これが理解できれば、もっと気楽に生きれるはず!

セラピストの仕事をするようになって、それ以前よりもより一層強く感じるようになったことがあるのですが、それは私たちは誰もがみな無意識の操り人形だということでした。

それは例えば、明日は絶対に遅刻したくないと切実に思っていても、どういうわけか明日の朝になると、決まって遅刻してしまうといったことです。

こうした謎の言動というものは、その人の「無意識」によって、突き動かされているといって間違いありません。

無意識なので、表面化することがないために、本人は自覚することができないのです。したがって、あまりに深刻なものになるとセラピストの助けが必要となるのです。

気づいている表面意識の意志と、潜伏している無意識の意志とか合致している場合は問題ないのですが、意外にもかなりの頻度で互いに真逆である場合があるのです。

相手に優しく接したいと思っているのに、すぐに怒りをぶつけてしまうとか、やろうと思っていることをずるずると先延ばしにしたりとか、まったく反対の方向を向いているケースをいくらでも思いつくことができるはずです。

それが人間というものですね。まさに無意識にいいように翻弄されて、いいように突き動かされてしまうのが、我々のさがなのです。

ところで、私たちを強烈に動かす原動力である無意識は、自発的な意志を持っているのでしょうか?無意識の意志こそが、我々の本当の主人なのでしょうか?

実はそうではないのです。無意識は、ただ真の源泉からの情報を取り込んで、それに従って所定の処理を行う言わばコンピュータのようなものだと考えられます。

そして、その源泉こそが言わずと知れた、私たちの真の姿であるということです。つまり、

唯一の源泉(真の自己) → 70億個の無意識 → 70億個のアウェアネス(気づいている私)

という順番でシナリオが伝播していたということです。勿論、私たち一人ひとりは地球上のその70億個のうちの一個人というわけです。

ですから、この宇宙は源泉の一人天下なわけですから、我々人間は真の責任を持つことさえできないということです。それならもっと、人生を気楽に生きてもいいはずですね!

先に寝る派?それとも待ってる派?

サラリーマン時代が長かったのですが、その頃毎日のように深夜に帰宅するわけですが、当然奥さんは先に寝ていることが多かったです。

自分としてはそれは当たり前ですし、もしも起きて待っていたりされたら、逆に相当に困ってしまいますので、よかったのです。

けれども、人はいろいろなんですね。男性は、先に寝ていて欲しい人と、できれば寝ずに待っていてもらいたいと思う人がいるようです。

女性にしても、先に寝てしまえる人もいれば、何時になっても寝ずに待っているという人もいるということを知っています。

男性と女性の組み合わせが、うまく合致している場合はお互いに都合がいいのですが、その組み合わせが反対のペアだとひどい不満が発生することになります。

私の場合には、相手を待たせるということ自体が苦手の性分のようで、待ってられると思うだけで、いやな気持ちになってしまいます。

逆に、自分のことを思って待っていてもらえると、とても嬉しい感じがするという男性の気持ちも分からないではありません。

自分は受け止められているんだなという自覚を持てるので、二人の関係がうまく行っているように感じるのでしょうね。

待つ側の女性の気持ちにしても、愛する彼が遅くまで働いて帰ってくるのに、先に寝ては申し訳ないという気持ちを持っている人がいるのも分かります。

相手が帰宅するのを待って、少しでも会話をする時間を持ちたいという思いもあるのかもしれませんね。

いずれにしても、沢山の男女の組み合わせがあるわけで、その辺りがうまく行っている場合もあれば、ギクシャクしてしまうこともあるのでしょう。

どんな組み合わせにしても、二人が互いの気持ちを尊重しあって、うまくやっていって欲しいものです。そのためには、不満を隠さずに、相手に率直に言うようにするのがコツだと思います。

本当の自分とは何なんだ?

