにしておいた方がいいのかなと。そのほうが防衛も小さくて済むような感じがしますね。

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リクライニング・チェアが新しくなります

今日、久しぶりに大きな買い物をしたのですね。それは何かというと、かなり以前から買い換えようと思っていたリクライニングチェアです。

セッションの時にクライアントさんが腰掛けるあのチェアです。それが、もうかなりへたってきていたのです。

本当に長いこと活躍してくれたチェアなのです。その前に使っていたものが突然のように使えなくなってしまって…。

それで困って、お店に行って今日持ち帰らなければならないから、「これを下さい」と言ってこの手でもち帰ったものだったのです。

要するに、展示品ですよね。それ以外、その時に持ち帰ることのできるものなんてなかったのです。

それにしては、これまでよく頑張ってきてくれたなあと。特別な手入れもなしに、思った以上に丈夫な奴でした。

1ヶ月後くらいに新入りがやってきた時には、入れ替わりでその役割から退いてもらうことになるのです。

その時には、一緒に事務所をシェアしてくれている「さちへ」さんが、きっと「今までありがとう!」の言葉と共に送り出してあげるのでしょうね。

慈悲の気持ちの有無

歴史上の有名な覚者たちが、ほとんど非二元的なことを言ってきていないという事実をどう受け止めればいいのか。

ここは、私自身もずっと疑問に思っていたことです。もしかしたら、執拗に調査をすればそうした文献を発見することができるかもしれません。

ただそんなことをしなくても、覚者は当然のように非二元に気づいていたに違いないと思うのですね。

それならなぜ、そういう文献が残っていないのか?禅僧にしても、oshoにしても私が知っている限りにおいては、みんな自分の本質に気づきなさいと言っているのです。

そのためには、瞑想をし、意識を内側へと向けて心静かに坐っていなさいと。やはり自我ではないことを身をもって気づく必要があるのだと。

この二元性の世界で生きているつもりになっている作り話の中では、それが一番賢いやり方なんだろうなと。

多くの覚者たちがそれを唱えてやまないのは、もしかしたら慈悲の気持ちによるものなのではないかなと。

非二元を話す人たちが、慈悲がないとは言わないまでも、誰もいないということを声高に言ってしまえば、そこには愛の要素を感じることができない感じがしますね。 

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自我は妄想の中の妄想だった

ずっと長い間、自我というのは思考が作り出した実体のないしつこい妄想だと思ってきた経緯があります。

自我以外のこの世界は全て実在であり、苦しみの元と考えられる自我だけが架空のものであり、それをなんとかして退治したいと。

そのためになるべく瞑想をすることを心掛けてきたわけです。ところが、非二元の気づきがやってきてから、そのあたりのことが急変してしまったのです。

つまり、めちゃくちゃしつこい自我だけを目の敵にしていたのが、この物質世界自体が妄想だったと気づいてしまったわけで。

そうなると、自我というのは妄想の中の妄想に過ぎなかったことになったのです。もうそれだけを相手にする必要もなくなったのです。

例えてみれば、映画の中で映画を観ているシーンがあるという感じで、要は映画は映画であってただのワンシーンにすぎないと。

そうなった時に、ようやく楽になってきたなと感じたのです。この世界を丸ごと落とすことになったからです。

これは気付けなかったですね。そして、気づけなくて当然とも思いますね。

「五感は人間に備わった脳力」という思い込み

生まれてこの方ずっと五感を通してこの世界を体験し続けているというのが我々の一般常識ですよね。

つまり、この五感という感覚は自分が自分の身体を使って起こす能力だと信じているのですが、果たしてそれは本当でしょうか?

たとえば、もっとも頼りにしている視覚。それは視る感覚のことです。あらゆる先入観や常識を一旦脇に置いて、自由な感覚で見てみてください。

コツはただボーッと見るのです。何を見るでもなく、何かを見ようとするのをやめて、ただ見るのです。

その時、果たして自分が見ているのか、あるいはただ視覚が起きているのか。もしも、ただ見えるということが起きているだけなら、それを視覚と呼ぶのもちょっと違和感が出てくるかもしれません。

