不安の正体を見破る

自我というのは、その本性からして原理的に避けることのできない「不安」を持っているのです。それが何かというと、分離からやってくる不安です。

この分離不安は、母体から物理的に産まれたことによる不安だけでなく、肉体的にも精神的にも外界から分離して孤独であることからもやってくるのです。

それを無くしてしまうことはできないので、多くの人はその分離不安を誤魔化して感じなくさせる方法を使って、すまし顔で生きているのです。

それだけであればまだいいのですが、多くの人々はその純粋な分離不安にそれ以外のたくさんの別の種類の不安を重ねていくのです。

そのために、生きている間でどんどんと不安が大きく育っていってしまうのです。場合によっては、それ本当に不安なの?と思うようなものまで上塗りするのです。

例えば、明日遠足なのに雨が降ったらどうしよう、という思いがやってきたとして、考えても仕方ないやと忘れてしまうこともできますね。

けれども、その思いを自分なりにこれは不安の中に分類できるとして、元々の分離不安の上へと積み重ねていくわけです。

そんなことを繰り返していくうちに、気がついたらタイソウ立派な不安の塊が出来上がってしまい、それが本人をいいように操るようになるのです。

そうなってしまったら、その不安をなんとかして安心に変えようとする防衛の日々が続く、そういう人生になってしまうかもしれません。

もしも不安が大きいなと、不安に支配されている感じがするなと思うなら、心の中の不安をゆっくりと観察してみることです。

そして、その塊が本当は何からできているのかを見ることです。うまくすると、表面から順番に外していくことができるかもしれません。

そして、最終的には純粋な分離不安だけが残ることになるはずです。そうなったら、主従逆転の人生から解放されることになるでしょうね。

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子供の頃の不思議体験

子供の頃のことですが、友達とその家族と一緒に総勢10名以上で何泊かの旅行に行った時のことです。

かなり記憶が曖昧になってしまっているのですが、朝旅館から出発する前にバスを待っている時に起きたことなんですが。

場所は、草津温泉のシンボルである「湯畑」の近くだったと勝手に思っているのですが、何やら人だかりができていたので、子供達だけで見に行ったのです。

すると、そこにはボロボロの姿をした仙人みたいな男性がいて、つい先ほど山から降りてきたばかりだというのです。

そこで修行をしてきて、今から手を使わずに棒切れを動かすというのです。何が起きるのだろうと見ていると、その辺に落ちていた板状のものを両手に持って、その上に小さなマッチ棒のような木片をおいたのです。

そして、何やら身体に力を入れて唸ると、不思議なことにそのマッチ棒がひとりでに動き出し、ヒョロヒョロと直立したのです。

その時間はほんのちょっとの間であったのですが、その光景は今でもはっきりと脳裏に浮かんで、思い出すことができるほど。

その後その仙人のような人は、ガラス瓶のようなものにいくらでもいいから入れて欲しいと言うので、見ていた大人たちは1円玉とか5円玉などを入れたのです。

自分たちは、それを可哀想に思って、親たちのところに戻って何が起きたのかを話すと同時に、親たちが作ったおにぎりの残りを全部持っていって、仙人に渡したのです。

仙人はとても丁寧に御礼をしてくれたのを覚えています。あの仙人が果たして本物だったのか、単なる見せ物を行う手品師だったのかは分かりません。

けれども、子供の無邪気な心に強いインパクトを与えたことは間違いありません。それと、見ていた大人たちの冷たさが同時に心に残っていますね。

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達成感と縁のない人生

若い頃からずっと達成感というものをほとんど感じたことがなくて、あったとしてもほんの短い間しか続かなかったのです。

会社員になって、みんなで協力して成し遂げたプロジェクトとかであっても、みんなのようには手放しで喜ぶ感覚が薄かったのです。

だから自分は損な気質なんだなと思っていたし、そのうちには諦めるようにもなっていたと思います。

そのことと連動しているのか、自分が頑張って出した結果よりも、漁夫の利のような成果を手に入れた時の方が嬉しいのです。

そんなことってあるの?と思われるかもしれないですが、本当にそうなのですから、不思議なものですね。

表現を変えて言えば、例えば自分の実力を最大限発揮したことで得た成果には、それほどの喜びを感じないのです。

その一方で、誰かの努力によってもたらされた成果を、ずる賢く横取りしてあたかも自分の手柄のように思われたら、すごく嬉しいのです。

これって、変態的ですよね。でも本当だから仕方がないのです。きっと、自我としての手柄を真正面から喜べない何らかの抵抗があるのかもしれません。

いまだにそこの部分は解明できてはいないのですが、皆さんはどうですか?やはり、自分自身の正当な努力による対価に魅力を感じるのでしょうね?

