自分が伝えたいことだけを伝えられる歓び

半年くらい前のことですが、「今後の動画の内容について」と言ったタイトルの動画をあげたことがありました。

あの時は、それまでずっと継続していた真実への探求が、突如として終わりを告げてしまったことで、自分自身も今後どうなるのか分からない状態でしたね。

それからというもの、あれほど毎日の日課として続けていた瞑想もやめてしまいましたし、敬愛していたoshoの本も読まなくなりました。

それでも、oshoが非二元系の話をしている書物はないかなと探していたのですが、結局見つからずじまいで。

そのあとは、非二元の動画を立て続けに上げるようになって、自分でもややびっくりしているのです。

そして最近では、それまで瞑想に割いていた時間を使って、非二元のことをお伝えするためにはどのようにしたら最も効果的なのかと言ったことを考えるようになりました。

そのことが実は自分自身にとっても、とても意味があることだと気づいたのです。伝えようとする言葉は、自分にも入ってくるのですね。

動画に寄せられたコメントや質問に答えているうちに、自分自身の中で非二元が定着して行ってるのを感じるのです。

今後も自分に正直に、自分が伝えたいということのみをお伝えして行けたらいいなと。それが自分にとっての満たされた人生なんだろうなと。

静寂が音として現れる

その昔、「波動の法則」という本を読んで、いたく感動したことがありました。この世の全ては波動なんだと。

すごくシンプルだし、とても分かりやすかったので、その後の人生で全ては波動なんだろうなというのが根っこにあったのです。

そして、最近では非二元の方に意識が向いてしまっていたので、波動というのも忘れていたのですが、また久しぶりに思い出したのです。

というのも、非二元のことを説明するのに、この二元の世界にいるつもりになっている私たちに共通の言葉で表現する必要があって。

そこで波動のことを持ち出すと、意外と分かりやすいこともあるのかなと思ったのです。何もないというのは、「無」として表現できますね。

その無が振動することで、音として現れてみたり、色や形として現れてみたりするということです。

もう少し丁寧に言うと、静寂(無音)が波動となって、それが聴覚として音となって現れるということ。

あるいは、暗闇(無光)が波動となって、それが視覚として色や形となって現れるということですね。

非二元では、「現れていること」が全てなんですね。他には何もありません。

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料金体系を元に戻します

貨幣経済へのささやかな抵抗として、昨年6月から始めたセッション費用の自由化ですが、そろそろ丸一年を迎えようとしています。

その間、流石に普段はお会いすることもないような方々にも、セッションを受けていただくことができました。

学生の方々、休職中、あるいは離職中で経済的に苦しい方々、精神的なハンデがあって費用の負担が難しい方々など。

また、多くの方々に支援金をプレゼントしていただき、なんとか一年を無事過ごすことができたと思っています。

私なりの成果を感じることはできましたが、一方では想定していたほどの効果が出なかったという思いもあります。

ということで、この取り組みは2025年5月31日を持って終了とさせていただきます。6月1日からは、従来通りの料金体系に戻ります。

多くの皆様の温かいご協力に感謝しております。ありがとうございました。

現れていることが現れているだけ

全てが「現れ」だということに気づくと、なんだか楽になるような気がするのです。どんな努力も必要ないということが分かるからなのか。

その「現れ」の中には、見えているもの、形、色、音、感情、思い、感覚、イメージなど全てが含まれるのです。

それを避けることも、それに抵抗することも全く不可能なわけです。思考を止めようとしてみたり、今ここにいようと努めてみたり。

そうすることも含めて、ただの現れに過ぎないのですね。だから何をしようと、何をしなかろうと、その全てが単に現れていること。

自分の中で瞑想が特別な意味を持つということもなくなってしまいました。この現れをどのようにもコントロールすることはできないので。

どんな概念も、どんな努力も関係なく、ただこれ以上ないくらいに明確であるもの、それが現れであり、概念も努力もその現れの中にあるのだと。

このことに日頃から気づいてさえいれば、何はなくとも普段のこれが完璧なんだなと感じるのですね。

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「見かけ」が全て

非二元のことを、なんとかもっと分かりやすく説明する方法がないものかと思って、考えたのが次のようなものです。

ふつう私たちは、「見かけ」というのを、本質じゃないものとか、表面的なものとして扱う習慣があるのですね。

でも、非二元では全く逆で、「見かけ(現れ)こそがすべて」なんです。何かの奥に真実があるんじゃなくて、この瞬間に現れている音、色、感情、思考、それがすべて。

何かの背後に「意味」や「存在」があるわけじゃなくて、ただこの“現れ”が、完全で、何かのためではないということ。

誰かが見てるわけじゃない。ただ「見かけ」が、現れては消えていく。それ以外には何もないし、誰もいないということ。

「見かけ」とは:

今ここに現れているすべての体験(視覚、音、感情、思考など)