「本当はねえ、自分ていないんですよ~」と言うと、ほとんどの人がびっくりすると同時に、信用してはもらえないし、馬鹿にされるのがオチですね。

それはそうだと思います。この言い方では、随分と言葉が足りないんですね。もう少し丁寧に表現すれば、これが自分だと思っているような自分はいないということです。

これでもやっぱり、信じてはもらえないばかりか、拒絶されてしまうかもしれません。それは尤もなことで、人は自分が消滅することが一番怖いのですから。

自分がいないというのは、到底耐えられないことなわけです。だから、こうした話題というのはそもそもご法度なんですね。

でも、怖いのを一時脇へ置いておいて、冷静に考えてみるとそれほど理不尽なことでもないという気もしてくるものです。

それというのも、本質的なというか、本当の自分はいないと言われているわけではないからです。あなたという本質は消えることはできないということでもあるのですから。

あなたが単に、これが自分だと信じているだけなのだと言っても、いいや信じているのではなくて、れっきとした事実だと言い張るのが普通です。

けれども、真実は他にあると囁かれて、それを完全に無視したり、バカバカしいことだと決め付けるのは勿体無い話しだと思うのですが、いかがでしょうか?

ここで、人が二手に分かれてしまうように感じています。真実を知りたいという人と、そんなことよりも明日の幸せを手に入れることが大切だという人に。

しかし、真実を知りたいと願っている人だって、自分の幸せはどうでもいいなどと思っているわけではありません。

それどころか、真実を知ることによって、どうもがいても手に入れることができなかった真の幸福を得られるかもしれないという期待があるはずです。

話しが逸れてしまいましたが、とにかく本当の自己というものが消えてなくなるということはないということを前提にすれば、恐怖は減るはずです。

そして、これが自分だと信じ込んでいるとするなら、どのようにそうなったのかを見つめ返してみることが必要だと分かります。

それには、実はそれほど時間がかからないのです。それは、少しやってみれば感覚として分かるときが誰にでも来ます。

これが自分だと思っている自分を、とにかく疑ってかかってみることです。私は疑うのが大好きです。エゴはエゴによって、それ自身を暴くきっかけを作ることができるんです。

人は天使にはなれない

ずっと以前の辛島美登里の曲で、サイレント・イヴというのがありました。その歌の二番のデダシのところに、以下のような歌詞があるんです。

♪

本当は誰もが やさしくなりたい

それでも 天使に人はなれないから…

♪

そんなこと当たり前じゃないのと思っていたのですが、意外にもこれを地で生きている人って多いんだなと思うようになりました。

つまり、私から言わせると、あなたは本当に天使でありたいと思ってるんじゃないの?と突っ込みを入れたくなるわけです。

自分は、自分だけはそんな醜い考えや、人でなしな感情など、持っているはずがないと思いたい気持ちが満々なのでしょう。

人は、美しい心も醜い心も当然のごとく持っているはずなのに、どうしても自分のこととなるとそれを認めたくないという頑固さ。

いつも人にやさしい気持ちで向き合っていたいと思うのは勝手ですが、私に言わせればそれができるのなら、それは人間じゃなくて天使だと言いたいのです。

この世界はすべて相反するもの同士が一対となって、現象を実現しているのですから、美しさがあれば必ず醜さがあるのです。

下のない上とか、右のない左を神は創れなかったのです。醜さのない美しさを創れなくても当然だということにしっかりと気づかねばなりません。

美しいのも醜いのも、人としての自分の本性なのです。その一対はとても神にとっても重要なものなのです。美しさだけなら、この世界は消えてしまいます。

それを何とかしようとすればするほど、人は苦悩の中に絡めとられてしまうでしょうね。何ともしないということ、これ以外にはありません。

知覚における0.5秒の遅延

昨日のブログで、完全に自由に、何の制約も課せられない状態で、ある決意をしたときには、その決意の瞬間よりも0.5秒も早くに無意識のままに脳からの発動があるということをお話ししました。

