意味は妄想の中にしかない

非二元の話をしているときに、自分で気づくと「ただ◯◯なだけ」というような言い方をしていることが多いのです。

それはなぜかなと思うと、その言葉に「意味はない」ということを伝えようとしているのだろうなと。

人間以外の全ての動物は意味というのを理解することはできません。それは、言葉を話すことができないことと関係があるのです。

多くの場合、言葉によって意味をもたせようとするからなのです。ちなみに、今急激な進化を遂げつつあるAIも意味を理解してはいません。

今のようなAIのままでは、どれほど進化したところで意味を理解することはできないはずです。

私たちが暮らしていると思い込んでいるこの世界では、常になんらかの意味があって、それを互いに共有しているのです。

そしてそれがとても大切なことなのですね。非二元では、その意味というものが全くないのです。

なぜなら、意味というのはリアルではないからなのです。意味があるのは、常にアンリアルなものの中にのみあるということですね。

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怠惰な毎日は続く

最好調に用事のない日々が続いています。少し前までは、母親が亡くなったことに関連した様々な処理があったのです。

それも、着実に終えて行き、とうとう納骨を待つのみとなったのです。それ以外で、自分がするべきことが全部終わったのです。

父親の時と比べて、今回は思いの外処理することが少なくて、本当に助かりました。さて、これからどうしようか?

自我というのは、やるべきことがなくなってしまうと、本当に困ってしまうのですね。それまでは、早く終えてスッキリしたいと思っていたのですが。

実際に終わってしまうと、何度か言葉にならない言葉で、いやあもう終わったよ〜。良かったなあ〜と言っている自分がいるのです。

ところが、さあどうしようかと。毎日やるべきことがひとつもない毎日がまた始まってしまうなあと。

YouTube動画のネタを考えることが嫌いではないので、それでなんとか毎日が回っているという感じです。

でもそれも数十分で終わって、あとは好きなYouTube動画を見たり、無料の映画を観たりして過ごしている日々が続いています。

私の怠惰な毎日は、これからも続いて行くということですね。

非二元と心理療法の対比

セラピストとして日々行っている心理療法と非二元を対比して、両者の違いなどをはっきりさせておきたいと思います。

共通点:

• 苦しみや不安の原因を見つめるという意味では重なる部分がある。

• 「今ここ」に意識を向ける重要性を共有していることもある。

違い:

項目心理療法非二元(ノンデュアリティ)
前提「自我」が存在し、それを癒すことが目的自我そのものが幻想、癒す必要すらない
ゴールトラウマの統合、自己理解、回復分離の幻想が見抜かれること
方法対話・分析・感情表現など「すでにあること」への直接な指摘
時間軸過去の原因や未来への希望を扱う過去も未来も思考。今だけがある
セラピスト導き手・共感者「導く誰かも、導かれる誰かもいない」ことが指摘される

心理療法は「個人という前提」のもとに進められますが、非二元ではその「個人性」を真っ向から否定します。したがって、心の癒しや成長を目指すアプローチではなく、「癒すべき誰もいない」と気づくことがポイントです。