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内向的と外交的

毎朝通っているスポーツクラブでのことですが、新人と思われる女性スタッフの人がずっと一箇所に立ったままでいるのです。

他のスタッフの人たちは、フロア全体を見回る感じであちこち移動して、利用者に声をかけられたらその対応をしているのです。

あれほど根を張ったが如く、じっと立ち尽くしているだけで全く動かずにいるのも、ちょっと普通じゃないなと。

そのことを仲間の先輩方に話したのですが、あまり気にしているようでもなく、違和感を感じていたのは自分だけかと。

その新人さんの様子を見て思い出したのですが、飲み会の席であちこち席を移動する人って多いですよね。

トイレから戻ってきたら違う場所に自然と移動している人とか、あちこちにお酒を注ぎながら次々と席を変える人たち。

私の場合は、最初から最後までずっと同じ席に居続けるのが多いのかなと。これって内向的な気質のせいかなと思っています。

だから、その新人スタッフさんも慣れない職場でその内向性が出てしまっているのかも知れないなと思ったのです。

内向的なことが外交的なことより劣っているということではないですが、社会の中では少し不利になることがあるかも知れません。

とはいえ、どんな自分であろうとそのままをまずは受け入れて、自分に無理強いすることなく自然に任せていられたらいいなと思うのです。

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瞑想的に生きる

瞑想とか坐禅と聞くと、なんとなく宗教的な響きを感じてしまって、それだけで抵抗があるという人も多いと思います。

私自身も、瞑想はまだいいのですが、坐禅と聞くと何やら真面目な気持ちで向き合わねばならない過酷なものというイメージがあります。

少しでも体を揺らしたりすると、棒のようなもので肩や背中を叩かれるというのを思い出したりして、あまり好きではありません。

そんな感じで、いずれにしても自分一人で瞑想をするときでも、できるだけ静かな場所で無念無想を目指す感じがしていたのです。

けれども、そんなことも思い込みに過ぎないし、単に囚われているだけだということに気づいてからは、かなり自由度が増しました。

今ではできるだけ邪魔にならないお気に入りの音楽をかけながら、体勢にも拘らないように瞑想するようになってしまっています。

それが功を奏したのか、ものすごくお気楽な気持ちで日々の瞑想を楽しめるようになったのです。瞑想という言葉もいらないくらい。

一つだけ困ったことがあるのですが、瞑想にちょうどいい音楽を探し求めて迷子になってしまったようで。

どこにもたどり着けない沼にハマり込んだようになってしまって、戻って来れずにグルグルしてしまっています。

これは本末転倒だなと思って、しばらく自重しようと思いっていますが、そのくらい自由に好きなように試してみればいいということですね。

そしてただそうした時間が増えていくことで、その感覚を日常的に体験することで忘れにくくなっていくのです。

これは、意識的であるというよりも、瞑想的に生きるということに近いかもしれません。瞑想的な時間を楽しむでもいいですね。是非是非お試しあれ。

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頭の中が「ゴミ屋敷」

たまに、ガラクタで溢れかえっていて、足の踏み場もない家がテレビの番組で紹介されることがありますね。

いわゆる「ゴミ屋敷」です。単に掃除が苦手で、もので溢れかえっているだけの場合もあれば、外からゴミを拾ってきてそれで家の中を埋め尽くす場合もあるようで。

後者の場合だと、不思議なことにその家主さんは何とも思ってないようで、ゴミ屋敷と呼ばれてもぴんと来ないのでしょうね。

一般人からしたらゴミの山に見えるのですが、当人からするとそれらは一種の宝物ばかりで、決して捨てることができないのだなと。

それと同じようなことを自分の頭の中でやってしまっている人も大勢います。つまり、頭の中が思考というガラクタのゴミでいっぱいになっているのです。

ご本人としては、それらの思考がゴミだとは気づいていないので、とっ散らかった頭の状態でずっと生活しているわけです。

極端な事例を挙げましたが、ごく平均的な私たちの頭の中もやや似たような状態だと思った方が良さそうです。

なぜなら、いつもいつも何かを考えていて、そのことにも気づきにくい状態で生きているからです。

考えるのをやめようと決意したら、頭の中が波が全くない湖面のようになって欲しいのですが、ざわざわする思考は後を立ちません。

私自身、本当に頭の中がシーンとなった経験は、たったの一度しかないのですが、それはもう別世界で生きているようでした。

あれ以来どれほど瞑想を重ねても、あの状態にはなってくれないのが残念です。ともかくも、不要な思考はゴミだという見方を忘れないことですね。

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すべてはエネルギーでできている

この数ヶ月の間、お酒を控えるようになったのはいいのですが、それに付随して甘いものを余計に食べるようになってしまいましたね。

お酒で充していたものが欠乏したために、その代わりとして甘いものを欲するようになったということです。

それで気になるのは、理想体重ではなくなってしまうこと。でも本当は、お腹周りの贅肉が増えてしまうことの方が嫌なのです。

私たちの体重というのは、地球の引力、重力によって作られるのですが、その元になるのが質量というものです。

体重は地球上でしか測ることはできませんが、質量は宇宙のどこへ行っても一定のものとして測定できます。

その質量の正体が何かご存知ですか?それは、物質を構成する原子の質量と言えるのですが、その原子の質量がどこからやってくるのか?

