外側頼みをやめる

すごくシンプルなことではあるのですが、私たちは自分自身の内側が満たされた状態になれば、それ以上のことはないのです。

内面が満たされれば良いだけなのですが、その方法が分からないのです。そのために、外側に何らかの希望を持ち続けてしまうのです。

こういうことが起きたら、あの人がこうしてくれたら、何であれ外側の世界に起きることによって、自分は満たされるのだと。

その結果、外側ばかりを見るようになってしまったのです。頼りになるのは、外側の世界ばかりで、ただそれを待っているのみ。

あるいは自分から外側に働きかけて、何とかして希望することが起きるようにと頑張るのですが、いずれにしても外側頼りなのは同じなのです。

ただここへきて、ようやくそうじゃないかもしれないと分かってきたのです。昨日のブログの内容もそういうことを言いたかったのです。

外側頼りの生き方に見切りをつけて、内側から独りでにやってくるものを見つめるのです。それがなぜ起こるのかは分からないままに。

どんな理由もなく、内側からやってくるものに自然と満たされることの方が、より深い感覚を味わうことができるようで。

そのほうがより本質的な何かを感じることができるような、そんな気がするのです。一口で言うなら、とにかくより自然な状態でいること。

私の場合は、覚醒するという目標を脇に置くことかもしれません。ただそれだけで、未来が消えて今この瞬間の感覚も変わるようです。

自分を直接改善するすべはない

昨日、事務所から帰宅するときにクルマの中で、何となく見える景色の雰囲気がいつもと違う感じがしたのです。

かすかに穏やかというか、愛しいというか、敢えて表現してみれば「愛の目」で周囲を見ているという感じです。

ああ、こんなふうに毎日外の世界を感じることができたら、本当に気持ちがいいし穏やかな気分で過ごせるのになあと。

それで分かったのですが、自分を自分の力で改善するというのは無理なことなんだなと。勝手にやってくるものに違いないと。

こうなりたいと願って、あれやこれや試してみたところで、思うようにコントロールすることなど、到底不可能なことだなと。

何も特別なことをしたわけでもないのに、不意にそんな感覚がやってきてくれたのですから、自分の力ではどうしようもないのです。

目的を持たないってこういうことなのかも知れないなと。どんな自分も思い描くことなく、ただただ十分に今この瞬間にいるだけ。

それが最善のことだし、それしか本当にはできることはないと腹落ちすることができたのかもしれません。

残念なことに、当然のことかもしれませんが自分でコントロールできないものなので、来ては去っていってしまうのです。

継続させるすべもないのです。ただ、間接的にできること、つまりは過去と未来のどちらとも距離を置いて過ごすということだけですね。

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分かっちゃいるけど やめられねぇ♪

私は本を読むという趣味がなくて、長い人生の中でかなり熱心に読んだのは唯一 osho の本くらいなのかなと。

小説とか随筆とか、あるいは歴史物や教養本などは特に興味があまりなくて、ただしちょっとした本を読むブームというのが自分にはあるようなのです。

そのブームが今ちょっと来ていて、この半年くらいの間になぜか何冊も本を買ったり図書館で借りたりということが続いているのです。

それで気づいたのですが、私が本を読む時にはそれを楽しむためということよりも、とにかくどれほどの遠回りであろうと覚醒への道のためというのがあるのです。

どんなヒントでもいいし、どんなちっぽけな気づきでもいいので、覚醒へ至る道のヘルプになるようなものはないかと、日夜探しているのです。

なので、本を読み終わった段階で、どうもあまり覚醒を実現するために必要なものではなかったと気づくと、ちょっと落胆するのです。

そしてまたもっといい本はないものかと探すのです。YouTube動画を観るのも全く同じ目的なんだなと気づきました。

直接的ではないにせよ、そうした動画を見る唯一の目的はやっぱり覚醒へのヒントが転がってないかなと思っているのですね。

この生活がどれほど目的志向なのか、どれほど自我っぽい生き方であるのか、そんなことに気づいてしまいました。

覚醒を目的にしている限り、1000%覚醒には至らないことは重々承知しているはずなのですが、これがなかなか変わらないのです。

「分かっちゃいるけどやめられねぇ♪」これ、六十数年前の植木等さんの「スーダラ節」という大ヒット曲の歌詞の一部です。きっと誰も知らないと思いますけど。

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波動の高低 ≠ 優劣

10年近く前に、ちょっとした覚醒体験?をしたときに感じたのですが、周囲がパウダー状のきめ細かな感覚になったのを覚えています。

その状態から普段の状態に戻ると、今度は粗い粒状の感覚がやってきたのです。これかと、この感覚の違いが波動の高い低いの違いなのだなと思ったのです。

やはり波動が高い方がよりきめ細かく感じるのかなと。昔スキーに行ってる時に、パウダー状の雪質の方がベタベタにならないのでいいと。

波動というのは、波の周波数のことですが、それに高低差があるのは当たり前のことで、高い方が良くて低い方が劣ってるというわけではないのです。

それは人間の背の高さに優劣がないのと同じです。音にしても高音の方が低音より優れているなんてないし、色についても全く同じ。

虹の色は光の周波数の違いなので、赤が青に比べて優ってるとか劣ってるなどということもないことは当然です。

であるなら、なぜ自分の波動をなるべく高くしたいかというと、それが優っているからではなく、高い方が心地よいからです。

気分がすぐれない時や、気持ちが落ち込んだり焦っていたりする時、波動が下がるという特徴があるというだけなのですね。

波動の高い低いを優劣で考えることをやめると、大切なことが見えてきます。地球という惑星の波動は他の惑星に比べて波動が低い(次元が低いとも)と言われているようです。

でもそれにはそれの素晴らしさがあるし、この地球上でしかできない素晴らしい経験もたくさんあるのですからね。

未来への期待が止まらない

私の場合、自分の正体を知りたいという欲求が止まらないのです。それがどんな欲望とも全く同じものだということは理解できているのです。

欲望さえ落ちてしまえば、自分の本性が露呈されるということも分かっているのですが、この自己矛盾にはホント困りものです。

私たちの多くは、今日よりも明日、今年よりも来年という具合に、前へ前へと進んで行きたいのです。止まりたくないのです。

変化したい、改善したいという欲望が未来に意味を持たせるわけです。その未来への期待があるからこそ、毎日を生きていけるのです。

その希望が全て失われてしまったとしたら、今日1日をどのように生きて行けばいいのか分からないというのが本音なのです。

これが自我の生き方ですね。これを踏まえて、以下のoshoの言葉を噛み締めてみて下さい。

『旅そのものを楽しむことだ
ゴールのことなどあまり気にせずに
実のところゴールとは
旅をひたすら進み続けていくための名目にすぎない
生は巡礼だ
無への巡礼、ゴールのない巡礼–純粋なる巡礼の旅だ
これを理解することは途方もない自由をもたらし
重荷はすっかり降ろされる』