■ まとめ

心理療法: 個人の心を扱い、統合や癒しを目指す。

非二元: 個人という感覚そのものが幻想であり、癒しや目覚めも“すでにそれ”としてここにある。

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概念の海の中で生きている

目の前にあるモノをリンゴだと認識するまでに、私たちの脳ではどんなことが行われているかという話をしたいと思います。

実は左脳の中には、概念データベースというものがあるのです。生まれた時から今に至るまでずっとそのデータベースをアップデートし続けているのです。

特に幼い頃に、親などからこれは◯◯、あれは◯◯、のように学んでいきながら、リンゴという名前のオブジェクトとしてデータが蓄積されるのです。

これが概念データベースです。そして、目の前にある何かを見た時に、概念データベースの中を検索しに行くのです。もちろん無意識ですが。

そして、もっともマッチングしたものをソレと認識するわけです。そして、あろうことかマッチング第一位になった脳内の情報を、現実のものとしてしまうのです。

その結果、実際にリンゴという実体があると断定するのです。このように見ていくと、社会生活を営む上では概念は非常に大事であることがわかります。

だから、概念を無くそうなどということを考える必要はありません。単に、概念を使っているということに気づくことです。

そして、概念を脇に置いておくことができればいいのです。そうするとたった今あるこれだけが全てだということにも気づけるようになるのですね。

本人にとって死はない

人は誰もがいずれは死に至ることを知っているのですが、死に方というのかそういうものを何となく気にする感覚があるのかなと。

母親は96歳で亡くなって、死因は老衰と診断書に書かれていたので、ああ良かったねと誰もが言ってくれるのです。

死因が老衰と診断されるのは実年齢が何歳のあたりまでなのか?ふと考えてみたのですが、なかなかはっきりとコレとは言えないですね。

そして、高齢で亡くなればそれは悪いこととしては受け止められずに、かえって大往生のような捉えられ方をするのです。

逆に、若くして亡くなると、何であれ亡くなったことを残念なこととして受け止められるわけですね。

こういうのって不思議な感じがしてしまうのですが、気持ちはわからないでもありません。結局、残された人々がどう感じるかにかかっているのかなと。

死というのは、本人にとっては経験できるものではないし、存在さえしないのです。このことにしっかり気づいていれば、死を恐る必要がないと分かりますね。

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非二元を役立たせたい

ここのところ、ブログやYouTubeで非二元のお話をするようになってしまっています。その理由は、自分自身がそれを楽しいと感じるからですね。

自分の口から出てくる言葉を、ダイレクトに自分の耳で聴きながら、ああそうなんだあといった感じで面白がっているのです。

しかも、そうしたことを繰り返していくうちに、少しずつですが非二元が口先だけでなく奥深くに浸透してきている感じもするのです。

それだけでもとても嬉しいのですが、気がつくとセラピストの目線でその内容を捉えている自分もいるのですね。

というのも、非二元の話の内容がそのままより良い生き方を目指す上で、とても参考になると気づいたからです。

一番大きいのは、今あるこれが全てであり、これ以外はない!ということです。このことが全面的に気づけば、期待がなくなるのです。

これよりももっとマシな何かがあるはず。この考えが、生への抵抗となってそれこそが苦悩を作り出すものなのだと。

期待と現実との落差が苦しみの元だと気づけば、今あるこれだけがリアルで、そこにゆったりとい続けるだけでいいのだと。

今ないものはない、あるものだけがあるのだと。このシンプルさの中に委ねていられるなら、きっと生の味わいは激変するでしょうね。

非二元では、5W1Hの質問には答えられない

非二元(ノンデュアリティ)では「5W1H(Who, What, When, Where, Why, How)」の質問に答えられないというのがあります。

それは、非二元の視点が「分離した個人」や「時間的・空間的な現実」を前提にしていないからです。

以下に詳しく解説します。

■ 非二元の基本的な立場

非二元では、「私」と「世界」や「他者」など、あらゆるものの分離は幻想とされます。すべては一つの「現れ(現象)」であり、それに名前や意味づけをして「分けている」のは思考であると。つまり、

• 時間(過去・未来)

• 空間(ここ・あそこ)

• 自我(私・あなた)

これらはすべて、概念的な構築物でしかないということです。

■ なぜ5W1Hに答えられないのか?