そうなると、もう呼び名がなくなってしまうのです。それが概念から外れた証拠なんです。それがリアルなものです。

自分という存在とは無関係に、ただ「視覚と呼びたくない」何かが起きているだけ。これに気づくと、肉体の目で見ていないということが一気にわかるかも知れませんね。

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視覚には方向性がない

私たちが持っている視覚に対するごく普通の感覚というのは、「ここから前方を見ている」というものですね。

「ここ」というのは見る主体である自分がいる場所であり、「前方」というのは見る対象物がある場所のことです。

このようにして、視覚には常に方向性があると感じているわけです。これが我々が暮らしている二元性の世界での感覚です。

さて今日はみなさんに大きなチャレンジをしていただくことになります。と言っても、努力をしてほしいわけではありません。

その逆で、あらゆる努力や頑張りをなくして、ごく自然体になってリラックスした状態でやってほしいことがあります。

それは、前方を見ている状態のまま、今度はその視線の方向を180度真逆にするのです。つまり、後方を見るということ。

気持ち的には、自分の顔や頭が邪魔になって後ろが見えないと思うかもしれませんが、そんな気持ちは無視してください。

そして、何も考えずにただただ視線の方向を真逆にするのです。それで何が見えるかを試してみるのです。

すると、前方に見えていたはずの景色が、そのまま後方にも見えていることに気づくかもしれません。

そうなった時に、視覚には方向というものが一切なく、それと同時に見ている主体としての自分の視点も亡くなったように感じるかもしれません。

一度でもこの体験をすると、非二元が身近に感じられるようになるはずですね。

隠されているものなんて何もない

旅行が好きな人ってたくさんいますよね。というよりも、ほとんどの人が旅行に行って、さまざまな景色を見たいと思っているのです。

ずっと家の中に居続けたり、家と職場の往復ばかりではつまらない。せっかく生まれたんだから、色々な場所へ行って色々な体験をしてみたい。

そう思っているわけです。たった一度の人生なんだから、経済的に許されるのであればそれこそ世界中の国々を巡ってみたい等々。

つまり、自分が見たことのないような風景だったり街並みなどが無数に世界中に存在していると信じているのです。

それを体験せずに死んで行くのは、とても残念なことに違いないと。それがごく普通の人々の感覚ですね。

けれども、実はあなたが見ることのできる景色は今あなたが見ているものだけなんです。あなたに隠された景色など何一つないということ。

コレ以外があるというのが、全て妄想だということに気づくこと、それを見抜くことができたらあなたはもう非二元のなんたるかに気づいたということですね。

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非二元のセッションが増えてきた

動画でもお伝えしているのですが、非二元のセッションをやるようになったのですが、少しずつご希望の方が増えてきたのです。

とても嬉しいことなのですが、ここで少し気付いたことがあるので、今日はそのことについてお話ししたいと思います。

さあ今回はどんな非二元の質問に答えることになるのかなと思っていると、非二元だけでセッションが終わらないことが多いのです。

非二元の話をしていながら、知らず知らずのうちに二元の世界でやっている癒しに関連した話になっていったりするのです。

これってすごく興味深いことですね。もしかしたら、私自身がセラピストを生業としていることに起因することなのか。

あるいは、非二元を理解しようとするその背後に、自分の価値を見出そうとする思いが潜んでいるのか。

純粋な興味や好奇心だけで、非二元に興味を向ける人はもしかしたら私を含めて少ないのかもしれないですね。

私にとっては、そのことは願ったり叶ったりのことで、非二元への興味とセラピストとしての興味の両方を満たしてくれるのです。

本当にありがたいなと思わざるを得ませんね。 

自由意志があるかないかの完全決着

この仕事を始めて間もない頃に、世界的に著名な脳科学者の論文を読んだことがあったのですが、それが衝撃だったのです。

それは、人間には自由意志がないということを認めざるを得ない実験結果が出てしまったということだったのですね。

それで、自分なりにそれを検証してみたところ、確かに自由意志はないなという自分なりの結論に至ったのでした。

簡単に言えば、決意する方法を明確には言えないなと。決意はどこからかやってくるものだという感覚があったのです。

それでずっと過ごしてきたのですが、数年前にAIを開発しているとある人物の動画で、自由意志はやっぱりあるという説明を聞いたのです。

彼が提唱している意識の仮想世界仮説によると、脳の中に仮想世界を作る時間だけ全てがズレて見えるのだと。

これは非常に説得力のある話だったわけです。なるほどそれなら、上記した論文の内容を否定せずに自由意志があることになるなと。

ところが、ここへきて非二元の話をしている中で、こうした議論の無意味さに気づいたのです。

我々には、自分の自由意志で今決意したという感覚があるのですが、でもそれだけがリアルだということです。

そうした見かけの決意だけがあって、決意などないし決意できる誰もいないということなのですね。これで、完全決着ですね。

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すべての知識は妄想

私たちのこの社会で生きている限り、知識とか情報量の多い人の方が有利だし、明確な武器になっているなと思うのです。

考えてみると、小学生の頃から来る日も来る日もず〜っと学校で知識を詰め込まれるのですが、それは凄まじいことですね。

そしてそれが、大人になっても続くことになります。書籍や新聞を読んだり、テレビやネットの情報をみたり。

大人は子供よりも直接の経験から得られる知識量というのは圧倒的に多いのが普通です。こうして、知識は生きている限り増え続けるわけです。

ところが、非二元に寄り添っているうちに、知識というのはその全てがリアルではないということに気づいたのです。

知っていることというのは、今ここにはないものばかりなのです。つまり、知識とはリアルではないということ。

ここに気づくことなしに、非二元に気づくことはないし、気づくことがあれば知識を脇に置くというのが必要だと分かるのですね。