そうなのか、ゴール(目標)というのは、進み続けていくための名目だったのですね。自分をより良いものへと改善しようとする改善病。

私の場合は、自我としての自分を落として真実の自分に戻ろうとする、これも広義の改善病と言えるかもしれません。

未来のことは忘れて、今この瞬間を思い切り楽しむことに専念する、これは未来ではなく今すぐに実践できることですね。

自分であって自分でない

自分の本質は、身体でもなければ心(マインド)でもない。それ以外の何かであるとすると、残っているのは気づいている状態、つまりは意識ということですね。

そのことを常にどこかに忘れずに保持しながら、生活するようにしているのですが、大抵は心(マインド)と一体になってしまっているようです。

そんな中、今朝もいつものように瞑想をしていたのですが、なぜか自分のことが分からない、自分て誰なんだろう?という疑問のような感覚がやってきたのです。

身体でもマインドでもない、純粋な意識だろうというのともちょっと違うのです。不思議なことに、自我としてみても知らない人のような気がしたのです。

これは面白いことになったと思って、じっくり味わってみたのですが、その感覚はすごく明確というわけではない、そこはかとしたものなので、実感としては薄いのです。

自分は意識だという方に意識を向けると、大きさも形も色も何もない純粋な無を感じるのですが、それとは明らかに違うのです。

自我として生きてきた、たくさんの体験の記憶があるものの、それが自分とは結びついていないと言った感覚とでもいうのか。

これを書いている今この瞬間も、それを感じてみようとすると、うっすらとあるのです。自分であって自分でないような。

これ、若い頃だったら病院に行かなければと思うかもしれませんが、今はすごく楽しめるのでありがたいです。

この新しい感覚が今後どう育っていってくれるのか、なぜかワクワクしてしまいます。こんな他愛のないことでも、結構楽しめますね。また、報告します。

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理に適ってない

理屈っぽい人とそうでない人がいますが、私は完全に前者の方に入ると思いますね。理屈は、理論とも言えます。

要するに、起きることにはそれなりの明確な理由、原因があるという考え方です。だから原因と結果が理屈に合わないと、気持ちが悪いのです。

その気持ち悪さゆえに、人の言動に対して「理に適ってない!」と言ってしまうわけです。そこで一刀両断、血も涙もないと言われるのです。

それでも自分としては、理屈に合わないことを言ったりやったりするよりはましと思ってしまうのです。

ところがです。最近、その理に適っていることがとても視野の狭い発想でしかなかったのかもしれないと思えるようになったのです。

自分が認知できる理論、理屈の視野が狭ければ、それを超えるような事柄は理に適ってないと感じるはずだからです。

「お金の心配をしない」→「お金がやってくる」という動画をあげたのですが、これなどは完全に理に適ってないですよね。

これまでの理屈で言えば、「お金の心配をする」→「対策&実践」→「お金が入るかも」が正解であり、理に適っているはずなのです。

分かったことは、宇宙的視点に立てば、自我の自分が理に適ってないと思ったこともすっ飛ばして、現実化されるということです。

それは圧倒的に自分などよりも視野が広いからですね。左脳で作り上げた自我の理屈が、どれほど狭い視野に基づいたものか、正直反省の日々ですね。

全体性の感覚

大人になってから、マドラーという言葉を知りましたね。それまでは、かき混ぜ棒と呼んでいたと思います。

今も、あの混ぜる奴?などと言っているかも。子供の頃は、ココアやインスタントコーヒーを飲むときには、粉末をすくったスプーンでそのまま混ぜたりしてました。

それが、大人になって水割りやハイボールをかき混ぜる時に、スプーンだときっと氷があって混ぜにくいので、スリムなマドラーの出番となったのでしょうね。