1. Who(誰が)

→ 非二元には「個人の実在」がないため、「誰が〜した?」という問い自体が成立しません。

 例:「誰が悟ったのか?」→「悟った“誰か”などいない」

2. What(何を)

→ 「何か」という区別が前提にあるため。非二元ではあらゆる現れが“ただの現れ”でしかなく、それを「何」と区別するのは思考による命名。

 例:「これは何?」→「これは“これ”としてただあるだけ」

3. When(いつ)

→ 時間は思考によって作られた概念であり、非二元では“今”という現れしかない。過去や未来は思考の中の出来事。

 例:「いつ起きたのか?」→「起きた“時”などない」

4. Where(どこで)

→ 空間も同様に概念。「ここ」と「あそこ」の区別は、思考によって成り立っている。

 例:「どこで起きているのか?」→「“どこ”という分離がない」

5. Why(なぜ)

→ 理由・原因の問いは、時間と因果関係があることが前提。でも非二元では、現れは「理由なしに」ただ現れているとされる。

 例:「なぜこれが起きているのか?」→「なぜ、という問いが不要」

6. How(どうやって)

→ 方法やプロセスも、「ある地点から別の地点へ行く」という時間的・空間的前提がある。でも非二元では、「どこかへ行く」ということがそもそも幻想。

 例:「どうすれば悟れる?」→「“悟る”べき誰かも、プロセスも存在しない」

■ まとめ

非二元は、5W1Hの前提そのものを否定しているのです。それゆえ、どんな質問にも「明確な答え」は返ってこないように感じることが多いです。

それは「答えを濁している」のではなく、問いそのものが幻想に基づいているからなんですね。

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ゴロゴロ昼寝をしていて気づいちゃった

現実というものの本当の姿に気づいてしまってから思うのは、なぜ自分のような何も修行らしいことをやったことのないモノがそんな大切なことに気づけたのかということです。

これはどう考えても理不尽過ぎると感じてしまうのです。昔の禅僧の過酷過ぎる苦行などをイメージしたら、自分がやってきた瞑想なんてレジャーのようなもの。

ブッダが何年もの間、血の滲むような難行苦行を経て、それでも覚醒できなくて完全に諦め切ったところで悟りを開いたという話。

あるいは、何か物凄い苦悩のなかで何年も苦しみ続けてきたような人が、ある日ふと覚醒するということがあるわけです。

いずれにしても、なるほどと思わせるような境遇を通り抜けて、その先にようやく真理を見出すということがあるのだと。

それなのに、自分はなにかズルをして容易には知り得ない宝物を見出してしまったと。テストでカンニングして高得点を取ったような感じ。

コネを使って良い大学に裏口入学して高学歴を手に入れたヤツのようにも思えるのです。あまりいい例えではないですが。

だから自我は消えてもいないし、人格が向上したことも一切ないし。笑えるくらいごく普通の人間を今も変わらずにやっているのです。

とはいえ、本当のことは見えてしまったので、あとはこれまでの生き方や考えるクセがゆっくり落ちていけばいいのかなと。

そのためには、10年くらいの猶予を自分に与えてあげようと、これもまた自分に相当甘いなあと。

自分の意識なんてない


自分の本質は純粋な意識だとずっと思っていて、それを身をもって実証するために、瞑想を繰り返してきたのでした。

過去形で言っているのは、半年前にはそれが途絶えてしまったからです。なぜなら、その探究そのものが間違っていたと気づいたからです。

つまり、そもそも自分もなかったし、自分の本質なんてものもなかったと気づいたからです。そうなった時に、意識もないんだと。

これには、ちょっとしたショックを受けた記憶がありますね。だって、意識こそが本質だと思い続けていたのですから。

けれども、冷静にみたときにただ意識だけがあると気づいたのですね。それを意識と呼ぶかどうかは別として。

個人として存在しているという感覚とは別に、大きさも位置もないあの感覚を全体性と呼んでいたのですが、それこそがいつも今ここにあるコレのことなんだなと。

ただ気づいている感じ、あるいは単に気づき。何かが何かに気づいているということではないのです。

コレは理解できない。コレは時間とも空間とも関係ないし、誰とも関係ない。ただいつもここにあるコレですね。

結果として、個人としての意識というものがあるわけではないことが、とても明確になったと同時に、初めて自我を退治するきっかけができたのかも知れません。

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自分が伝えたいことだけを伝えられる歓び

半年くらい前のことですが、「今後の動画の内容について」と言ったタイトルの動画をあげたことがありました。

あの時は、それまでずっと継続していた真実への探求が、突如として終わりを告げてしまったことで、自分自身も今後どうなるのか分からない状態でしたね。

それからというもの、あれほど毎日の日課として続けていた瞑想もやめてしまいましたし、敬愛していたoshoの本も読まなくなりました。

それでも、oshoが非二元系の話をしている書物はないかなと探していたのですが、結局見つからずじまいで。

そのあとは、非二元の動画を立て続けに上げるようになって、自分でもややびっくりしているのです。

そして最近では、それまで瞑想に割いていた時間を使って、非二元のことをお伝えするためにはどのようにしたら最も効果的なのかと言ったことを考えるようになりました。

そのことが実は自分自身にとっても、とても意味があることだと気づいたのです。伝えようとする言葉は、自分にも入ってくるのですね。

動画に寄せられたコメントや質問に答えているうちに、自分自身の中で非二元が定着して行ってるのを感じるのです。

今後も自分に正直に、自分が伝えたいということのみをお伝えして行けたらいいなと。それが自分にとっての満たされた人生なんだろうなと。