つまり、自分が今このタイミングで決意したと感じる瞬間というのは、実に脳からの指令が出てから0.5秒も経過した後だったということです。

この事実については、驚かない人はいないはずです。一体全体、自分が決意したと感じることとは、何なのだろうと思わずにいられません。

そして、この0.5秒というあまりにも長い不可思議な遅延時間は、見る、聞く、触れるなどの知覚についても言えるのです。

自由意志による決意というのは、外的な要因を一切排除した、完全なる内面からのものであるということが言えますね。

ところが、外側からの刺激に対する気づきについても、それと全く同じようにして0.5秒の遅延をしているのです。

もっと分かりやすく言えば、どんな知覚でもいいので、例えば信号機が赤に変わったと気づくときには、実際の信号機が赤に変わってから0.5秒も経過しているということです。

そんなはずはないと思いますよね。でも、これは実験から導き出された正確な遅延時間なのです。ところが、不思議なことに私たちの気づきには、その遅延を補正する能力があるらしいのです。

つまり、タイミング的には間違いなく0.5秒遅延して気づきがやってきているはずなのに、その遅れを巻き戻して感じるようにしているということです。

この事実を知っても、私自身、にわかにああそうですかとスルーすることができませんでした。それでも、これは事実なのです。

気づいているという意味での意識というのは、本当に理性では類推することさえできないような謎に満ちているものなんですね。

そしてそれこそが、本当の私たちの姿なのでしょう。謎に満ちた自己を、現象を通して知ろうとすることが、この世界の唯一の目的なのかもしれませんね。

自由意志がないことの検証 その3

昨日も書きましたが、自由意志があるかないかということについて、真剣に自分なりに検証していくことがとても大切なことだと思います。

誰の言うことも信じてはなりません。こうした問題提起があったなら、そのことに無関心でいるよりも、真摯な態度で検証していけばいいのです。

そこで、今日は脳神経科学の分野では当たり前になっている、驚くべき実験結果についてお伝えしたいと思います。

科学者であっても、人間には自由意志が本当にあるのかどうか、ということに興味を持って向き合っている人たちが沢山いるんですね。

実は、そうしたことへの興味が最初にあったのかどうかは分からないのですが、度重なる実験によって、そうした疑問が浮上してきてしまったと言ったほうが正確かもしれません。

様々な科学者が、本当に様々な実験をしてきており、その結果、人は自由意志によって何かを行動しようとするときに、その決意の0.5秒前に脳からの指令が発せられているということが分かっています。

つまり、あなたが右手を上げようと決意し、その通りにほとんど瞬時に右手を上げることができますが、その0.5秒も前に無意識的に脳内で決意のスタートを切っているということです。

ということは、私たちは自分の完全な自由意志によって、右手を上げたと感じているのですが、実際には自分の意識できないところで、その決意の元となる脳内の信号が発動していたということです。

神経学的には、0.5秒というのは恐ろしく時間がかかっていると感じますし、私たちが今この瞬間に決意したと思い込んでいるのは、間違いだったと言うことが証明されているのです。

ただ、この事実がすぐに自由意志がないという結論に向かうことはできません。ただ、決意が起こるのに、自由意志があってもなくてもいいということは言えます。

しかし、もしもその行為を決意したすぐその後に、やっぱりその行為を止めようとする時に、自由意志を使うことができるという考え方もできます。

最終的には、止めるという決意に対しても、それに先がけて脳内での指令が発動されているのかどうかは、実験が複雑すぎることによりまだ実現していないというのが現状のようです。

みなさんが信じられるかどうかは別として、自分の決意というものが実は無自覚の中から、しかも0.5秒も前に発動していたということが明らかだと聞いて、どのように感じますか?

私の個人的な感覚では、それこそが大いなる意識からやってくる指令なのではないかと思うのです。

もしもそうだとしたら、私たちが持っている罪悪感には、全く何の意味もなかったということになりますね。そして、大切だと思われている向上心なども、色あせて見えてきます。

過去の失敗を後悔することも、未来に不安を持つことも、ほどほどにした方がいいのではないかと思いませんか?

