何日か前のブログ「未来の自分との会話」の中で、瞑想や腹式呼吸を頑張ったからと言って、覚醒するわけではないと言われてしまったのです。
薄々は気づいてはいたことですが、私なりに反省したのです。要するに、覚醒に至るための手段というものは一切ないということなのでしょうね。
明確な手段が用意されているなら、それを命懸けでやり通せば良いわけですから。手段がないからこそ、多くの人が苦悩してきた歴史があるわけです。
そしてもう一つ、頭を切り替えなければならないことがあるのですが、それは瞑想を何かの目的を達成するための手段にしてはならないということ。
お風呂に入るのは、身体を綺麗にするための手段としてみることもできますが、一方で気持ちよくリラックスできるので、お風呂に入ること自体が好きというのがあります。
後者の場合は、お風呂に入ることは手段でもあり目的でもあるわけです。瞑想もそれと全く同じように捉える必要があるということです。
リラックスして気持ちを落ち着かせるなどの目的で瞑想を手段として使うのも良いのですが、もっと良いのは瞑想が好きだから、楽しみたいのでそれ自体が目的となっている場合です。
以前どこかで書いたことがあるのですが、一般的に言って手段と目的が明確に分かれている場合、その原動力は恐れ(防衛)であることが多いのです。
一方で、手段と目的が重なっていたり、あるいは一体である場合、その原動力は愛であると言ってもいいと思います。
最近知った呼吸法(喉を広げるやり方)と瞑想の組み合わせ、私にとってはとてもマッチしているようで、もう少しやってみてこれやっぱり良いとなったら、いずれここで取りあげますね。