そのかき混ぜ棒ですが、混ぜているうちにゆっくりと溶け出していくイメージを作ってみて欲しいのです。

混ぜながら、少しずつ混ぜる抵抗が減ってくる感覚があって、そのうち気がつくと液体の中へと溶けていくのです。

混ぜる抵抗というのは、私たちも水泳をしている時などに感じるもので、腕や足を使って水を掻く時に感じるあの感触です。

一生懸命泳いでいるうちに、なぜか次第に水の抵抗を感じなくなっていって、終いには抵抗がゼロになってしまうのです。

気がつくと身体が消えて水の中へと溶け出していってしまったとしたら、自分は一体どこにいるでしょう?

どこにもいないとも言えるし、全体へと拡散し全体に満ちているとも言えるのです。それこそが、全体性の感覚に近いのかなと。

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地球という遊園地で楽しむ

自分が存在の一部であるということに気づくことができたなら、防衛はなくなり自我として生きることはできなくなるでしょうね。

自我は、そういう情報があることは知っているし、自分なりに理解することはできるのですが、それを真実として腹落ちさせることはできないのです。

仮にできてしまったとしたら、その瞬間に自我は入れ替わるようにして消えていくからです。あくまでも自我は、存在から分離した自分のみを意識できるのです。

そう考えていくと、自我として生きていることがどれだけ貴重な経験なのかが分かろうというものです。全くもって独特ですよね。

この宇宙に存在しないものの筆頭は、「分離」です。分離という概念は、概念としてはあるのですが、実在ではありません。

私たちの本性である、全知全能の存在からすれば、ありえないような分離の体験をすることができる、極めて特殊な自我という名のアトラクションなのです。

ただし、自分の本性を忘れて遊びにきているので、アトラクションといえどもなかなかしんどいことになっているのも事実です。

死んだらその全てを思い出すはずなので、生きているうちにできるだけこの地球という遊園地での時間を楽しむことですね。

頭の中のシークバー

下の画像は、日頃私たちが動画などをみるときに慣れ親しんだ画像ですね。この画像の下側にある線(赤と白の部分)をシークバーと呼ぶらしいです。

要するに、今どの位置にあるのかを示してくれるもので、左にずらせば動画の前の方に戻るし、右にずらせば後の方に移ることができます。

動画再生やシークバーのフレーム素材 動画,再生,シークバー,フレーム,一時停止,動画サイト,動画再生,ネット動画,設定,飾り枠のイラスト素材

私たちの左脳の仕組みにも、このシークバーのような機能をする部分があって、それを操作することで過去を思い出したり、未来をイメージできるわけです。

このシークバーの機能のおかげで、私たちは時間というものを感じることができるし、時間は過去から未来へと流れていると思っているのです。

瞑想状態になって、時間の流れから抜け出すと、上の図のように時が止まった状態になると想像している人もいるかもしれませんね。

けれども、そうではないのです。瞑想の中に深く深く入っていくごとに、シークバーに寄って行くような感じになるのです。

シークバーの縮尺が変化すると言ってもいいかもしれません。シークバーのメモリが拡大表示されるので、時間の流れがスローになっていくのです。

けれども、時間が止まるということにはなりません。時間の流れというものが幻想だったと気づくだけなのです。

頭の中のシークバー自体が消えていくことにより、時間はないということに気付けるのですが、過去や未来も一緒に消えるのではなく、現在と同時に在る感覚です。

頭の中のシークバーを操作することをやめてみると、時間が過去から未来へと流れているという思い込みから解放されるでしょうね。

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