自由意志がないことの検証 その2

少し前に、このブログで自由意志などないということを書きました。そのことについて、もう少し、補足というか明確になったことがあるので書いてみようと思います。

自由意志の存在を否定するために、逆に自由意志があるとして、我々はいつどんなことで自由意志を使っていると感じるのかを検証します。

それは勿論、何かを決意するときですね。ほんの些細なことであったとしても、たとえばトイレに行こうというようなことにしても、決意していると思っているはずです。

私たちが何かを決意するということを、少しばかり深く見てみると、二種類のケースがあると気づきます。

一つは、その決意をすることに至った理由なり、原因がある程度分かるような場合です。こういったいきさつがあって、これを決意することになったという場合です。

その理由が明確であろうと、曖昧であろうと、いずれにしても何らかの原因があって、決意するという結果があるということです。

けれども、この場合に自由意志が使われていると感じるのは、単なる主観ではないかと思うのです。なぜなら、理由となる原因は、前もって与えられていたものだからです。

それは、生まれ持ったDNAと、生育環境などから与えられた条件付けの組み合わせによって、私たちは個人個人で反応の仕方が決まってくるのです。

その反応を持ちつつ、現在の状況が与えられた結果として、自分は決意したというように考えることはできないでしょうか?

与えられている条件があまりに複雑であるために、それを一つひとつ解明することはできませんが、原理的には充分理解できることだと思います。

そしてもう一つの決意するケースですが、それはそれを決意した理由がまったく自覚できないという場合です。

例えば、右と左のどちらを選ぼうにも、自分の中に選ぶための理由付けをすることができないようなケースがありますね。

それでも、最終的にはどちらか一方を選択するという決意が起こるのですが、それこそ自由意志などとは呼べないようなものではないでしょうか?

その結果は、どこかからやってきたとしか、いいようのないものです。何の理由も見当たらない決意ほど、自由意志と結びつかないものはありません。

というわけで、どちらの場合であろうと決意するという事象が起きたときには、自由意志があろうがなかろうが、それはただ起きたのです。

それは結果として、自由意志などないということになるのではないかと思うのです。これは、私の勝手な解釈ですので、鵜呑みには決してしないようにして下さい。

それどころか、充分に疑いを持って、自ら検証してみることをお勧めします。なぜなら、自由意志があるかないかという問題は、人生が根幹から変わることになる可能性があるからです。

悟りは何も与えてはくれない

ガンガジの本に次のような記述があります。

+——–

もう一つの自己探求の手段として、自分にこう尋ねてごらんなさい。

悟りは私に何を与えてくれるだろうか?

あなたがどれだけ正直になる気があるかによって、

こうした自己問答から得られる答えには無限の可能性があります。

正しい答えなどありません。正直になる、それがすべてです。

ちょっとの間、真剣に考えてみてください。

もしも悟りがあなたに何ひとつ、与えてくれなかったとしたら?

物理的にも、理性的にも、感情的にも、

そして状況的にも何ひとつ得られるものがなかったら?

実のところ、悟りはあなたにどんなものも与えてはくれません。

その真実を受け入れる意思があなたにはありますか?

