私は本を読むという趣味がなくて、長い人生の中でかなり熱心に読んだのは唯一 osho の本くらいなのかなと。
小説とか随筆とか、あるいは歴史物や教養本などは特に興味があまりなくて、ただしちょっとした本を読むブームというのが自分にはあるようなのです。
そのブームが今ちょっと来ていて、この半年くらいの間になぜか何冊も本を買ったり図書館で借りたりということが続いているのです。
それで気づいたのですが、私が本を読む時にはそれを楽しむためということよりも、とにかくどれほどの遠回りであろうと覚醒への道のためというのがあるのです。
どんなヒントでもいいし、どんなちっぽけな気づきでもいいので、覚醒へ至る道のヘルプになるようなものはないかと、日夜探しているのです。
なので、本を読み終わった段階で、どうもあまり覚醒を実現するために必要なものではなかったと気づくと、ちょっと落胆するのです。
そしてまたもっといい本はないものかと探すのです。YouTube動画を観るのも全く同じ目的なんだなと気づきました。
直接的ではないにせよ、そうした動画を見る唯一の目的はやっぱり覚醒へのヒントが転がってないかなと思っているのですね。
この生活がどれほど目的志向なのか、どれほど自我っぽい生き方であるのか、そんなことに気づいてしまいました。
覚醒を目的にしている限り、1000%覚醒には至らないことは重々承知しているはずなのですが、これがなかなか変わらないのです。
「分かっちゃいるけどやめられねぇ♪」これ、六十数年前の植木等さんの「スーダラ節」という大ヒット曲の歌詞の一部です。きっと誰も知らないと思いますけど。
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こちらの動画もぜひご視聴ください。
でもその覚醒への目的意識もいくところまでいけば、いつかある所で深い諦めのような境地に落ちつくというか、執着が落ちてその結果覚醒に至るなんてケースもありえるんでしょうか?
過去覚醒した人たちの事例でも同じような事はあったような気がするんですが。
確かにそうですね、けれどもそれにはとことん究極までやり抜いた末に絶望するという過程が必要かも知れません。苦行が嫌いな私には難しいです。