個人である限り満足はない

私たちの共通の課題は、どうにかして幸せになるというところにあるのです。幸せとは満たされた心の状態を指すのです。

これがどれほど原理的に不可能なことかを理解したら、人生を生きる感覚や生き方が変わってしまうのです。

まずはっきりさせなければならないのは、満たされることと一時的な安心を得ることは、全く違うことだと気づくこと。

自我(個人という自覚)として生きている限り、そこにはどうしても防衛が付きまとうのです。

なぜなら、自我は不安と恐怖と孤独をベースに生きているからです。そこから脱出して安心を手に入れたいのです。

それを幸せになることと混同してしまっているのです。人生で自我が手に入れた安心はほんの束の間の一時的なものでしかないのです。

またすぐに不安や孤独がやってきて、その繰り返しなのです。社会でどれほど高い評価を得ても、素晴らしい業績を残したとしても、あなたが自我であるなら満たされることはありません。

問題は人生をどう生きたかということではなく、自分の本質に気づくかどうかの一点にかかっているということです。

あなたが戦い(防衛)から軸足を外して、無防備へと進んでいくにつれ、自我のエネルギーが小さくなっていくのです。

そして自我のせいで気づけなかった自らの愛に目覚めることができたなら、理由のない至福に満たされることになるのです。

あなたは日々何を目指して生きているのか、もう一度じっくりと見つめてみるといいと思いますね。

疑問も質問も答えもない

小さい頃には何か疑問なことがあれば、すぐに親に聞く子供でした。初めのうちは純粋に聞いていたものが、親に聞いてもあまり納得する答えをもらえないと分かってからは、あまり期待しないで聞いていたのです。