それがあるならば、あなたは自由です。

その意思があなたになければ、あなたの心は、

願わくばあなたに自由を与えてくれる何ものか、に縛られたままでしょう。

+——–

昨年、自分とは誰でもない全体性だと感じてから、本当の自分の姿を可能な限り信頼できるようにと、自分なりの練習をしてきました。

そして、この文章に出会ったときに、足元をすくわれたような感じがしました。「確かに、実のところ、悟りはあなたにどんなものも与えてはくれません。」

ああ、そうだよなあと。一体自分は何を期待していたのだろうか。その期待している自己がいる限りは、本当の気づきはやってこないと分かっていたのに。

一周して、以前よりも淡々とした気持ちで、自己を観照する練習を続けていけそうな気がします。

過去に書いたコラムと今書いているブログの矛盾について

この仕事をするようになって、日々のクライアントさんとのセッションを通して得ることができた様々な気づきについて、沢山コラムとして書き留めておいたものです。

あの頃は、本当にまじめにコツコツとコラムを書いたものでした。その中で、今でもはっきりと覚えているのは、「人生は自作自演」という題名のものです。

会社員の頃にはそれほど、はっきりと意識していたわけではなかったのですが、気がついたら、自分の身に起こることは自分が起こしていると思えるようになったのです。

つまり、自分がどんなに傷つけられたと思っても、そこには加害者としての他人も被害者としての自分もいないということ。

すべては、自分自身の台本通りに人生が動いているだけなのだということ。この理解を得られることで、人は相当に心が穏やかになっていくのです。

それを投影という言葉で表現していたかどうかは忘れましたが、この世界のすべては自分のマインドが投影しているもので成り立っているということです。

けれども、このことは実は「私」という個人が現実として存在する、ということが前提でのお話しであって、そのレベルを超えてしまえば、意味のないこととなるのです。

なぜなら、このブログでも再三お伝えしているように、この宇宙のあらゆる出来事は自動的に起きるということ、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない。

このお釈迦様の残したとされる言葉の真意が分かれば、マインドの投影というもの自体が真の源泉の上で起こされていたことだと理解できるからです。

何かを人に言葉で伝えるときには、一体どこのレベルについてのことなのかということを、いつもしっかり把握しておかなければ、矛盾したことを伝えることになってしまいます。

以前コラムに書き溜めた文章のほとんどが、そのようにして「私」という存在の確かさというものが前提だったということです。そのレベルでは確かに役に立つ内容でした。

しかし、それが崩れてしまった今となっては、あのコラムととてつもなく矛盾したことばかりを、最近の自分は書いているという自覚があります。

これはもう仕方のないことだと思っています。いまだに、あのコラムを読んでセッションに来てくださる方々がいるのは本当にありがたいことです。

その方々が、このブログの内容を読まれたとしたら、もしかしたら混乱されてしまうんじゃないかと思ってしまいますが、それも自動的に起きていることだとも言えるわけですね。

目を閉じれば、距離はない

先日また新たに始まったヒーリングの講座で、少しびっくりする体験をしました。気づかぬうちに、自分の感覚が変化していたのです。

と言っても、そう大した話しでは元々ないのですが、ヒーリングの練習をする前に、グラウンディングの簡単な方法をみなさんにお伝えするのです。

ただ目を閉じて心を静かにするだけの、簡単な瞑想をしながら、第一チャクラから地球の中心へ向かって、グラウンディング・コードを下ろしていくというものです。

下ろすといっても、自分の力でやっていくのではなくて、すべてを「あちらの力」に委ねて、やってもらうということなのです。

今までは、地球の中心まで到達したグラウンディング・コードをそこでしっかり固定してもらい、下からぐぃっと引っ張ってもらうというイメージをしていました。

今回もそのように言葉で伝えていたところ、どういうわけか今までと違って、地球の中心と自分との距離がゼロになってしまうことに気づいたのです。

つまり、目を閉じたときの自分の中でのイメージが、まるっきり以前と変化してしまったということです。自分を小さな個体だと思えなくなっていたということです。

少なくとも5ヶ月前に行った前回の講座では、そのようなことはなかったと記憶していますので、この数ヶ月の間での変化と言えそうです。

思い返してみれば、瞑想といえるかどうかは別として、とにかく一日のうちで目をつぶっている時間がとても多かったのです。

そんなことをしている間に、自分の全体性という感覚が根付いていたのかもしれません。人間、練習すれば少しはなるようになるものですね。

目を閉じると、どんなものとの距離も一瞬にして喪失してしまうようになったのだと思います。本当は、距離というものはないのですから。

結局、以前のようなグラウンディングをする必要が、もうなくなったなあと感じています。だからどうということは、何もないのですが…。