それは、原子核を構成する陽子や中性子同志を結びつけるためのいわゆる「強い力」と呼ばれるエネルギーなのです。

陽子や中性子そのものの質量は、原始の質量の高々1%程度であって、残りの99%は「強い力」であるエネルギーが賄っているのです。

ここから分かることは、私たちのこの宇宙というのがどれだけエネルギーの海からできているのかということです。

本質的には、エネルギーしか存在しないということだと思います。そしてエネルギーとは、波動なのです。

だから、いつも波動がより高い状態にいられるように心がけましょうと言い続けているのです。私もあなたも全てはエネルギーだということですね。

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午前の人生、午後の人生

聞いた話しなのですが、人間には運命というものと宿命というものがあるのだとか。その違いってご存知ですか?

宿命というのは、もう絶対的に変わることのないものだそうで、死ぬ時期というのは宿命として決まっているらしいです。

ただし、それまでどのように生きてきたかによって、最大で一年位早まることもあるし、一年位遅くなることもあると。

つまりは、元々の時期を中心にして、最大で二年の幅があるということになります。もしもあなたが90歳まで生きたいと願っても、宿命が80歳であれば79歳から81歳の間に死ぬわけです。

そしてもう一方の、運命の方はというと、こちらは生き方次第でかなり自由に変化させることができるのだとか。

仮にこんな人生になる予定という青写真(ラフな設計)があったとしても、ある範囲を逸脱しない限りは好きなように生きることができるということですね。

また、一つの人生は二つのフェーズに分けることができるということ。私はこれを勝手に午前の人生と午後の人生と呼んでいます。

午前の人生では、多くの人にとっては幼い頃からの教育の通りに生きる、比較的生きづらい人生となるのです。

そしてある時点で、その馬鹿馬鹿しさに気づいて自分の生きたいように生きる、午後の人生へと転換するわけです。

その転換点がやってきた時に、それと気づかずに漫然と過ごしてしまうと、もしかしたら一生が午前の人生のままになってしまう可能性もあるのです。

私の転換点は45歳の時でしたが、それがいつやってくるのかは人によって違うのだと思いますが、きっと誰の人生にもそれは準備されているような気がします。

それが宿命として設定されているものなのか、あるいは運命の中の一部としてのものなのかは分かりませんが、絶対に気づいて気持ちのいい午後の人生をゲットしたいものですね。

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理想を押し付けない

子供は親によってどのように育てられたか、どのように接して貰ってきたのかによって、人生が大きく変化してしまうものです。

例えば、次のような言葉を親に言われて育った場合はどうでしょうか?

・人には優しくしなさい

・人には親切にしなさい

・誰とも仲良くしなさい

・困っている人がいたら、率先して助けなさい

・人を優先しなさい

なんとなく、良さげな言葉が続いているし、それを素直に聞き入れて育ったら、さぞ立派な人間へと成長するだろうと思うかも知れません。

けれども、それは間違いです。自我の成長期にこういった世間的な正しさを強いられて、それを素直を受け入れてしまうと、大変なことになります。

なぜなら、自我が健康的に育つことを阻むからです。健康な自我というのは、まずは自分優先、自分本位でなければならないのです。

それを十分に経験して、自由奔放に生きることができるようになった末に、上記のような人間に自動的になっていけるのです。

ショートカットしてしまうと、不健康な自我が出来上がってしまう可能性が大なのです。こうした非常に困った勘違いをしている親が多いのです。

子供は大変な迷惑を被ることになるでしょうね。逆に、子供の自我を健康的に育てるには、できる限り条件をつけずに接すること。

そのままでOKということを実感させることができたら、子供は健康的に自我を成長させて、その結果自由でバランスの取れた人物になることでしょうね。

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今日という日はいつも特別

自我として生きている私たちは、何をするにも必ず目的を持っているものです。目的を持たずに生きることはできないとも言えますね。

目的を持つことで、現在から未来へと続く希望の道が作られるのです。希望の道さえあれば、現在が不満でもなんとかやって行けるのです。

その道のゴールには、光り輝く望みのものが用意されていると思っているからです。それを楽しみに日々を生きるのです。

だからこそ、もしもその目的を達成してしまったなら、すかさずまた違う目的を探してくることで、そこへと至る道を再び手に入れることになるのです。

もしも希望への道が見えなくなってしまったら、自我は絶望してエネルギーを失ってしまうでしょうね。

その結果、何もする気が起きずに怠惰な毎日を過ごして、その日をやり過ごすしかできなくなってしまうのです。

それだけは避けたいので、目的目標は絶対的に必要不可欠なのですね。じゃあどうしたらいいのかを考えたのです。

自我を落とすために無目的に生きる、そんな極端に走ることをやめて、「今日1日を楽しく生きる」という目標を掲げてみたらどうかなと。

朝目覚めたら、それだけを目標として今日を生きるのです。それだったら、ほんの少しの未来を使うだけで済むからです。

二度と同じ今日はやってこないと言うことを忘れることなく、毎日特別な今日を迎えて、それを楽しみ祝うということができたらいいなと思います。