だから質問魔と言うほどではないにせよ、「なんで?」というのが口癖のようになっていたと思います。

大人になってもそうした部分はあまり変わらずにあって、分からなかったり、納得がいかないことは、それを問い正す傾向が高いのです。

ところがセラピストになってからは、質問をされる側の立場になったせいなのか、日頃疑問に思うことがあってもそれを解消しようとすることが減りました。

さらには、真実に近づきたいという思いが強くなってからは、より一層疑問がなくなってきた感じがします。

というより疑問がやってきたとしても、それをそのままにしておく習慣がついたのですね。なぜなら疑問は思考であって、それを解決したいのも思考だと理解できたからです。

真実はどんな疑問も質問も全く受け付けません。それが思考からくるものである限り、真実からはどんな答えも期待できません。

思考で理解できるようなどんな答えもないからです。飼い犬に、飼い主さんが仕事に出かける理由を説明できないのと同じようなものですね。

真実には疑問も質問もないし、同様にして答えというものもないのです。これが無の境地かもしれません。

瞑想は自己消失の恐れをもたらす

一般的には、瞑想が苦手だという人は案外多いのかもしれませんが、瞑想の得手不得手というのはないのです。

なぜなら瞑想は何もしないことだからです。何かをすると言う場合に限って、得意不得意というのがあるのですから。

何もしないことが不得意という変な日本語は、何かしていないではいられないマインドの状態であるということですね。

マインドが常に活動し続けていなければ、何か危機的な状態に陥ってしまうという恐れがあるということです。

その恐れとは何だと思いますか?それは、自分が消えて無くなってしまうかもしれないという恐怖なのです。

私自身、未だに瞑想の中へと入っていくときに、若干の緊張がマインドのどこかに起きるのを感じます。

それと呼吸が不自然な感じになるのです。どちらも一旦瞑想状態になってしまえば消えてしまうのですが、毎度お決まりのようにスタートしたときにやってきます。

そうしたマインドの反応を見ているだけでも、立派な瞑想になるということが分かってからは、なんとも思わなくなりました。

瞑想のコツがあるとするなら、無念無想を目指すのではなく、ただ内側に意識を向け続けることですね。

「組織」も苦手

つい先日のブログで、「族」が苦手だということを書きました。俺たちは特別なんだ!というのが透けて見えるからです。

そこから派生して、もう一つ書きたいことがあったので、今日はそれについて書いていこうと思います。

「族」は組織を作りますね。暴走族だって、カシラがいてその下にきっと◯◯の役割といった係りができるのです。

つまり人が集まって団体として機能させようとすれば、必ず組織というものが出来上がるわけです。

そこで大抵は組織そのものと組織の組員(人間)との間で、妙なことが起きてくるのです。

それは、人間のために組織が作られたはずなのに、組織の方が人間よりも大切になってきてしまうのです。

たとえば、信者のためにこそある教会が、教会を守るために信者が大変なボランティア活動を続けたりするのです。

家族の一人ひとりが大切なはずなのに、家族という団体を守ろうとして苦労を重ねてしまうということです。家系を守るとか、お墓を守るというのも同じです。

組織を守りだすと、間違いなく腐敗が始まるのです。そうなったら、その組織は人にとって有害なものに成り果ててしまいます。

人の役に立てようとして組織が作られるのは問題ないのですが、一度組織を守ろうとする動きが出て来たら、すぐにでも解体できるような仕組みがあると良いのにと思いますね。

思考の中にいることに気づく

私たちはともすると、思考の中でもみくしゃになって生きているということを忘れてしまうのです。

朝起きてから夜眠りにつくまでのほとんどが思考まみれ。果ては眠っている間であっても、思考は夢という形となって現れる始末。

まさに思考思考思考。とどまることを知らずに、思考の中で溺れてしまっているかのようなものです。

ちょうど魚が海の存在を知らないように。魚は周りが海だらけなので、海が分からないのです。

だから気づくことです。これもあれも思考の働きによるものだと。思考が惨めさを作り、罪を作り、価値を作り、非喜劇を作るのです。

もしもあなたの人生に問題があるなら、それは思考による判断がそのように思わせているのです。

私たちは、救いも思考の中に見出そうとしてしまうのですが、思考の中に真の救いはありません。なぜならそれは思考だから。

真の救いは、その逆に思考のないところにあるのです。たとえばあなたが自分のことを罪深いと感じて苦しいのなら、あなたがどれほど頑張ったところで救いはありません。

救いは、罪深さというのは思考の中にだけあるものだと気づくこと。思考の世界から一瞬であろうと抜け出せたなら、そこには何もないと分かるのです。

これを知ったなら、私たちの誰もが初めから救われているのだと気づくことができますね。

「族」を好まない理由

家の族と書いて家族と読むのですが、改めてこの「族」という言葉が自分はあまり好きではないと気づきました。

親族とか一族、あるいは貴族や豪族なんてのもありますが、ずっと族という漢字を見ていると、今この瞬間完全にゲシュタルト崩壊が起きています。

現代においては、ただ族というと暴走族を連想してしまうかもしれません。なぜ「族」という言葉が苦手なのか、少し考えてみました。

すると、俺たちは特別なんだぞ!というようなニュアンスが浮かんできました。これって、異教を徹底的に否定する宗教争いにも共通するものです。

この特別さが大事というのは、自我の特徴なのですね。自我は特別さが何よりも大好物なのです。

自分一人でも特別さが欲しいのですが、それが難しいと知ると、誰かと結託してみんなで「俺たち特別」を作り出すのです。

自分は特別だし、自分の家族も特別。自分の血族や自分が属している組織も特別になってしまうのですね。

それに比べて、ただ身近な人をゆる〜く応援するというのは、余裕があって良いなと思います。

本当にあなたの中に「私」はいる?