それらはリアルであり、完全であり、何かの背後にある“真実”を必要としない

だから、非二元では「見かけに騙されるな」という常識とは逆で、むしろ「見かけを疑う思考こそが幻想」と見るんですね。

こういった視点は、普通の思考習慣と正反対なので、最初は混乱しがちですが、その気づきの先にある自由さや解放感を少しでも感じられたらと思うのです。

自分も自分でないものも共に消える

今あるものを今ある通りに見てみよう、というのが非二元に近づくための標語のようになっています。

それはなぜかと言えば、私たちの見る目は膨大な数の様々な概念や観念、思い込みや信念などによって、脚色されてしまっているからです。

そういったものをできる限り排除して見ることができれば、ただあることだけがあるということに気づけるはずだからです。

自分と自分ではないものという区分けが、気づいたら根付いてしまっているのでそれが幻想だと気づくのが難しいのです。

この場合の自分あるいは自分の領域というのは、この身体の内側であり、外側が自分ではないものということになっているのです。

そして、身体と自分の結びつきを強固にしているのが、五感、あるいは感覚なのですね。どうしても、感覚は身体ありきだと思っている。

その誤解を見抜いて、ただ感覚だけが起きていることが分かれば、身体の内側と外側を分ける必要が消えていくのです。

そうなった時に初めて、自分と自分でないものの分け隔てがなくなるだけでなく、その両者が共に消えてしまうのです。

これが非二元ですね。自分もいないし、自分でないものも消えてしまう。けれども、感覚、感じていることに気づいていることだけがあるのです。 

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ゴールデンウィークのレアな経験

会社員を辞めてからは、ゴールデンウィークといっても普通に仕事はするし、何も普段と変わることはなくなりましたね。

若い頃は、出かけるのが苦手な自分はゴールデンウィークに一体何をしていたかなあと考えていたのですが。

一つかなりレアな経験のことを思い出したのです。それは、まだ家内と結婚する前ですが、一緒に富士山に行ったときのことです。

出かける当日の早朝、交通情報を確認すると、目的地までの高速道路がなんと100kmの渋滞になっていると。

これはもうダメだなと瞬時に悟って、1日のんびりしようと思って彼女の家まで迎に行ったら、出かける気満々の状態で出てきたのです。

あれ、富士山までの距離が約100kmで、渋滞が100kmということは、ずっと渋滞の中を進んでいくことになりますよねと。

ところが、それが何か?という感じのすまし顔でいるので、ああ自分とは文化が違うのだなと、そういう理解というか、あるいは諦めというのか。

結局この無謀とも言える富士山ドライブは決行されたのでした。私のゴールデンウィークの唯一の思い出です。

人間というのは、一人で過ごすよりも誰かと共にいるだけで、さまざまな学びができるということかもしれないですね。

どれほど奇想天外なことであれ、勇気を持って見る

人間て不思議なものですね。どれほど奇想天外なものであれ、それに毎日触れていると、次第に慣れてくるのです。

そうなると、それがゆっくりですがごく普通のことのように思えてくるのです。私にとっては、それが非二元なのです。

実体はないとか、時間も空間もない、何もないなどということを逃げずに見ていると、最初のうちはそれをどう扱ったらいいのか途方に暮れるのです。

ところが、それを毎日見つめてみるうちに、もうそこから逃げることもできないと気づくので、肝が座るというのか。

それをそのままに受け入れるしか方法がないのだと分かるのです。もっと正直にいえば、受け入れるというのもないのです。

それしかないのですから。すると、追い打ちをかけるようにどんどんとこれでもかという具合に、突きつけられるものがあるのです。

そして気がついたら、ああこんなところまで来ちゃったなあと。こんなこと、決して人前では話せないなと。

その点、私は恵まれていますね。なぜなら、どんな内容であっても勝手気ままに好きなことを表現して、それを動画配信できるのですから。

それを少数であれ視聴してくださる人たちがいると思うと、ありがたいなと思うのですね。

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見かけの上で背が高く見えるのは?

自分が自宅に戻った時に、ちょうどお向かいさんの家に背の高い若い男性が帰ってきたところだったのです。

あれ、お向かいさんの家にあんな大きな息子さんがいたんだっけ?と思ったのですが、もしかしてとなったのです。

数年前にそのご家族が引っ越してきたときに、小学校高学年くらいのまだ小さめの男の子がいるのは知っていたのです。

その子がちょっと見ない間に、これほどの成長をしてしまったのかなと。とはいえ、まだちょっと信じられない感じがするのです。

他人の子供の成長は早いとは聞くものの、これほどの変化をするとは。そして、そう言えばということを一つ思い出したのです。

この一週間以内のことだと思うのですが、やはり自分が帰宅した際に、その家の奥さんと出くわして挨拶をしたのです。

その時も、もっと背の低い人だと思っていたのが、結構すらっとした背の高い人に見えて内心びっくりしたのでした。

どう考えても単なる気のせいでは済まされないくらいのレベルなんですね。これで、今度その家のご主人と会った時に、やっぱり背が高くなっていたら世にも不思議な事件だなあと。

そのように見かけ上見えることは、そのように見えることが起きているんだと。そしてそれしかないというところに、やっぱり行き着くんですね。

空間がなければ全てが消える

スピリチュアルって楽しいなあと思っていた記憶があるのですが、それはそうですよね。分離がなくて、全てが一つだっていうのですから。

分離がなければ孤独もないし、全てが一つであれば敵も味方もなく平和に満たされているというのが、容易に想像できます。

それはもうユートピアですね。その話に水を刺すわけではないのですが、非二元で言うところの空間がないというのを、ワンネスに一滴垂らすとどうなるでしょう?

当然ですが、空間がなければ分離もあり得ないのですが、そもそも分離するようなどんなものも存在しないということです。

空間がなければ、何もないので孤独であれ戦争であれ、ものであれ全てが起こりようがないと分かるのです。

空間がなければ時間も入り込めないですね。もちろん人間も、自我も。これではっきりしましたね。

とてもシンプルなことですが、ワンネスというのはあくまでも自我の領域でのイメージだということです。

それに対して、非二元は何もないので分離すらないということ。あなたも私も一つになるのではなく、単に最初の最初からいなかったということですね。

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