人生において最大でありかつ唯一の秘密は、「私」はいないということです。あまりのことに、多くの人は全く受け入れようとはしないものです。

人生とはこの私がいて成り立っているものなのですから。私がさまざまな経験をして、場合によっては成長していずれは死んでいくものだと信じているのです。

だからその中心人物である私がいないなんてことは、もしもそれが真実だとしたら、これ以上衝撃的なことは他にないでしょうね。

誰にとっても私が大事なはずなのに、自分以外の誰かのことばかりを気にして生きている人が沢山います。

そうやって外側のことにばかり気を取られていたら、最大の神秘である私はいないということに、気づくはずもありません。

というよりも、気づきたくないがために、ずっと外側ばかりを観ているのだとも言えるかもしれません。

どれほど外側を見続けたとしても、真実を見出すことは不可能なのです。科学というのは、外側の世界の観察に頼っているものなので、真理を極めることはできません。

一度でも内側の広大無辺の世界を見たなら、人は変わってしまうでしょうね。生きる基盤であった私の存在が揺らぎだすからです。

私がいたら、私が邪魔をするので真実は見ることができなくなってしまうのです。私がいない時、あなたはこの宇宙と、全存在と一体になるのでしょうね。 

自分に意識を向け続ける

人生で何か辛いことがあったりした時に、毎日を忙しくすることで乗り切ろうとする人がいますね。

それは理にかなっています。忙殺されれば、嫌なことを思い出すことも減るし、何よりも思考の活動が緩むからです。

何かに熱中して我を忘れた状態では、思考は過去や未来へと飛ばなくなるのです。だから何かを忘れたい時には都合がいいのです。

ただし、夢中になるというのは、決して意識的であることと同じではありません。どちらかといえば、無意識状態であると言った方がいいのです。

お腹が空いたワンちゃんが、脇目も振らずに餌に食らいつく様を思い出せば、そこに意識がないのは明白です。

人間もそれと全く同じこと。何かに一心不乱に取り組んでいると、気持ちの良いものです。

それは思考の活動が低下してくれるからです。けれども、意識はどうかというと、大体は無意識状態なのです。

思考を落としても無意識になってしまうなら、動物や幼児と同じになってしまうのです。それでも、日頃から思考過多の人にとっては良いのかもしれませんが。

最も大切なこととは、思考があろうがなかろうが、意識的であるということなのです。

そして意識的であるとは、自分自身の存在に意識が向いているということです。そうなると、自動的に思考は静かになってしまうはずですね。

自分本位の勧め

ちょうど二十年前にこの仕事を始めてから、すぐに気がついたことなのですが、まるで奴隷のように生きている人が沢山いるんだなということ。

自己表現もろくにせず、誰かの言いなりになって、自分を優先することができずに、我慢ばかりして生きている人。

セッションでいつも言っていたことは、とにかく自分本位に生きるようになって下さいということでした。

もちろん今でもそれは変わりません。自分本位というのは、自分を尊重するということです。自分を尊重するからこそ、他人のことも尊重できるのです。

奴隷のようにして生きているのは、他人を尊重しているのとは大違いです。不安や恐怖から逃れたくて、人の言いなりになっているに過ぎないのです。

自分と他人は対等だと分かるからこそ、人を尊重することができるのです。もしも奴隷のように他人からコントロールされているなら、いずれはあなたが今度はコントローラーになってしまうのです。

世の中の人が、みんな自分本位に生きるようになったなら、きっと戦争も無くなってしまうだろうし、多くの争い事や病気なども激減するでしょうね。

なぜなら誰もが無理せずに気持ちよく、正直に生きるようになるからです。こんな簡単なことなのに、人類はそれがまだできてないのですね。

そのままにしておく

子供の頃は、父親の実家によく遊びに行きました。東京からそれほど遠くもなく、それでいて自然がいっぱいある環境が気に入っていました。

とにかく途方もなく広い土地の中には、小川が流れていたりして、夏になるとそこに無数のホタルがやってきて、ものすごく綺麗だったのです。

小学生くらいだった自分は、美しい光を点滅させるホタルをどうしても捕獲したくて、確か一匹か二匹くらいを生捕にして、マッチ箱の中に入れて家に持ち帰ったことがありました。

ところが、そのホタルは家に着いた時にはもうすでに息絶えてしまっていて、本当に可哀想なことをしました。

一般的な虫取りもそうですが、なぜ子供達は自然の中で生きている生物をすぐに自分のものにしようと手を出してしまうのか?

どうして綺麗なものをそのままにそっとしておくという考えがないのか?特に男子にそうした傾向が強いように思いますね。

女子の場合には、たとえば野山に咲いている草花を摘んで帰って、部屋の花瓶に生けて飾るなどがあるかもしれません。

自我の所有欲を満たそうとする行為なのか、あるいは探究心からの行為なのかは分かりませんが。

大人になった今は、ただただそのままにしておいて、手を出さないというのが最も気持ちがいいように感じています。

虫はそこで飛んでいたいのだろうし、花はそこに咲いていたいのだと思うようになったのですね。自然は手付かずだから美しいのだと思います。